倍々計算の落とし穴
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周は夜明け前の、ひと気の無い凜とした気配が好きだ。あまり大きな声では言えないが、本来見えない何かに話し掛けられたりしても、誰憚る事なくリアクションを返せるのもこの時間ならではなのだ。
が、ここ数日の起床には少々癖癖するものがある、筋肉痛だ。
詩は筋肉が育ってる証だ。喜べ!と言うが、本人にしてみれば、たまったものでは無い。
あの日、詩が軽々と片手で差し出した水桶を不注意などではなく、実力で取りこぼしたあの時から、詩が作成したトレーニングプランはずっと始動したままだ。
課題は日増しに大きくなるので達成感は思ったほどは無い。
道場での稽古は実はそこまで過酷ではない。
模擬刀は重さが選べた、一番軽い物でも周には結構な重量に思えたが、全身の力を使えばどうにか振るうことも出来た。
型は直ぐに覚えることができた。
楽勝ではないが、まあついていける。
しかし、詩のメニューは話が違う。本当に何か猟奇的なもを感じる。
高価な事典程の厚みのあるその紙束を周は見つめてため息をつく。
昨晩、腕立てがここまで出来たから 今朝は、けっこう増えるな....。走り込みの距離も増えるし 早めに取りかかなくては...。
最初は良かったのだ。頑張れば結果が直ぐに分かる。出来なかったことが1つ出来るようになり次は2つと......。出来ることがどんどん増えて、それなりの達成感もあったのだ。
最近は、目標をクリアするのに数日かかることも多くなってきた。
明日は何時の起床になるのやら......。その前に私は今日何時に床に入れるのだろうか?
重い足取りで部屋を出る、床が部屋の入り口付近で良かった。この足取りではうっかり兄弟子の誰かを踏みつけてしまいそうだ。
周がなんだか味のしない味噌汁を啜っていると、どすんどすんと廊下を踏み締めて近付いてくる足音がする。
「大した余裕ね。こんな時間にまだ朝食?」
声のほうを見れば腕組みした詩が戸口に立っていた。
具も入っていないのにどうにも喉に引っかかる味噌汁をいっきに飲み干し、手早く箸を置き手を合わせる。
「ご馳走様です。」
正直朝の筋トレメニューでいっぱいいっぱいなのだが、姉弟子が道場に行こうとしているのに、こんなところで弟弟子が油を売る訳にはいかない。
ふらりと立ち上がり、するりと戸口に向かう。間で食器も洗って棚に片付けるのも流れるが如しである。
周の動きには無駄が少ない。
「ごめんなさい、詩ねえさま。お待たせしました。」
いつも通りが大好きな詩がずいぶんと早い到着だ。
(そういえば、最近早いことが多いな...。)
「掃除は?」「終わってますよ?」「自主練は?」「済ませています。」
仏頂面の詩に、周は力なく笑う。
「なんで?」
詩の機嫌が一段悪くなる。
「?」
言われた事と、しなくてはならない事を早めに済ませたのだ。褒められこそすれ機嫌を損なうのは合点がいかない。
(えっ、何?何か間違えた?)
無言でずんずんと先を行く詩に慌てて追いすがろうと、周は速度をあげた。
「!?」
視界がホワイトアウトした。上も下も何が何だか分からない。平衡感覚を失った周はそのまま昏倒した。
「だから、あれの通りにしろと言ったでしょ!あんた、どれだけバカなの!」
意識が遠のく寸前に何か詩にひどく叱られたような気がした。
(しまった.....。またしくじってしまった。)
半日程して周が目を覚ますと、そこは見慣れた寝床のある部屋ではなく、師匠の自室の布団の中であった。
西の窓の障子から陽が差し込んでいるところから自分は結構な時間、眠りこけていたのだろう。
なんとういう失体だろう。
周が布団を跳ね除け、飛び起きようとした刹那。
「許しておくれ。」
力強い腕に抱きすくめられてしまった。
お師匠様だ....お師匠様の声、やっぱり落ち着くな....あれ?誰か泣いてる?
「あたしの落ち度です。申し訳ございません。今後このような出過ぎた真似は......もう決して致しません!」
(......?)
今何か嫌なフレーズが聞こえた。
暖かな腕の中でまったりしてしまいそうになる自分を、周は懸命に叩き起こし意識をクリアにする。
「違います。大丈夫です。だから...えっと....そのほら.....。」
焦れば焦るほど良い言葉が浮かばない。ともすれば反対の意味合いに取られてしまいそうな言葉ばかりが浮かぶ。
中止は困るのだ、寝る時間くらいは確保したいが、それでも辞めたいなどとは思わない、それなのに......。
詩はとても頑張ってくれたのに、駄目だこんな終わり方は絶対駄目なんだ。
感情が思考を鈍らせて、もうどうして良いのか分からない。
そうこうする内に詩が大きく頭を下げて廊下に出ようとし始める。
(駄目だってば!詩、行かないで!)
不意に障子が開いた。
「おっ。起きたんだ。どうよ気分は?詩にシゴかれたって?みんな3日で逃げ出すんだぜ!お前根性あるよなぁ!」
部屋から出ようとする詩を強引に押し込むかたちで勇が無遠慮に割り込んできた。
「なあ、俺と腕相撲しようぜ?」
「へ?」
(カオスだ混沌の神様が今この部屋にはいらっしゃる。)
周は真っ当な思考を手放した。
周どころか信も、勿論詩も、訳がわからないまま、何かに憑かれたように、勇の言うがままだ。
かくして、周と勇は腕相撲を......勝利者はここ数ヶ月とても頑張っていた周......ではなく、当然の勇である。
「へへん。俺の勝ち!まだまだだね。周くん。」
ほんと何がしたいのだろう。
勇は上機嫌だ。
周は自分の手を見つめて固まっている。
「ほれ 詩もやってみろよ!」
言われるままに詩も勇と腕相撲をする
単純な力比べに近い腕相撲だ、詩も健闘はしたものの勇の勝ち。
勇は更に上機嫌だ。
鼻歌まじに感想戦をはじめだす程に。
「うへへ。詩に勝っちゃったよーん。
試合じゃアレだけど腕相撲じゃ、俺無敵?
ほれ詩!勇かっこいいって言ってみ!
ほんで周!
初日なんか組んだとたんに負けてたのに
すげーな。ナイスファイト!」
不意に勇が周の手を取ると信の方に向き直る。
「お師匠様。周は強くなる為に頑張ってるんです。詩もすげー肩入れしてて
多分ちょっとだけ、みんなが空回りしちゃったんだと思うだ。なんか上手く言えないんだけどさ、もうちょっとだけチャンスを下さい。」
額を畳につけるくらいに首を下げた。
半端で逃げる気かよ!
ほれ、お前もお願いしろと詩の頭も押している。
もう何が何だか分からない。分からないけど......。
今しかないと周は思う。ここで言えなければもうチャンスはない。
「詩!姉様。このまま私の練習に付き合ってください!お師匠様!全部ちゃんとしますから特訓を無しにしないでください。」
「そこが駄目なんでしょ!あんた本当にバカでしょ!
なんで掃除とか雑用とか勝手に一人でしちゃうのよ?いくら早く来てもいつも全部終わってるし、あんた、どんどん顔色悪くなるし!」
もう詩が止まらない、涙だか鼻水だか、何かいっぱい垂らしながらとにかく小言と苦情のフルコースだ。
最後は、もうこの辺で収めてやらないと、と信が無理くり言葉をつづる。
「まあ お互いが尊重しあえる間はこれ以上のことは起こらないのではないかな?
取り敢えず特訓メニューを一読させてくれるかな?」
後日
「ねえ、なんで回数が倍倍計算で増えてるの?」
「え...。だって、1+1って」
「あんたバカ?1+1の次は2+1でしょ。」
「え?...あっ!」
何か大発見でもしたかの如く、周は瞳を輝かせて大きく頷く。
ブフォッ!!信が茶を吹き出した。
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