吹奏楽部 中島絵里 その後
放課後の教室から漏れてくる音色を聞きながら、私は生徒会室の片付けをわざとゆっくり進めていた。
――だって、あそこは今、世界で一番、見ているこっちがむず痒くなる特等席だもの。
クラリネットパートのメンバーは三人。だけど、実質あの二人にとって私は「三番目の人間」、つまりただの背景美術か、あるいは格好の引き立て役にすぎない。
……まあ、当の本人たちは自覚ゼロみたいだけど。
藤田くんが入部してきたのは半年前。真面目で、少し神経質なくらいピシッとした敬語を使って、先輩たちの後ろをついて回るだけの可愛い後輩、だったはずだ。
他の女子部員には普通に話すのに、なぜか絵里にだけはやけにそっけなくて、背筋を伸ばしてカチコチになって――。
それを絵里は「私、嫌われてるのかな……?」って、私に相談してきた。授業中、教科書の端っこをグリグリ削りながら、ものすごく真剣に悩んでる顔をしてさ。
バカだなあ、と思った。
あんな分かりやすく挙動不審になって、目が合うだけで心臓が飛び出しそうになってるの、少し周りを見れば一発で分かるのに。絵里は自分のことになると、途端にポンコツなんだから。
だから私は、わざと遅れて教室に行くことにしていた。
私がいないときの二人の空気感は、きっと私がいちゃいけないくらい密度が高くて、甘ったるい炭酸水みたいにシュワシュワしているはずだ。それを想像するだけで、ニヤニヤが止まらなくなる。
「ごめん遅れたーっ! 生徒会室の雑用が長引いちゃって!」
今日も定番のセリフを吐いて引き戸をガラガラと派手に開ける。
案の定、二人はビクッと肩を跳ね上げて、不自然なほど素早くパッと距離を取った。ねえ、そこまで露骨に離れなくても誰も食べたりしないっての。
「あ、いいところだった? もしかして邪魔しちゃった?」
わざと茶化すような声を出すと、絵里は慌てたように「はいはい。結衣も準備して」と私を追い払おうとするし、藤田くんは「結衣先輩お疲れ様です」と、またロボットみたいな硬い敬語に戻る。
――あーあ、もったいない。私がいなければ、今頃もっといい雰囲気だったのにね。
でも、今日の私はいつもと少し違った。
まさか、あんな「事件」が起きるなんて、このときの私はまだ知らなかったんだ。
その日も、私はわざと少し遅れて教室へ向かっていた。
だが、階段を登る私の耳に絵里たちの赤裸々暴露大会が飛び込んできた。一瞬、「……はっ?」となったが、急いで階段を駆け上る。
「先輩ばっかりズルいですよ!」
「私だってどれだけ悶々としたと思ってんのよ!」
肩で息をする私の視線の先には、すでに音楽室の引き戸の周りを囲む、数人の野次馬たちの姿があった。授業終わりの生徒や、通りすがりの男子たちが、ニヤニヤしながら聞き耳を立てている。
どうやら私がやってくるよりずっと前から、あの赤面必至の全告白、全暴露、全ラブラブキャッキャウフフな大音声のやり取りは、廊下を通りかかった連中に丸聞こえだったらしい。
――これ、明日学校に来たとき、二人は間違いなく全校生徒の語り草になる。
私の可愛いクラリネット仲間たちの甘酸っぱい青春の結末が、こんな野次馬どものおもちゃにされてたまるか。
「ちょっと、あなたたち。そこまでにしておきなさい」
私は野次馬の一人のフードを後ろからガシッと掴みながら、低く冷ややかな声を落とした。「おっ、副会長……?」と野次馬たちがビクッと動きを止める。私は生徒会役員としての威厳と、親友としての怒りを絶妙にミックスさせた顔を作り、両手を腰に当てて凄んでみせた。
「人の恋路をコソコソ盗み聞きするなんて、趣味が悪いにもほどがあるでしょ。人間としてどうかしてるわよ」
「いや、だって、あんなの聞こえちゃう方が悪いって……」
「そうそう、お前だって聞くために来たんだろ?」
「私は『警備と見守り』という大義名分があってよ! はい、散った散った!」
すごみを利かせてそう言い放つと、野次馬たちはさすがにやばいと思ったのか、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
しんと静まり返った廊下。
私はふーっと息を吐き出し、乱れた前髪を直す。それから、まだ中からガタガタと慌てふためく気配が漏れている音楽室の引き戸を、勢いよく開け放った。
あれから数年が経ち、私もふじたくんも卒業した。今では大学生としてゼミにバイトにと大忙しだ。
「お姉ちゃん、ちょっと聞いてよ」
妹は呆れたような、でもどこか楽しそうな顔をして、部活の楽譜をトントンと机に揃えながら言った。
「なに? 私、今数学のグラフで頭がいっぱいなんだけど」
「今年の新人歓迎会でさ、部活の伝統っていうか……『代々伝わる教訓』みたいなのがあるんだって知ったの」
「教訓?」
「うん。『パート練のときにリードが割れたら恋が叶う』だってさ」
「は……? なにそれ」
「なんかね、昔、伝説の先輩たちが、リードが割れたことで恋人同士になったらしいの。ただし、その代償として愛の告白を学校中に聞かれるんだって。今の新入部員の間じゃ、一種の怪談か伝説みたいになってる。」
絶句する私の前で、妹はクスクスと笑う。
藤田くん、絵里、あんたら怪談になってるわ




