リリアーナの横顔と、午後の紅茶
午后の陽光は、アルヴェント侯爵家の庭園を、春の絹のように静かに包み込んでいた。
陽射しは強すぎず弱すぎず、ただ緑の葉を透かし、影をやわらかく落とし、庭の隅々まで美しい階調を与えている。
レアは、テラスのテーブルに白磁のティーセットを並べながら、そっと息を整えた。
控えめな金の縁取りが施されたティーポットが、光を柔らかく反射し、まるで主であるリリアーナの気品を映すかのようだった。
今日のリリアーナは、午前のレッスンを終えて、少しだけ疲れているように見えた。けれど、その疲労は表情には出ず、姿勢の崩れもなく、ただ瞳だけに微かな影があった。
気づくのはレアだけだ。
どれほど優れた侍女であっても、主を長く見つめてきた時間の長さでは負けない自信がある。
レアはティーポットのふたを開け、静かに茶葉を蒸らしていく。
リリアーナが好むのは、薔薇の香りをほんのすこし含んだブラックティー。
濃すぎてもダメ、薄すぎてもいけない。
完璧な濃度への調整は、毎日のように淹れていても、決して油断のない緊張を伴った。
テラスの椅子に腰をおろしたリリアーナは、うすく微笑みながらレアに声をかける。
「今日のお紅茶は、どんな香りかしら」
「本日は春摘みのものに、ひと粒だけ薔薇を添えました。お気に召していただければ幸いです、お嬢様。」
「ふふ、レアの淹れるお茶は、いつも安心するわ。」
その一言でレアの胸の奥が、静かに満たされる。
主の生活の一部になれるという幸福は、何よりも深い誇りだった。
ティーカップに紅茶を注いだ瞬間、ふわりと薔薇の香りが漂い、庭園の風と混ざって、まるで小さな魔法のように空気を変える。
リリアーナはそっとカップに唇を寄せ、瞳を細める。
「やっぱり好きだわ、この香り。」
「そのように言っていただけることが、わたくしの励みになります。」
短い対話。それで充分だった。
二人の間には、過剰な親密さも、礼儀を欠いた軽薄さもなく、ただ気品と信頼だけが静かに揺れていた。
レアはふと、庭園の向こう側に視線を向ける。
遠く、屋敷の手前の通路を、誰かが歩いてくる気配があった。
気取られないよう、あくまで自然な動作で周囲の気配を読む。
足音は軽く、靴音に規則がある。
これは敵意を持った者の歩き方ではない。
訓練された兵士でもない。
その判断を終えた後、廊下の影から姿を現したのは――リリアーナの母、アンジェリカ侯爵夫人だった。
ゆったりしたスカートを風に揺らし、金の髪をひとつに束ねた優雅な姿。
お嬢様の美貌は、この夫人から受け継いだのだとレアはいつも思う。
「まあ、リリアーナ。ここにいたのね。」
「あら、お母様。」
レアはすぐに立ち上がり、丁寧にスカートをつまんで会釈した。
「お疲れ様でございます、奥様。」
「ありがとう、レアさん。いつも娘をよく見てくれているわね。」
「勿体ないお言葉でございます。」
上品な時間が流れる。
レアは続けて、夫人のためのティーカップも用意し、丁寧に注いだ。
夫人はその動作を余すことなく静かに見つめている。
その視線は、レアの所作の正確さを確認しているというより――娘を安心して預けられる存在かどうかを確かめる母のものだった。
夫人が紅茶をひと口含み、優しく微笑む。
「あなたの淹れるお茶は、どこか落ち着くわね。レアさん。」
「恐れ入ります。」
庭の花々が風に揺れ、3人だけの静かな午後が続く。
どこにも緊迫はなく、ただ優雅な時間が流れている。
レアはその静けさを守るためだけに存在しているのだと、胸の奥で静かに思った。
ふと、屋敷の影で黒い影が揺れた。
ほんのかすかな気配。
普通なら見過ごしてしまうほど些細な動き。
だがレアの耳は確かに捉えた。
音ではない。空気の密度の変化。
一瞬だけ、誰かがこちらを“観察した”気配があった。
……ノアだ。
あの執事の気配は、誰よりも静かで、冷たい。
一章の終盤で偶然出会ったあの視線と同じだ。
しかしレアは表情ひとつ変えず、ただ銀のポットの蓋をそっと閉じた。
その一連の動作すべてが、ただのメイドとしての振る舞いにしか見えないように。
リリアーナが紅茶を飲み終えるのを待ち、静かに尋ねた。
「レア、どうしたの?」
「あいにく、何もございません。ご心配には及びません、お嬢様。」
優雅な午後は、そのまま変わらぬ美しさで続いていく。
ただ一つ、レアだけが知っている。
この午後の安らぎが、どれほど脆く儚い均衡の上に成り立っているかを――。




