湖畔にほどける二つの祈り
王城の敷地のいちばん奥、古い石畳がかすかに霜を抱くころ。リリアーナは小さな靴音をたてながら、父と母に挟まれて歩いていた。足取りは軽い。けれど心は、どこかくすぐったく、同時に少しだけ不安なようでもあった。
ママが歩幅を合わせて、そっと娘の手を握る。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ、リリアーナ。今日の祈りは“はじまりの祈り”でしょう? 脅すものなんてなにもないのよ」
母の声は、冬の陽だまりを閉じ込めたようにあたたかく、しなやかだった。
対して隣で歩くパパは、手袋ごしでもわかるほど大きくて頼もしい手。けれど歩き方は意外と音を立てず、気配を揺らさない。近衛騎士団長として鍛えあげられた身体はごついのに、動きはどこまでも優雅だった。
「ママの言うとおりだぞ。怖がる必要はこれっぽっちもない。お前が湖に言葉を届ければ、それで十分なんだ」
言いながら、パパは横目でリリアーナの顔色を確かめる。その目は、あの強面とは思えないほどやわらかい。
けれどリリアーナの胸にあるのは“怖さ”とは少し違うものだった。湖に捧げる祈りは、姫としての初めての務め。うまくできるかな、という不安よりも、そこに宿る淡い期待の方が大きかった。
(だって…湖の精霊さまに会えるかもしれないんだもの)
幼いころから、湖の水がゆらぐたび、光が射しこむたび、そこに誰かがいるような気がしていた。小さな指で水面をなぞると、鏡のようにつるりと揺れて、何かが返事をしてくれるような――そんな記憶が何度もある。
石畳を抜けると、視界は一気にひらける。
王城裏の大湖は、冬空の色をまるごと映しとって淡い銀色をしていた。さざ波ひとつない静けさ。風は冷たいのに、空気は透明で、胸の奥までするりと入りこんでいく。
「…きれい」
リリアーナは無意識につぶやいた。
ママは穏やかに微笑む。
「あなたが初めて湖を見た日も、こんな顔をしていたわ。覚えてる?」
「ううん」
「抱っこされたまま、じぃーっと湖を見ていたのよ。まるで昔から知ってる場所みたいに」
その言葉に、パパも頷いた。
「お前は不思議な子だ。湖を怖がったことが一度もない。普通は幼児のころ、水辺は恐れるのだがな」
ふたりの言葉を聞いて、リリアーナはほんの少しだけ胸がくすぐったくなる。
(やっぱり、湖は知ってる気がする…なんでだろう)
湖畔に近づくと、祈りの場所が見える。古い円形の祭壇。雪が薄く積もっているが、その中心だけは、まるで見えない手で守られているように白くない。ひんやりとした気配の中に、なぜかあたたかさが混じっていた。
「リリアーナ」
パパが膝をつき、娘の目線に合わせて向き合う。
「祈りは形じゃない。言葉を綺麗に並べる必要もない。ただ、お前の心を湖に向ければ、それでいい。いいか?」
リリアーナはこくりと頷いた。
その一方で、なぜか胸の奥がじんわり熱くなる。これが緊張だろうか。
でも……怖くない。むしろ、前に進みたい――そんな感じ。
ママがそっと肩を押してくれた。
「行ってらっしゃい、リリアーナ。あなたの歩く道は、ちゃんとこの湖が知っているわ」
“知っている”。
また出てきた、その言葉。
まるでこの湖が、リリアーナの過去のどこかと繋がっているかのように。
リリアーナは雪を踏みしめながら、祭壇の中央へ歩いた。
風が、ふわりと髪を揺らす。
湖面が、わずかにきらめく。
(ねえ、精霊さま。もし見てるなら、聞いてくれる?)
(わたし……もっと強くなりたいの)
声は出さない。けれど心の言葉は澄みきった音で、湖へするりと落ちていった。
その瞬間――
鏡のように静かだった湖面が、ほんの一瞬だけ、波紋を描いた。
ふたりの大人は、そのわずかな揺れに気づいていない。けれどリリアーナだけは、確かに見ていた。
風のせいではない。
小石が落ちたわけでもない。
まるで湖が、彼女に返事をしたような揺れだった。
(…やっぱり、知ってるんだ。わたしのこと)
胸の奥が、ぽうっと光るように温かくなる。
その温度を抱きしめたまま、リリアーナは深く息を吸い、そっと目を閉じた。
次の瞬間――
(リリアーナ…)
たしかに聞こえた気がした。
ひとつの名前を包む、やわらかな声。
だが目を開けると、湖はただ静かに銀色をたたえているだけだった。
(…いまの、なに?)
胸の高鳴りを押さえられずに瞬きを繰り返していると、遠くからパパとママの声が聞こえた。
「よくできたな!」
「リリアーナ、とっても綺麗だったわ」
その優しい声に背中を押され、リリアーナは父と母のもとへ歩き出す。
けれど心の奥では、まだあの声がやわらかく響いていた。
(また…聞こえるかな)
幼い瞳の奥に、淡い輝きが宿った。
その輝きは、これから広がっていく物語の予兆のようでもあった。




