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黒薔薇の牙 ―忠義を纏うメイド―  作者: 櫻木サヱ
「運命が微笑み始める季節

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深夜の書斎と、リリアーナの独り言

深夜の屋敷は、昼間とはまるで別の顔を見せていた。

暖炉の炎が作る影は長く、壁や天井に揺らめきながら、書斎全体を静かに包み込む。

アルヴェント侯爵家の屋敷は大きく、重厚な木製の梁が低く張り出しているため、夜の沈黙はなお一層、重く感じられた。


リリアーナは机に向かい、ひとり書き物をしていた。

手元には小さな蝋燭が置かれ、炎の先で文字が静かに揺れる。

その姿は、令嬢としての優雅さと、十代の少女らしい柔らかさの両方を兼ね備えていた。


レアは静かに書斎の入り口に立ち、影のように視線を送る。

深夜でも、主の安全と穏やかさを守るのが、専属メイドとしての役目だ。

だが、今夜は特別に、何かをそっと見守るだけで十分な気配だった。


リリアーナがペンを止め、書き物から目を上げる。

瞳は少しだけ遠くを見つめており、その視線の先に何か影を追っているようにも見えた。


「……レア。」


低く呼ぶ声に、レアはすぐに足を進めた。


「はい、お嬢様。」


「夜になると、どうしても考え事が増えるの。日中は気にならなかったことが、静かになると浮かんでくるのよね。」


レアは黙って頷く。

彼女の胸の中では、昨晩から書斎に忍び寄る何者かの気配を感じ取っていたが、それを口にするのは今ではない。

リリアーナに夜の静けさを失わせたくはなかった。


「なんだか……一人でいると、少しだけ寂しい気もする。」


レアはそっと椅子を引き、リリアーナの隣に腰を下ろす。

夜の書斎に、二人きりの静けさが広がる。


「お嬢様、決しておひとりではございません。わたくしがここにおります。」


「そうね……ありがとう、レア。」


リリアーナは微笑みを浮かべるが、その瞳の奥にはまだ揺れがあった。

家族や屋敷の使用人に囲まれていても、彼女は心のどこかで、静かな孤独を感じていたのかもしれない。


「ねえ、レア。」


「はい。」


「この屋敷って、外から見たらきっと堅苦しいのに、中に入ると、優しい空気が流れているのね。光も、影も……みんな、居心地がいい。」


「お嬢様がおそう言ってくださると、屋敷も喜ぶことでしょう。」


微かに笑ったレアの言葉に、リリアーナは肩をすこしすくめる。

その動きは、少女らしい無邪気さと、貴族令嬢としての品を同時に表していた。


書斎の窓の外では、月光がゆっくりと庭を照らす。

樹木の影が揺れ、葉擦れの音が微かに室内まで届く。

それは、昼間の庭園とは違う、夜だけの静かな生命の息吹だった。


リリアーナはふとペンを置き、書きかけの手紙を見つめた。


「……そういえば、フィアンセのノアからは今日も連絡がなかったわ。」


レアは微かに息を飲む。

ノアの存在は、今夜も遠くから静かに影を落としているのだろう。

しかし、リリアーナの表情は不安よりも、好奇心や軽い疑念に近かった。


「お嬢様、ノア殿のことは心配なさらなくとも……」


「うん、分かってる。ただ、彼の気配を感じるだけで、なんだか心が揺れるの。」


リリアーナは自分の言葉に微笑みを浮かべる。

まるでその揺れを楽しんでいるかのようでもあった。


レアは小さく頷き、そっと手元の小物を整える。

それは、主の気持ちを乱さぬための、静かで控えめな気配の使い方だ。


「さて……そろそろ夕餉の支度でしょうか。」


リリアーナは立ち上がり、蝋燭の灯を一つずつ消しながら、夜の静けさを屋敷に残したまま歩き出す。


レアも後に続く。

夜の書斎には、二人の足音だけが柔らかく響いた。


その背後で、微かな影が再び揺れた。

屋敷の奥、深い闇に紛れる誰かの視線。

それは今はまだ、静かに息を潜めているだけ。

しかし確実に、次の動きを準備していた。


「レア、どうしたの?」


リリアーナが振り返る。

いつもの問いかけ。

レアは微笑み、柔らかく答える。


「……なんでもございません、お嬢様。」


その言葉と共に、深夜の屋敷は静かな夜の空気をまとい、影もまた眠りにつくように揺れた。

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