夕餉前のさざめきと、令嬢の小さな不安
夕刻の鐘がひとつ、静かに屋敷へ響き渡ると、アルヴェント侯爵家の空気はゆるやかに夜の気配へと移り変わっていった。
回廊には橙色の光が灯り、壁に掛けられた大きな油絵が照明に照らされて深い陰影を浮かべる。
まるで屋敷全体が、ゆっくりと夜の眠りへと沈んでいくような静けさだ。
リリアーナは、レアに案内され、自室へと向かっていた。
ドレスの裾が床をすべり、まるで品の良い音楽の一部のように衣擦れが響く。
夕食の前に着替えるのは、貴族令嬢として当然の所作。
だが、その気品に包まれた足取りとは裏腹に、リリアーナの表情には少しだけ影があった。
「お嬢様、お疲れがたまっていらっしゃいますか?」
レアが静かに問いかけると、リリアーナはゆっくりと首を振った。
「疲れているわけじゃないの。ただ……今日は、なんだか胸がざわつくの。」
「胸が、ざわつく……?」
リリアーナがこの言葉を口にするのは珍しい。
普段は自分の感情を人に悟らせない。
それこそが、令嬢としての気高さを習得した証であったのに。
レアは歩みを止め、リリアーナの方へ向き直る。
「何か、ご心配が?」
リリアーナは、言葉を探すように目を伏せた。
「さっき、お母様とお茶をしている間……ふと、書斎の方向から冷たい風が流れた気がしたの。ほんの一瞬だけど。」
書斎──影がもっとも活発に揺れていた場所。
その単語が出た瞬間、レアの背筋を微かな緊張がかすめる。
しかし、表情は柔らかく保ったまま。
「その風は、窓の隙間ではなく……?」
「違うの。あれは……何か“意志”のようなものを感じたわ。寒さじゃなくて、誰かがそこに立っていたみたいな……」
そこまで言ったところで、リリアーナは自分の言葉に気づくように微笑んだ。
「ふふ、ごめんなさいね。変なことを言ってしまって。」
レアはかすかに首を振る。
「いえ、お嬢様のお感じになったことは、どれも無駄ではございません。」
“むしろ正しい。”
その言葉は胸の奥だけに留めた。
部屋へ入ると、侍女のルイーザがちょうど室内の整えを終えたところだった。
「お嬢様、お戻りになられたのですね。夕餉の準備は順調でございます。」
リリアーナは微笑みを返し、レアと共に着替えの部屋へ入る。
夕食用のドレスが、柔らかい照明の下で優雅に光っていた。
淡いラベンダー色にシルバーの刺繍が施され、舞踏会でも通用するほどの美しさを持つ。
しかし、今夜は身内だけの食卓。それでも、この家において美しさを怠ることはできなかった。
レアは丁寧にドレスを持ち上げ、リリアーナへと差し出す。
着替えの間、二人の間に沈黙があったが、それは不安ではなく穏やかな沈黙だった。
「レア。」
着替え終わり、髪を整える鏡越しにリリアーナが声をかける。
「わたし……最近ね、“誰かに見られている気配”がするの。」
レアの手が一瞬だけ止まる。
しかしすぐに、柔らかい動きで櫛を滑らせた。
「それは……どのような時に、でございますか?」
「ううん、定まってはいないの。ただ……廊下を歩いている時とか、お庭で風が吹いた時とか。ほんの少しだけだけど。」
リリアーナは自分の胸の前で手を重ねる。
「でも、不思議と怖くはないの。嫌な感じじゃない。ただ……視線だけが残るの。」
“ノアの気配だろうか。”
レアはそう思ったが、口には出さない。
むしろ……その気配は、ノアよりももっと曖昧で、もっと淡くて、もっと……静かだ。
まるで、リリアーナ自身の影が“感情を持ったかのような”気配。
(……まだ姿を見せない存在が動き始めている。)
そう悟りつつも、レアはあくまで穏やかな声で言った。
「お嬢様。もし何かお気づきの時は、どうぞすぐに私を呼んでくださいませ。
お嬢様の前であらゆる“気配”を断つのが、わたくしの役目です。」
リリアーナはその言葉に小さく微笑んだ。
「ありがとう、レア。
あなたがいてくれるから……わたし、怖くないのよ。」
レアの胸にあたたかなものが揺れる。
護るべき理由が、またひとつ深く重なるように。
そこへノックが響き、扉の外からルイーザの声がした。
「お嬢様、夕餉の席の準備が整いました。」
リリアーナは立ち上がり、軽やかに扉へと向かう。
レアはその背をそっと追いかけ、いつものようにひっそりと影のように従った。
廊下に出た瞬間。
どこからか、かすかな視線が流れた気がした。
レアは即座に振り返る。
しかし、ただ夕刻の風が絨毯を揺らすだけ。
(……気のせいでは、ない。)
静かに呼吸を整え、レアはリリアーナのもとへ歩みを戻した。
「レア? どうしたの?」
リリアーナが振り返る。
レアは微笑み、いつもと同じ言葉を返した。
「……なんでもありません、お嬢様。」
その瞬間、夕食の香りと夜の訪れが廊下に満ちた。
影はまだ、静かに息を潜めたまま。
しかし確実に──動き出していた。




