吹奏楽部 中島絵里
夕暮れ時の校舎に、窓ガラスを揺らすようにかすかな木管の響きが漏れ入る。放課後の教室には、部活終わりのアンサンブル特有の、どこか気だるさと熱気が入り混じった音が漂っていた。
そんな音を聞きながら、私と藤田くんのクラリネットパートメンバーはリードの湿り気を確かめている。もう1人いるが今日は遅れてくると連絡があった。
「ねえ、ここの16分音符の跳躍、息のスピードが落ちちゃうと音が裏返るからさ……。ちょっと一緒に、タンギングなしで吹いてみない?」
リガチャーのネジを少しだけ緩めてリードの位置を直しながら藤田くんに話すと、彼はコクンと頷く。なんだろうなぁ、この距離感。彼が入部してはや半年。他の子とは普通にやり取りしてるのに、パート練になるとこんな感じになる。「私、怖いのかな?」以前そんなことを友達に相談したがはぐらかされただけだった。何よ、生暖かい目で「大丈夫。怖いわけじゃないと思うよ。時間が必要なんだよ」って。
「じゃあ、いくよ……せーの」
私の合図で、ふたり同時に息を吸い込む。カチリと音がしそうなほどタイミングの合ったブレスのあと、黒い管体からまっすぐな音が放たれた。
狙ったように裏返ることなくパートを通し切った。
「……いまの、悪くなかった、よね?」
私が少し探るように言うと、藤田くんはハッとしたようにこちらを向き、慌てたようにマウスピースから唇を離した。
「はい、すごく……合わせやすかった。ありがとうございます、先輩」
その「先輩」という響きが、なぜだか今日はやけに遠く感じられて、私は小さく息を吐き出した。
そこに、ガラガラと音楽室の引き戸が荒々しく開く音が響いた。
「ごめん遅れたーっ! 生徒会室の雑用が長引いちゃ った」
息を切らせて駆け込んできたのは、もう一人のクラリネット仲間――私たちのこの微妙な空気感を、いつも面白そうに観察しているクラスメイト・結衣だった。
「あ、いいところだった? もしかして邪魔しちゃった?」
「はいはい。結衣も準備して」
「結衣先輩お疲れ様です」
なんだろうこの温度感の差。ちょっとへこむわー。
別の日。今日も結衣は遅れており、藤田くんと2人っきりの練習だ。
「じゃあ……さっきのフレーズ、もう一回合わせておく?」
私がそう切り出すと、譜面台の向こうで藤田くんがビクッと肩を揺らした。……ねえ、今のは別に脅かしたわけじゃないのに、なんでそんなに身構えるの?
「じゃあいくよ。せーの」
胸にモヤモヤが溜まっていくが、ひとまず傍に置いて練習を続けていく。
途中まで順調だったが、突然藤田くんの音から柔らかな丸みが消え、薄っぺらい感じになる。
「あー。リード割れちゃったかな?」
「みたいですね。ぱっと見変なことはないんですけど」
「んー。見せてみて」
藤田くんからクラリネットを受け取り、軽く確認するが見た目的には問題なさそうではある。自分でくわえて吹いてみると、高音が出ず、音に丸みがない。
「ありゃー。だめだね。裏側かなぁ。リード変えてみようか。これ、私の予備だけど、新しいのに変えてみたら?」
そう言って自分のケースから未開封のリードを取り出し、藤田くんに手渡そうとした――
「あ……」
呟いてから、私ははたと気づいた。さっき、彼のマウスピースを私が一度口にくわえ、音の鳴り具合を確認したばかり。彼はその直前までそれを自分の口に――。
「――っ!」
藤田くんの顔が、一瞬でトマトのように真っ赤に染め上がった。
「ち、違うの! これはただ確認しただけで……! ごめん。いやだよね」
「い、いやじゃないです」
食い気味に藤田くんは答えると、
「いやっていうか、むしろ嬉しいというか。絵里先輩のだから」
そこまで早口でまくしたてた彼は、自分の口から飛び出した言葉の破壊力に今さら気づいたらしい。ピタリと動きを止め、カチコチに硬直した。
――え? 今、なんて……?
私の脳内も一瞬で真っ白になる。
「え、あ、いや、その、違うんです! そういう意味じゃなくて、あの、リードのメーカーが同じで吹きやすいなって意味で、その、うわぁぁぁぁ!」
頭が沸騰したのか、藤田くんは両手で自分の顔をわしゃわしゃと雑に覆い隠し、その場で床に崩れ落ちそうになる。
「まって、自分で言っといてなんだけど恥ずかしすぎて死にそう……! 忘れてください! 今の全部巻き戻して! 消して!」
「消せるわけないでしょ! そんな爆弾いきなり投げといて消せるわけないじゃん! ちょっといいなって思ってた後輩が私にだけそっけなくて壁があるなー。悲しいなーって悶々としてたのに。それが好意があってだって!」
勢い余って、自分の胸の内まで全部ぶっちゃけてしまった瞬間、私の動きがピタリと止まる。
……え? 今、私、なんて言った……?
「…………あっ」
頭の中で盛大に警報音が鳴り響いた。顔の温度が一気に沸点を超え、さっきまでタコみたいになっていた藤田くんの顔の赤さすら軽く超えていくのが自分でもわかる。
両手で自分の顔をバッと覆い隠し、今度は私がその場で膝から崩れ落ちそうになった。
「なっ……! え……? 今の、先輩、それって……俺のこと……?」
床を向いたまま固まっていた藤田くんが、おそるおそる顔を上げる。その視線に耐えられなくて、私は真っ赤になった顔のまま、持っていたクラリネットのケースを盾にするように身体を丸めた。
「もうやだ! 私のバカ! 口から変なもの出た! 忘れて! 今の今の全部巻き戻して!」
「ま、待ってください先輩! それってつまり、俺が避けられてるんじゃなくて……その、お互い様だったってことですか……?」
「うるさい! 聞かないで! ていうか藤田くんがいつも変に敬語使ってカチコチになるからでしょ!」
「だって先輩がかっこよすぎるから緊張するんです! 目を合わせると頭真っ白になるんです!」
「なんだそれ! 今さらそんな可愛いこと言わないでよ余計に恥ずかしいでしょ!」
さっきまでのコチコチの敬語も、よそよそしい「先輩・後輩」の壁も、今の勢いで完全に吹き飛んでいる。私たちは譜面台を挟んで、顔を真っ赤にしたままお互いを指さし合ってわちゃわちゃと抗議し続けた。
「そもそも何よ! ちょっといいなって思ってた後輩が、他の子には普通にするのに私にだけやたらそっけなくて、壁作ってきてさ! 私が嫌われてるのかってどれだけ悶々としたと思ってんのよ!」
「えっ、そ、そんなつもりじゃ……!」
「そんなつもりじゃなくても! 私の半年間の気苦労と片思いのモヤモヤを返せってのよ! なのに何、結衣の前では普通で、私の前だとカチコチになって『先輩』とか線引いて……って、うわああああ私なに自分でバラしてのよバカバカバカ!」
勢い余って本当の本音まで全部口走ってしまったことに気づき、私は自分の頭を両手でガシガシと雑に掻きむしった。顔から湯気が出そうくらい熱い。
すると、そこまで頭を抱えていた藤田くんが、ガタッと譜面台を大きく揺らして顔を上げた。その顔はトマトを通り越して真っ赤だったけれど、目はまっすぐに私を見据えていた。
「っ、俺だって……!」
藤田くんが声を裏返らせながら、机をバンと両手で叩く。
「俺だって必死だったんです! 絵里先輩がかっこよくて、優しくて、でも自分なんか全然相手にされてないって思って……! だから少しでもちゃんとした後輩に見られたくて、余計に緊張して、でも他の女子みたいにフランクにいったら嫌われそうで怖くて……!」
「なっ……なんだそれ!」
「先輩ばっかりズルいですよ! そんなこと言われたら、もう隠しようがないじゃないですか!」
勢い任せに言い切ったあと、教室には私たちの荒い息づかいだけが残った。
夕暮れの茜色が、いつの間にか私たちの真っ赤な顔を優しく包み込んでいく。
「……その、なんだ。藤田くんは私のこと好きってことでいいのよね?」
どうにかこうにか気を取り直し、私が小さな声で問いかけると、藤田くんはこくんと大きく頷いた。
「はい! ……そのっ、あの…………。これからも、よろしくお願いします」
改めてまっすぐに伝えられた言葉に、気恥ずかしさと嬉しさが同時に押し寄せて、私の声はだんだんと小さくなっていく。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私たちは気まずそうに、けれどどこか嬉しそうに視線を泳ガせた。
その時――
ガラガラ、と教室の引き戸が軽く開いた。
「お二人さん。廊下まで響いてましたよ?」
戻ってきた結衣が、呆れたような、けれど底抜けに面白そうなくすくす笑いを浮かべてこちらを見ている。
「結衣先輩……っ!」
「結衣!……いつから!?」
「うーん、『先輩ばっかりズルいですよ!』のあたりからかな? もう、お姉さんどうなるかハラハラドキドキでしたよ」
ひらひらと手を振る結衣の言葉に、私たちの顔の温度は再び限界突破を迎える。
「あ、でも安心して。――まあ、両想いおめでとうって感じだから、今日はもう続きどうぞ! お邪魔虫は消えますね。あ、甘々な掛け合いごちそうさまでした」
ニヤリと笑った結衣は、ピシャリと扉を閉めてパタパタと去っていった。
真っ赤な顔で見つめ合う私たちを、窓の外の夕暮れがどこまでも優しく照らしている。
……ただ気のせいだと思いたい。足音が結衣だけじゃなかった気がするのは、きっと私の気のせい、だよね……?




