午後の香り、影の予感
午後の館内は、柔らかな光に包まれていた。
暖炉の残り火がかすかに揺れ、静かな空気に温もりを加える。
リリアーナは絹のカーテン越しに外の庭園を眺め、
「今日は空が高くて、気持ちいいわね」と穏やかに呟く。
レアはその背後で、細心の注意を払いながらお茶を用意する。
銀のポットから湯気が立ち上る。
湯気の向こうで、犬面の瞳が微かに庭の影を追う。
──昼間の光に紛れても、影は消えない。
「レア、この花瓶の薔薇、昨日と少し違う気がする」
リリアーナは指先で花びらに触れ、香りを嗅ぐ。
「風や温度の影響かもしれません。自然の変化でございます」
レアは落ち着いた声で答えるが、耳はぴくりと動き、気配を嗅ぎ分ける。
窓の外、庭園の茂みで何かが揺れる。
──黒手袋の冷たい存在。
レアは目で追うが、ただの風のようにも見える。
それでも、犬の感覚は、微妙に異常な気配を告げていた。
リリアーナは微笑んで、手元の刺繍を続ける。
「最近、なんだか空気が変わった気がするの……気のせいかしら」
「いえ、お嬢様。大きな変化はございません」
レアは静かに答える。
表向きは平穏を保つ。しかし心は、影の存在をじっと観察している。
午後の静けさの中、館の奥で扉がわずかに軋む音がした。
使用人たちは誰も気に留めない。
だが、レアはその音の方向に体を向け、微かに耳を傾ける。
──何もいない。
しかし、確かに気配は残っている。
窓から差し込む光の中で、レアは心の中で誓う。
「お嬢様……どんな影が忍び寄ろうとも、私は必ず守ります」
リリアーナは無邪気に微笑み、穏やかな時間を楽しむ。
レアはその笑顔を守るため、昼の光と夜の影の間に立ち続ける。
館の静けさは変わらず、しかし犬面メイドの瞳は、微かに揺れる黒手袋の気配を追っていた。
午後の空気に混じる微かな香り。
薔薇の甘い香りの奥に、かすかに金属の冷たい匂いが漂う。
その匂いに、レアの心が微かに緊張する。
──影はまだ遠く、事件ではない。
だが、存在を知らせるには十分な波紋だった。
窓際のレアの影は長く伸び、柔らかな光に溶ける。
犬面の表情は変わらない。
しかしその内側には、冷静で鋭い警戒心が光を帯びていた。
──これが、日常の静けさの中で生まれる小さな戦いの始まりであることを、誰も知らない。




