図書室の小さな波紋
午前の陽光が、館の図書室に柔らかく差し込む。
埃にまみれた古書の香りと、木の床の温かみが、静かな日常を漂わせていた。
リリアーナは大きな机に座り、手紙を書いている。
その横で、レアは丁寧に羽根箒で床を掃き、椅子の脚を揃える。
昼下がりの静寂は、まるで時間がゆっくりと溶けるように流れていた。
「ねぇ、レア。この書簡、ヴィクトル様宛で合っているかしら?」
リリアーナは文字を指でなぞり、微笑む。
「はい、お嬢様。内容も問題ございません」
レアの声は低く、穏やかで、耳の微かな動き以外には緊張を見せない。
だが、窓の外で何かが微かに揺れる。
カーテンが一瞬だけ風に揺れ、影が一瞬、廊下に滑った。
犬面の目は、その違和感を見逃さない。
──黒手袋の冷たい存在。
「……ノア」
心の中でつぶやく。
昨日、夜の廊下で交わした視線の余韻が、まだ胸に残っている。
その気配は、遠くにありながら確かに存在する。
レアは何事もない顔で机を拭き続け、静かに耳を傾けた。
突然、本棚の一角から、かすかな物音。
古書の表紙が微かに擦れる。
リリアーナは首を傾げ、眉をひそめる。
「なんだろう……風かしら?」
「おそらく、そのようでございます」
レアは微笑みを浮かべるが、耳は確かに動いている。
物音は再び、同じ場所から。
今度は確かに風ではない。
黒手袋の軽い擦れる音。
視線を向けると、廊下の奥に誰もいない。
しかし、影はそこにある。
──館内のどこかで、策略が静かに進行している。
──そしてその中心には、ノアの存在があった。
リリアーナはまだ知らない。
今日の小さな異変は、やがて彼女の平穏を揺るがす序章に過ぎないことを。
午後のひととき、レアはそっと窓を閉め、カーテンを整える。
光と影の間に立つその姿は、まるで犬のように敏感で、
しかし優雅で柔らかい人影のまま、平和な午後を守り続ける。
「お嬢様、少々の異変はございますが、問題ありません」
微笑む声には、忠誠の光が宿る。
リリアーナは安心して手紙を書き続ける。
だが、レアの犬面の瞳は、再び影を追っていた。
廊下の端で、黒手袋の指先が微かに動く。
それは今日の小さな波紋――
しかし、犬面メイドはもうすでに察知している。
──影の先には、何か計画されたものが潜んでいることを。
夜がゆっくり迫り、館に長い影が落ちる頃、
レアは小さなため息と共に誓う。
「お嬢様……どんな影が訪れようとも、守り抜きます」
月明かりに照らされた図書室は静かで、
ただ一つ、黒手袋の存在だけが微かに波紋を残したままだった。




