夜の廊下、二つの影
館内に夜の静寂が広がっていた。
月明かりは、曇り硝子越しに薄く差し込み、廊下の大理石の床を銀色に染めている。
燭台の炎が揺らめき、壁に落ちる影は不規則に伸び縮みし、まるで生き物のように蠢いていた。
犬面のメイド、レアはその影の中を歩きながら、呼吸を整える。
夜の館は昼間の庭園とは打って変わって静謐そのもの。
鳥のさえずりも、花の香りもなく、ただ自分の足音だけが微かに反響する。
だが、その音すらも、レアの嗅覚と感覚には、わずかに変化した空気を知らせる。
──冷たい金属の香り。
──計算された足音の消し方。
──人の気配ではない、何か影の気配。
「……ノア」
犬の鼻がかすかに動いた。
背筋を伸ばし、瞳を細める。
廊下の奥、漆黒の影がゆっくりと現れる。
灰色の瞳、整った黒髪、そして黒手袋に包まれた指先。
彼の立ち居振る舞いは完璧に礼儀正しい。
だが、その背後には、戦慄すら覚える冷たさが漂っていた。
レアは一歩も引かず、静かに見据える。
「……あなたが、レアか」
ノアの低く、計算された声が廊下に響く。
戦闘の気配はまだない。
しかしその一言だけで、レアの背筋に小さな緊張が走る。
廊下の隅に置かれた燭台の炎が、二人の影を長く伸ばした。
まるで影同士が、言葉なく交錯しているかのようだ。
犬面の顔は感情を読ませない。
だが瞳の奥には、冷静な警戒と忠誠の炎が、微かに揺らいでいた。
「お嬢様をお守りする者です」
レアは静かに答え、耳を微かに動かすだけ。
彼女の呼吸は平穏を装いながら、全神経はノアに向いていた。
ノアは軽く微笑み、礼をして廊下を通り過ぎる。
その笑みは人を魅了する優雅さを持つが、どこか牙を隠しているようで、見る者に不安を残す。
通り過ぎた後、廊下には黒手袋が擦れた微かな音の余韻が漂い、
それはまるで小さな波紋のように館全体に広がった。
レアは音が消えた後も、その場に立ち尽くす。
視線は廊下の奥を離れず、背後の闇に潜む可能性を嗅ぎ取る。
──危険はまだ始まっていない。
だが、波紋は確実に広がっている。
彼女の耳がピクリと動いた。
遠くで、かすかな足音。
しかし館内の使用人たちは、誰も気づかない。
ただ、犬面のメイドだけが知っていた。
この影の存在は、これから何度も訪れることになる、静かな脅威であることを。
夜が深まると、レアは廊下を静かに歩き、リリアーナの寝室へ向かう。
月明かりに照らされる犬面の横顔は、銀の鎧のように冷たく美しい。
「お嬢様……静かに守り抜きます」
小さな声で、心の中で誓う。
外の影はまだ見えない。
だが、確かに存在を示していることを、犬面の瞳は見抜いていた。
廊下の角で、レアは一瞬立ち止まる。
遠くの窓から、ノアの影がすっと横切ったのを目で追う。
冷たい風が廊下を通り抜け、香りのない空気に何か異質なものを運ぶ。
黒手袋の金属音は、かすかに耳に残る。
この館に、まだ眠るように潜む謀略の存在。
レアは深呼吸をひとつ。
犬面の表情は変わらない。
しかし心の奥で、牙のような覚悟がゆっくり光を帯びていく。
月明かりに照らされた廊下には、二つの影が静かに重なっていた。
一つは忠誠の影。
もう一つは、冷たく静かな謀略の影。
──接触はこれが初めて。
だが、決して最後ではない。




