初恋は楠の下で
今より少し前の話です
お楽しみくださいませ
北の山の裾野に広がる森林は時折、この世ならざる所と繋がるといわれている。
この言葉は、この森の神秘性を端的に表した良い表現だと景は思っている。
お目当ての大きな楠のそばで手早く野営の準備をしていると不意に後ろから声がかかる。
見ればそこにはいつもの柔らかい笑みをたたえた小柄な女性が立っていた。
「久しぶりね......。今回は随分長かったのね。」
「これでも王都の剣士なんだ、そう度々は職場を離れられないよ。」
(彼女とこうして会話するようになったのはいつだったか?)
数年前
その日景は任務の傍らで、嗜んでいた古文書の解読に少しばかり、のめり込んでしまったのだ。
王都までの帰路、心地良さげな楠の下でほんのいっときだけ、休憩がてら研究の続きを......。などと書物を開いたのが悪かった、気が付けば陽は大きく傾き、もう夕暮れがせまっている、あいにく今夜は新月だ、これでは森林を抜けるのは危険だ。
(急がなくては。)
景は野営の準備に取り掛かる。
握り拳大の石を幾つか円形に並べて、
小枝や枯れ葉を集め火打石で種火を作る。
「へー。面白いことをするのね?」
声に驚き振り返れば、そこには見たことのない女性が立っていた。
絹糸のように艶やかな黒髪に琥珀色の瞳をした驚くほど美しい女性......。異国風の繊細な刺繍の施された衣装は、森林を歩いて来たとは思えなほどに美しく整っている。
(人外のもの。)
景はふっと笑みをこぼす。まあ居るだろうとは思っていた、ずっと気配はあったのだ。こんなに唐突のお目にかかれるとは思っていなかったが。
火起こしに興味深々の女性に景は丁寧に説明しながら野営の準備をする。
おかげで準備が整った頃には陽はとっぷりと暮れてしまっていた。
「本当に不思議ね......。あんな小さな火花が枯れ葉に移り小枝に移りしまいには、お前たちの腹を満たす食事の術となり、暖を取る利器ともなる......。」
女性は炎の揺らめきに目をやり静かに座っている。
「炎は便利ではあるけど......扱いに注意の要る物でもあるよ。」一度扱いを謝ればこの森林も焼き尽くす災いとなる事もあると景は言う。
「そう言うもの?」
女性は実感のなさそうな相槌を打つ。
「そう、この土地や恵みを私たちの不注意で台無しにする事は避けたいと思う。
この世界は大地の女神ユーリアから賜った大事な地なのだから.......。」
「お前は名を呼ぶのね....。」
「ああ、尊い神々の名を呼ぶのは不敬ってあれかな?
今の風潮だね、古文書には確かに名が記されているのに......。
おかしな流行りだ。
こんな綺麗な名を口にしないなんて......。」
「綺麗?」
しばし二人は無言で見つめ合う。
「ああ、アルカナで長い名は珍しいか.....。
でも隣国のドゥーラやサンドラなどではもっと長い名前も普通でね......。」
景が説明を始める。
「そう、綺麗なのね。」
女性は妖艶に笑った。
北の森の大きな楠の下で
二人の不思議な逢瀬はもう何年も続いていた。
景は彼女を楠の女性と呼び
彼女は景をお前と呼ぶ。どうも景の片想いの気配のする逢瀬に変化が現れた。
ある日いつものように景があの楠を訪ねると......。
そこに楠はなかった。
北の住人が言うには、
昨晩の落雷が楠を直撃したらしい、不思議な事に延焼はまったく無かったそうだ。
景は言葉にならない思いを胸にそこに立ち尽くす事しかできなかった。
(大事な賜り物を焼く事は避けたい。)
自分は何故あんな事を......。
彼女はきっと楠の精霊だ。昨晩の落雷で山火事になる事を嫌い......。自分の言葉を額面通りに受け取った彼女は自らを犠牲にしたに違いない。
自分の不用意な一言で最愛の女性を想いを伝える事も無く逝かせてしまった。
景は全ての色がなくなった様な森で泣き崩れた。
「こんな事なら.......体裁など気にせずに、きちんと想いを伝えるべきだった......。
好きだった......。
愛していた......こんなにも......。」
「へー、奇遇ね......。」
後ろから声がする、景が振り向くとそこにはいつもの美しい笑みをたたえた彼女が立っていた。
「ねえ、いい加減に名前で呼んでくれない、お前が美しいと言った名前で。」
まさか......そんな......。
震える声で景はそっと囁く。
「ユーリア?」
「なあに?私の背の君。」
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