囁く影、書斎のざわめき
午後の光は、書斎の奥深くまで優雅に満ちていた。柔らかな金色が本棚の列を照らし、革張りの装丁に複雑な模様を浮かび上がらせる。紙の匂いと香炉の香が穏やかに混ざり合い、外の庭からは薔薇の香りを運ぶ風が微かに吹き込んでくる。
リリアーナは本棚の前に立ち、細い指先で古い手稿書を滑らかに撫でた。背表紙の金糸が陽光に輝き、それを見つめる彼女の横顔は、まるで静謐な絵画のようだった。
「レア、これ……」
リリアーナが一冊を取り出そうとしたその瞬間、棚全体がわずかに軋んだ。
ほんの一瞬の、微かな振動。
風でもなく、人の動きでもない。
しかし確かに、そこに“何か”が触れた音だった。
犬面のレアは振り返ることなく、ただ耳だけをわずかに動かして気配を探る。
その動作はあまりに滑らかで、もし誰かが見ていても「一息ついたのかな?」と思う程度の自然さだった。
「……少し、棚が揺れたようですわね」
リリアーナが囁くように言う。
「ええ。ですが、お嬢様に危険はございません」
レアの声は落ち着いていた。その言葉の一つ一つが安定した呼吸のように滑らかだ。
アルフォンスは巻物の整理を続けながら、ちらりと棚へ視線を送る。
その目には焦り一つない。
慣れた館での日常の一部として、影の“いたずら”を受け止めているようでもあった。
ルイーザは花瓶を抱え、棚の揺れた場所を確かめるように首を傾げた。
「……風? かなぁ?」
「窓は閉じております」
カトリーヌが静かに答える。
ただ、そこで会話は止まった。
誰も騒がない。
ほんのわずかな違和感が、書斎の空気に静かに溶けていく。
だが、その直後だった。
棚の奥――
壁に触れた影が、まるで“囁く”ように揺れた。
音にもならない揺れ。
しかし確かに存在を訴える、ひどく静かな主張。
レアの犬面がわずかに上を向き、耳がひくりと動く。
「……いるわね」
リリアーナが、影を見つめて微かに呟いた。
「ええ。しかし、お嬢様に害を加える意図はございません。いまは、ただ――出方を見ているだけです」
「影が……様子を伺うなんて、変ね」
「ええ。だからこそ、こちらも静かにしている方がよろしいでしょう」
レアは棚の前に一歩進み、影の残したわずかな揺れを指先で確かめた。
その仕草は、まるで壊れた宝物の表面を優しくなぞるように繊細だった。
揺れは、まだそこにある。
誰にも触れられず、しかし確かに痕跡として残っている。
ルイーザは息を呑みそうになったが、アルフォンスの穏やかな視線に気づき、そっと黙って花を飾り続けた。
カトリーヌは香炉の火を少し調整し、空気の流れを整える。
エリスは窓の隙間を確認しつつ、書類を整える手を止めない。
それぞれが普段通りの動作を続ける。
しかし、書斎の空気は確かに“一度揺れた”。
リリアーナは椅子に戻り、羽根ペンを手に取る。
インク瓶の蓋を開ける指は震えず、呼吸は穏やか。
ただ、ほんの少しだけ書斎の奥へ向けて視線を送った。
影はそこにいる。
見えないだけで。
「……レア?」
「はい、お嬢様」
「ねぇ、なんだか書斎が少し……ざわめいてる気がするの。気のせいかしら」
「気のせいでございます」
レアの声は、いつもの静謐さを崩さなかった。
そしてリリアーナがペンを走らせようとした瞬間。
棚の下段に置かれた古い書物が――一冊だけ、ふっと浮き上がった。
数センチ。
本当に、数センチだけ。
そしてすぐ落ちた。
音は小さい。
驚くほど静かな落下音。
しかし、確かに誰かが触れたような動きをしていた。
リリアーナがレアを振り返る。
その瞳は驚きよりも、むしろ「理解しようとする優雅な冷静さ」を宿していた。
「どうしたの?」
レアはいつもの姿勢のまま、優雅に頭を下げた。
「……なんでもありません」
書斎は再び静寂を取り戻す。
午後の光が棚を照らし、揺れた本の上に淡い光の帯が落ちる。
影はそこにいた。
だが書斎の日常は乱れない。
優雅さは保たれ、静かに、確実に――影だけが存在感を強めていく。




