夜の書斎と、静かに忍び寄る影
夜の帳がゆっくりと屋敷を包み込む頃、アルヴェント侯爵家の書斎はひっそりとした静寂に沈んでいた。
書棚の奥深くまで届く暖炉の橙色の灯りは、壁に掛けられた古書の背表紙を柔らかく照らし、文字の影をゆらめかせる。
夜の時間に合わせて生まれるこの陰影は、屋敷全体を包む静けさに、奥行きのある落ち着きを与えていた。
レアは、書斎の入り口で一瞬立ち止まる。
遠くの廊下から流れてきたわずかな冷たい気配を、確かに感じたからだ。
その気配は決して暴力的なものではなく、けれど鋭く、静かに空気を切り裂くような存在感を持っていた。
(……ノアか、それとも……?)
レアは心中でそう呟くと、表情は変えず、静かに書斎へ足を踏み入れた。
目の前には、執事長セドリックがすでに書類の整理を終えたかのように、机に腰かけていた。
彼の銀色の髪が、暖炉の光を受けて柔らかく輝く。
「遅くまで残業ですか、セドリック殿。」
「いや、こうして書類を整理しておくのは、習慣だ。君はどうしたのだ、夜の書斎に?」
「ちょっと……気になることがありまして。」
レアは視線を一度だけ上げ、書斎の奥に目をやる。
窓際に座るリリアーナの影を思い浮かべながら、静かに息を整えた。
「お嬢様はもうお休みでしょうか?」
「いや、まだ図書室で書物に目を通している。彼女にとっては、これも学びの一環だ。」
セドリックの声には、揺るぎない落ち着きと、ほんのわずかな心配が含まれていた。
レアはそのわずかな違和感に気づき、彼の視線が自分に向かうのを感じ取る。
(……読まれている。)
だが、レアは身を正すことなく、柔らかい微笑みで答えた。
「お嬢様のことは、わたくしがきちんと見守っております。」
「ふむ。」
セドリックは机の上の書類に目を落としたまま、静かに頷く。
その動作は、あたかもレアを試すものではなく、信頼の確認のようだった。
その時、書斎の奥から微かな音がした。
床の絨毯を踏むかすかな靴音。
それは、人間の歩幅に似ているが、わずかに不自然な規則性があった。
レアは一瞬、手元の書類に目を落とす振りをしながら、気配の出所を探る。
その影は、書斎の窓の外、樹木の影に紛れるように現れていた。
(ノア……いや、それだけではない。)
影は確かに動いていた。
屋敷の奥深くから忍び寄る何者か。
だが、リリアーナに危害を加える意図は今のところ感じられない。
むしろ、彼女を遠くから観察しているだけの、淡い気配。
「レア、君は気づいたか?」
セドリックの低く静かな声。
レアは軽く頷く。
「はい。何者かが書斎の近くにおります。」
「ふむ。」
セドリックは微かに笑む。
「君がそう判断したなら、間違いはないだろう。」
書斎の扉が、外からそっと開く音がした。
リリアーナがやわらかな歩みで入ってくる。
髪を軽くまとめ、手には小さな書物を抱えていた。
「レア、セドリック殿。わたし、ちょっとこの本を読んでみたくて。」
「お嬢様。」
レアは静かに体を傾け、微笑んだ。
どんなに気配が揺れても、リリアーナの前ではそれを見せない。
それがメイドとしての誇りであり、守るべき日常の秩序だった。
リリアーナは書斎の机に腰を下ろし、ページを開く。
その姿に、レアとセドリックはそれぞれ距離を保ちながら見守る。
部屋の空気は静まり返り、暖炉の炎だけが微かに揺れる。
「レア、どうしたの?」
リリアーナが不意に顔を上げる。
その問いかけは、いつもの通り、柔らかな声で、何も隠さずに投げかけられる。
「……いえ。なんでもございません、お嬢様。」
リリアーナはにっこりと微笑み、再びページに視線を落とす。
そしてその瞬間、レアの背後で微かな気配が、そっと息を潜めた。
書斎に残る三人。
暖炉の炎が揺れ、影が長く伸びる。
静かで、しかし確実に、夜は屋敷の奥深くで新たな物語の予兆を運んでいた。




