水泳部 吉田佳子
「先輩。好きです。付き合ってください」
「ごめん。今は水泳に打ち込みたいんだ。……それと、女の子は恋愛対象じゃないんだ。ごめんね」
放課後の校舎裏、2人の女生徒しかいない空間でそんな会話がされる。
ふんわりとした髪型で背の低い子が、その場から逃げ、ショートカットの背の高いスラリとした子がその場に残される。
誰もいない校舎裏に、重いため息の音だけが響いた。
「いやー。王子様。モテモテですなぁ。羨ましい限り」
「由美。断る方の身にもなってくれよ。」
「いや、わかるけどさー。よっしー、これで何回目?」
「えーと、12回目かな。全部女の子から」
教室で突っ伏したまま、力尽きているよっしーこと吉田佳子に山田由美がそう投げかける。
「12回目!? うわぁ、もう一ダース達成じゃない。記念にサインでももらっとこうかな、私の王子様。それにしても告白の全てが女の子からかぁ」
「からかわないでよ……。なんでこう、女子からのアプローチばっかりなのさ。私、別に宝塚の男役を目指してるわけじゃないんだけど」
美子は机に突っ伏したまま、ぐりぐりと顔をグリグリと腕に押し付ける。そのすらりとした手足や整った端正な顔立ちは、確かに制服を着ていようがローファー履きだろうが、そこらの少女漫画から飛び出してきた王子様のそれだった。本人がどれだけ無自覚でいようとも、周囲が放っておくはずがない。
由美はそんな親友の様子を面白そうに眺めながら、パタパタとノートで自分の顔を扇いだ。
「そりゃあさ、よっしーはスタイル抜群で顔良し、サバサバしてて誰に対してもフラットで優しい。おまけに運動神経は学年トップクラスで、水泳部じゃエース様。これでモテない方がどうかしてるって」
「うっ……。でも私、水泳が恋人だし。それに本当に、恋愛対象として女の子を見たことがないんだってば。だから振るたびに罪悪感ですり潰されそうになるの、分かってよ由美ー」
「はいはい、お疲れ様です、エース様」
由美はふっと柔らかく笑うと、よっしーの頭をポンポンと軽く撫でた。女子同士とは思えないほど板についているその手つきに、佳子は「なんだよそれ」と少しだけ頬を膨らませる。
「……でさ、よっしー」
「ん?」
「さっきの12人目の子、確か1年の……えっと、誰だっけ、ほら、図書委員の小野寺さん?」
「あ、うん。ふんわりした可愛い子だった。すごい緊張してたみたいで、逃げるように走っていっちゃったけど……泣いてないかな、大丈夫かな」
「優しいなぁ、ほんと。そこが罪作りなんだよ」
由美はクスリと笑ったあと、少しだけ声のトーンを落とした。
「ねえ、そんなに毎日『女子からの告白』を捌いてさ。よっしー自身は、誰かにキュンとしたり、そういうのって本当にないわけ? 王子様だって、お姫様に頭をナデナデされたい夜くらいあるでしょう?」
その問いかけに、佳子はガバッと顔を上げた。整った眉が少しだけ困ったようにハの字に曲がっている。
「なんだよ急に。私にあるのはプールの塩素の匂いと、大会のタイムだけだっての」
「えー、もったいない。こんなにイケメンなのに、このままじゃ『孤高のプールサイドの君』で卒業しちゃうよ?」
「それでいいの! 私はただ、青い水の中を誰よりも速く泳ぎたいだけなの!」
「はいはい、分かりましたよ、ストイックな王子様。じゃあさ、今日の放課後に慰めたご褒美に、購買のメロンパン奢りね。私の分も」
「えー、なんで私が奢るのさ!」
「だって、失恋の痛手を受けた可哀想な王子様を慰める、親切な臣下の役目だから!」
「絶対それ、タダでメロンパン食べたいだけじゃん!っていうか、私は失恋してないし!」
「ラスト一本!5秒前、3.2.1はい!」
大きな60分計の針が真上に来る時、今日の部活の最後種目の合図をだし、プールから上がる。横の方で男子部の方も今日のラスト種目の掛け声が聞こえる。
女子10名、男子5名これがうちの部の水泳部だ。全国レベルの選手はいないが、男女それぞれ地方大会に行けそうな部員が数名はいる。今年はどこまでいけるかなぁと考えていると、男子の1年性に声をかけられた。
「先輩。フラッグ仕舞いますね」
プールには背泳ぎのために、プールサイドから5メートルのところに旗を立てている。声をかけたのはいいところまでいけそうな1人。男子は2.3年性が不真面目であまり部活に来ない。この一年の瀬戸くんが、男子部のメニューや一年のとりまとめを一手に引き受けている。
「ありがとう。フラッグはこっちで回収するからポールから外しちゃって」
はいという返答と共に、彼はフラッグを外してポールを回収していく。部活後の片付けは男女から1名出す約束で、今日は私と瀬戸くんのようだ。
ビート板、パドル、大きな60分計。道具自体はそんなに多くないから、すぐに片付く。用具を機械室に持っていくと瀬戸くんが話しかけてくる。
「先輩、聞きましたよ。また告白されたって」
「え?そっちの方がでも噂になってるのかい?困ったなぁ。」
「困るんですか?」
「そりゃそうだよ。女子は恋愛対象じゃないし、相手のことも考えると、こう何度も噂になるのは気が引けるよ」
苦笑しながら機械室の棚にビート板を収めると、瀬戸くんは少し意外そうな、それでいてどこか含みのある目を向けた。
「先輩って、そういうところは徹底して真面目ですよね」
「真面目っていうか、当たり前でしょ。冷やかされたりしたら、告白した子だって嫌な思いするだろうしさ」
「……ですね。図書委員の小野寺さん、さっき図書館の前ですれ違ったとき、めちゃくちゃ赤い顔して俯いてましたよ」
「っ……やっぱり、泣いてたりした?」
「泣いてはなかったですけど、もう放心状態って感じでした。先輩、罪な人ですね」
「からかわないでよ、瀬戸くんまで!」
佳子は持っていたパドルをガチャリと箱に放り込み、ちょっとむっとしたように頬を膨らませる。
しかし、後輩である瀬戸くんは臆する様子もなく、むしろスッと視線を佳子に向けた。
機械室の狭い空間に、プールの塩素の匂いと、夕方の乾いた風が吹き抜ける。
さっき教室で由美に言われた言葉と全く同じような質問を、今度は後輩の男子に投げかけられ、佳子はわずかに眉をひそめた。
「なんだよ、みんなして。由美といい瀬戸くんといい、私の恋バナがそんなに珍しいわけ?」
「珍しいというより気になりますよ。好きな人が告白されたなんて話が聞こえてきたら。」
「……ほぇ?」
今思い出すとすごく間の抜けた声が出ていたと思う
……好きな人が、告白された?
佳子はパドルを持ったまま、フリーズしたように瀬戸を見つめた。脳内のタイムシートが完全にバグを起こし、情報の処理が追いつかない。
「え、と……どういうこと? 瀬戸くんが誰かに告白したの? それとも誰かの話……」
「違いますよ」
瀬戸はクスリと小さく笑うと、持っていたポールの束を機械室の壁に立てかけ、ゆっくりと佳子に向き直って、私を逃がさないというように棚との間に閉じ込める。その整った顔立ちは、一年生とは思えないほど大人びていて、けれどどこか真剣な熱を帯びている。
「僕が好きなのは、この部活にずっとまっすぐ向き合ってる人です。誰よりも速く泳ぐために努力して、誰かが告白してきれば本気で心配して、柄にもなく真面目に悩んで……そんな、不器用でカッコいい先輩のことですけど」
カタン、とパドルが落ちた。
「な……っ、え……?」
頭が真っ白になる。プールの塩素の匂いと、夕暮れの乾いた風。いつもなら何とも思わない機械室の狭さが、やけにやましいほど近くに感じられて、佳子は心臓の音がうるさいほど跳ね上がっているのを知られたくなくて、ぐっと身を引こうとした。
しかし、瀬戸は逃がさないと言わんばかりに、棚の脇に置いた手で軽く壁を塞いだままだ。
私より少し背の高い瀬戸くんがじっと私の目を見てくる。まるで熱が出ているかのようなその視線を処理しきれず、情報の奔流に脳がショートしそうだった。
「せ、瀬戸くん……? からかってるのかい、それとも、なんかの罰ゲーム……?」
「本気ですよ」
遮るような低い、けれど真っ直ぐな声に、私はは息を呑んだ。
「僕、ずっと見てましたよ。先輩が一人で部活を引っ張って、誰よりも泥臭く努力して……女子からの告白を毎回真っ向から真剣に断り続けてる姿も、全部。……悔しかったですけどね、他の女子に言い寄られてる先輩を見るのは」
「い、いや、私は……」
「女子は恋愛対象じゃない、ってさっきも言ってましたよね」
瀬戸はふっと柔らかな、けれどどこかからかうような、ずるい笑みを浮かべた。
「じゃあ、男子ならどうなんですか?」
「…………は?」
「僕じゃ、ダメですか?」
「っ……!」
言葉が出ない。いつもなら気の利いたツッコミの一つや二つ、先輩として、部長としての威厳を保って返せるところなのに、今の私には、ただただ目の前の後輩の整った顔を見つめることしかできなかった。
頬が熱い。心臓がうるさい。プールの大会で自己ベストを更新したときよりも何倍も、全身の血が一気に巡るのがわかる。顔を真っ赤にして、視線を泳がせ、すっかりタジタジになっている私は、「かっこいい先輩」でも「王子様」でもなく、ただの恋をした女の子そのものだったと思う。
瀬戸くんは満足そうに、けれど愛おしげに目を細めると、壁を塞いでいた手をそっと下ろした。
「答えは、今すぐじゃなくていいです。……ただ、これからは『水泳が恋人』以外の選択肢も、少しだけ考えておいてくださいね、先輩」
そう言って、彼は真っ赤になって固まっている私を残し、軽やかな足取りで機械室を出て行った。
夕日に染まる廊下に、彼の足音が遠ざかっていく。
静まり返った機械室で、佳子は両手で自分の真っ赤な顔を覆ったまま、その場にへたり込みそうになっていた。
「……うそ、でしょ……?」
なんとかうちに帰った私はベッドに顔をうずめたまま、バフンと大きな枕に両腕を絡みつかせる。
頭の中では、ついさっき機械室で起きた出来事が、まるでスローモーションのフィルムのように繰り返し再生されていた。
「僕じゃ、ダメですか?」
思い出しては「ひゃっ」と変な声が出そうになり、慌てて枕に顔を押し付ける。
制服のを脱ぎ忘れていることにも気づかないまま、佳子は足先をジタバタとさせた。これじゃあ、さっきまで由美の前で「私は水泳が恋人!」なんてかっこつけていた自分が、ただの恥ずかしい初心な少女じゃないか。
(いや、落ち着け、私……! 相手は一年の後輩、しかもついさっきまで「手のかかる真面目な男子部員」のひとりだったんだぞ……?)
深呼吸しようと体を仰向けに反転させるが、窓の外の茜色の空が、あのときの瀬戸くんの熱を帯びた瞳と重なって、また一気に心臓が跳ね上がる。
今まで女子から告白されたときは、「どう断れば一番傷つかないか」「どうすればこの雰囲気を壊さずに済むか」ばかりを考えていた。自分が「告白される側」として、こんな風に言葉を失い、思考回路を完全にハッキングされるなんて想像もしなかった。
……女子は恋愛対象じゃない。
そう言い切ってきた自分の口が、今はやけに熱い。
「……男子なら、どうなんですか、って……」
ぽそりと呟いた声は、静かな自室のなかにぽとりと落ちた。
ふと、これまでの部活の光景が脳裏をよぎる。不真面目な上級生に代わってメニューの作成から練習をこなし、女子部との連絡までやっている。それに、他の男子部員が私に馴れ馴れしくしようものなら、いつでも氷のような視線で牽制していたっけ。
「……気づかなかったの、私だけ……?」
ガバッとベッドから起き上がると、鏡に映る自分の顔がまだほんのり赤いのが見えて、佳子は思わず両手で両頬をパチリと叩いた。気合を入れるつもりが、余計に熱がこもるだけだった。
ピコン、と枕元に投げ出していたスマホが小さく震えた。
心臓がビクッと跳ねる。まさか、あの後輩から……?
恐る恐る画面を覗き込むと、そこには親友の名前が表示されていた。
『由美:メロンパンの件ブッチは激オコ』
私は画面を見つめたまま、スマホをベッドに投げ出したい衝動に駆られながらも、震える指でキーボードを叩き始めた。
『佳子:……ごめん。一時間だけ、時間をくれ……っ!後で通話する』
返信を送り終えると、私は再びベッドに倒れ込み、大きく息を吐き出した。
プールの塩素の匂いはもうしないはずなのに、胸の奥ではまだ、波打つ水面のように甘く熱い余韻が揺れ続けている。
「……もう、明日からどんな顔してプールに行けばいいわけよ……!」
真っ赤な顔のまま布団を頭から被りながら、孤高の王子様は、人生で初めての「恋」という名の大きな波に、完全に飲み込まれていた。
布団を頭から被ったものの、熱を持った頭と高鳴る心臓のせいで、全く落ち着く気がしない。
私はバッと布団を跳ね除けると、ベッドの上で体育座りになり、両手で自分の真っ赤な顔を覆った。
「むり、むりむりむり……っ!」
頭の中で、さっきの瀬戸くんの顔が勝手に再生される。
一年生とは思えないあの低い声、まっすぐ向けられた熱のある瞳、そして棚の隙間に閉じ込められたときの近すぎる距離感。どれを思い出しても、脳内が盛大にバグを起こす。
(なんなのあいつ……! いつもは真面目で涼しい顔して、後輩のまとめ役なんてやってるくせに……!)
でも、と私はぎゅっと膝を抱え込み、脳裏に焼きついた瀬戸くんの姿を一つずつ頭の中で上げていく。
「あーーーっ! もう、思い出すだけでおかしなるわっ!!」
私はたまらずクッションに顔を突っ込み、バタバタと両足をジタバタさせた。
女子から告白される側にばかり立ってきたからこそ、いざ自分が「男の子から、それもうっすら意識していた年下の後輩から、あんな真っ直ぐな矢を向けられる」ことの破壊力が、直撃して身体中を駆け巡る。
その時、ピコンとメッセージが届いた。




