Extra phase 2
そもそも、黒歴史とは何か?
言葉の正確な定義は置いておいて、私達が目指すものは単純明快に、『目が覚めた後で気恥ずかしい気分に陥る』出来事を指す。
「学習室では小声でも私語厳禁だから、閲覧席に座ろうか」
図書館のカウンターで予約していた書籍を持ってきてもらう傍ら、椿にーちゃんが提案してきた。
「グループ室とかって、無いの?」
大学の図書館って、討論の場として利用出来る防音の部屋があるイメージなんだけど。
私の言葉に、椿にーちゃんは頷いた。
「上の階にあるけど、自習の為の利用は学習室で、ってのが利用規約にあるんだ。三名以上でないと予約も取れないし」
「そっか、ここの学生は研究や討論で忙しいんだね。知らなかったよ」
「ミィちゃん、ミィちゃん。目の前にいるでしょ? 勤勉学生の鑑が」
書籍を受け取って閲覧席に先導しつつ、胸を張る椿にーちゃん。私は遠慮なく胡乱な眼差しを向けさせて頂き、窓際に沿って並べられた机に向かった。大きな窓の真下に長細い机に椅子が並んでいるが、日が射し込む方角や時間帯ではないのでなかなか快適そうだ。
私の後を付いて来た椿にーちゃんは、「ヒドいなあ、ミィちゃんは」などと呟きつつ足の長さ、コンパスの差を利用して一歩で私を追い抜き、閲覧席に書籍を置いて椅子をすっと引く。
「さあ、どうぞお座り下さい、姫」
「うむ。良きに計らえ」
引いた椅子の背に手を添えたまま後ろ側に立っているのは何事かと思えば、どうやら私を座らせてくれるおつもりらしい。……リアルでむかーしこれを自宅でやられた際には、椅子を押すフリをして素早く引かれて尻餅ついたがな! 流石に図書館で同じ悪戯はやらんだろう。
ええと、左側から座るのが正しい座り方だったな。あ、だからにーちゃんは左側を気持ち広めに空間が開くよう椅子を引いたのか。
有り難く座らせて頂くと、左隣に座った椿にーちゃんがぴったりと椅子を寄せてくる。利用者一人一人にきっちりと仕切りがある学習室と異なり、長細い机が並べてあるだけだしな。だからといって、何故引っ付いてくるのか、このあんちゃんの考えてる事まではさっぱり分からない。
「今日はどの科目をやるの?」
「英語……は、発声練習出来そうにないから書き取り以外は家でやる。後は数学を今日で全部終わらせるんだ」
「おお、やる気に満ちてますな」
何語で書かれているんだか知らんが、古そうな書籍を読んでいる椿にーちゃんの隣で英単語の書き取りに取り組み、英文の作成や和訳に小声でアドバイスを求め、さて、残りは家でやって数学に取り掛かるか……と、英語の教科書やノート、参考書や辞書をカバンにしまって数学のノートなどを取り出す。
ひたすら黙々と課題を片付けていると、ノートの端に置いていた利き手ではない左手の上に椿にーちゃんの手が乗せられた。
「椿にーちゃん、何?」
いつの間にやら前のめりになっていた姿勢を正し、私は小声で問いつつ隣席のにーちゃんを振り返った。
椿にーちゃんは机の上に広げた本から視線を外さないまま、小声で返してくる。
「何でもないよ?」
何でもないって、それならこの手は何なんだ。特に用事は無いようだったので、ページを捲るついでに椿にーちゃんの手の下から引き抜いたら、別の位置に置いた手の上にまたも覆い被さってくる椿にーちゃんの大きな手。おまけに今度は私の指の間に、椿にーちゃんの指が絡められ。
……よく分からんが、放置されて拗ねたのだろうか? 取り敢えず、ウザくならない限り放っておこう。
椿にーちゃんの横顔をチラッと盗み見ると、私の視線に気が付いたにーちゃんは無言のまま『どうかした?』と尋ねるように淡く微笑んで小首を傾げる。
何でもないよ、という意味を込めて微笑み返し、私は再び数学に取り組む。
屋外のうだるような暑さや蝉の声からも遠ざかった、図書館の閲覧席の一角はとても穏やかで、時間はゆっくりと過ぎてゆく。椿にーちゃんは私の手の甲を撫でるようにスッと指先で触れ、キュッと握ってきた。
何がしたいのかは分からんが、好きなようにさせておこう。
午後四時過ぎ。図書館で課題を片付け、私は椿にーちゃんを伴ってスーパーへお買い物に赴いていた。荷物持ちが居るので重さを気にせず買い込めるのが有り難い。
「椿にーちゃん、今日の夕飯は何が食べたい?」
毎度お馴染みの質問に、椿にーちゃんはお買い物カートを押しながら「うーん」と考え込んだ。
「さっぱりしたものと辛いもの、どっちも食べたくてすげー悩ましいんだよね」
「じゃあ、今日は冷やし中華にしよう。うちのお父さん、辛いの超苦手だから」
お弁当だと汁気が多いものは詰められないから、家で出したくなるんだよね。
中年の口の中が大火事大惨事を思い返して本日の献立を決めると、椿にーちゃんがヒョイと私の顔を覗き込んできた。
「そういやミィちゃん、今度の週末って空いてる?」
選んだ具材をカートの上のお買い物カゴに入れながら、私はこっくりと頷く。
「うん。確か今週末だよね、夏祭り」
「そうそう。前々から約束してたし、一緒に行こう?」
「うん」
迷わずこくんと首肯した私に、椿にーちゃんは片手を握って「よっしゃ」と小さく拳を握った。……この人、そんなにお祭り騒ぎが好きなのか。地域の夏祭りでは花火も打ち上げられて、大きな通りの両脇にズラッと屋台も並んで、物凄い人出でごった返して大賑わいになるんだよね。
お祭りでの屋台の食べ物ってちょっと割高なのに、どうしてああも食べたくなるのか。
レジで清算を終え、今回もお米だの小麦粉だのお塩にお砂糖といった重たい品を山ほど抱えてスーパーを後にする椿にーちゃんは、荷物の重みなど全く意にも介さず大変上機嫌である。
「浴衣着せてあげるって約束したし、明日にでも浴衣買いに行こっか?」
「……浴衣って高くない?」
お小遣いあんまり持ってないし、使うなら夏祭りの屋台での買い食いにあてたい。眉をしかめる私に、にーちゃんは安心させるように笑いかけてきた。
「最近はリーズナブルな浴衣も売ってるよ?」
うーむ。椿にーちゃんと私の金銭面での価値観には、多少の相違が存在する気がして仕方がない。
話してる間に自宅に辿り着き、私達はキッチンダイニングに買ってきた品を運び入れた。
「じゃあ、私はちゃっちゃとお夕飯作っちゃうから、椿にーちゃんはくつろいでてね」
「はーい」
きっちり食べきってくれたお昼のお重箱は洗い場に置いておき、買ってきた生鮮食品は冷蔵庫にしまい、エプロンを身に付けお夕飯の支度に取り掛かる。
椿にーちゃんはすっかり慣れた様子で寝転がり用のマットとクッションを手に取り、だらだらごろごろし始めた。……自宅ばりにめっちゃくつろいでる! この大物な風格は、中の人の影響が強いんだろうな、きっと。
「あ~……何かミィちゃんの家って落ち着くー」
「そ、そう。それは良かったよ」
クッションを抱え込み、リラックスしきっている椿にーちゃん。……お昼ご飯を食べる前にはそこはかとなく感じられた、私と椿にーちゃんとの間に存在する見えない壁のようなものは、いったいどこへ消えたのだろうか? 今ののびのびにーちゃんからは、それが全く感じられない。
リアルでの話になるが最近は忙しかった為、私がこうしてご飯を作っている最中に旦那が居間でゴロゴロどころか、夕飯を一緒にとる事さえなかったしなあ。こんなにのんびりした所帯染みた空気は、何か久々だ。
手早くお夕飯の支度を整え、椿にーちゃんとテーブルを囲む……と言うか、並んで座る。
今日のにーちゃんは向かいに座りたがったり隣に来たり、忙しいな。麺類たる冷やし中華で『はい、あーん』はやりにくいと思うのだが、今度はいかなる風の吹き回しであろうか。
とはいえ別段気まずい空気もなく、和やかに夕食を頂いていると、今日はやたらと早い時刻に中年が帰宅し玄関先から廊下を賑わいが移動してくる。単独で賑々しさを製造可能な辺り、やはりあの中年はただ者ではない。
「ただいま、美鈴! 今夜の晩ご飯は何? お父さんお腹空いたよ!」
キッチンダイニングのドアを開け放ち、仕事帰りスーツ姿の中年は一息に言い放った。……仕事からの帰宅時に空腹を訴える、とプログラムしたのは例の製作者さんなのだろうか。やはり、どう考えてもこの中年からお素敵紳士ダンディズムをかき消し、中年っぷりを発揮するようになったのは私のせいではなく、本来の素養だとしか思えない。
「お帰りなさい、お父さん」
「雅春さんお帰りなさい。今日もお疲れ様です」
私と椿にーちゃんは座ったままドアの方へと顔だけ振り返り、中年へ声を掛ける。中年はドアを開け放った体勢のまましばし硬直し、やおら片手をバタバタと振り始めた。
「や、やあ椿君! 来ていたのだね!」
「はい、お邪魔させて頂いています」
声をひっくり返らせ、中年は気恥ずかしげに片手をバタつかせる。
中年的には一昨日の日曜日に、一緒に海に出掛けたばかりだろうに。相変わらず、うちの中年は椿にーちゃんが好きだな。
「……ちゃんと、守ってくれてる、よね?」
「ええ、もちろん」
「今日の夕飯は冷やし中華だよ。私達もう食べ終わっちゃうから、お父さんも早く着替えてきなよ」
どーせ、にーちゃんには毎度の子守りをさせてますよ。頬が赤くなったり無意味にバタバタと突発的手旗信号を考案している中年を促し、私は中年の分の冷やし中華の麺を皿に移し、具材を盛ってやる。
落ち着きなくドタドタと全速力で着替えて戻ってきたTシャツ裏表中年は、椿にーちゃんの向かい側に座って麺をズルズルと口の中に運び、空っぽの胃袋を満たし始めた。
私は冷蔵庫から食後の甘味を取り出し、スプーンを添えて小皿に乗せる。
「椿にーちゃん、今日のデザートは杏仁豆腐だよ」
「おお、ミィちゃんは杏仁豆腐まで作れるの!?」
「うんにゃ、レシピ知らなーい。これは出来合いのやつ買ったんだ」
デザートをテーブルに持って行き、杏仁豆腐は柔らかい方が美味しいか硬い方が良いかで私と椿にーちゃんが真剣に意見を戦わせていると、大量の麺をずぞぞ……と、吸い込み噛んで飲み込んだ中年が口を開いた。
因みに私は柔らか杏仁豆腐派だ。えーじは硬い方が正当だと言ってやまない奴だったが、椿にーちゃんになっても信念が揺らがぬとは。
「ねえ、美鈴」
「何、お父さん? お父さんは硬い方が良いかと思って材料が寒天のやつ買ってあるよ」
AIが感情を学んだり嗜好を確立させるのも、けっこう育ちにくい部分なんだよね。各人がこれこれこういう理由で好むというならまだしも、特に明確な理由はなく何となくで好き嫌いを発生させるのは、なかなか難しい。その点、うちの中年は私とマンツーマンで生活を送っているせいか、けっこう好みが出てきてると思う。苦い野菜は嫌で甘い物が好き、辛いものは苦手だなんてお子様舌仕様を固め始めているのは、同居プレイヤーが子どもだからなのか?
などという事を考えていると、中年が壁に掛けられたカレンダーをチラリと見やってから、ソワソワとし始めた。
「……どうしたの?」
「今度の週末の事なんだけど……」
「ああ、近所で夏祭りあるよね」
「そうそれ! 良かったら美鈴。その日はお父さんと、で……」
「夏祭りの夜は私、椿にーちゃんと浴衣デートしてくるよ」
身を乗り出してくる中年の言葉を遮り、私は笑顔で言い放った。意表を突かれたのか中年は口をパクパクと動かして、是非を問うように私から椿にーちゃんへと顔面ごと視線を動かす。
「はい、ずっと前から約束していたんです。夏休みになったら浴衣を着て、一緒に夏祭りに行こうね、って」
「お、お父さんも一緒に……」
「デートだからヤだ」
笑顔で頷く椿にーちゃんに、縋りつくように中年がゴネ始めたが、私は即座に切り捨てる。家族旅行ならばともかく、保護者同伴のデートって何だ。
「みっ、美鈴にはデートだなんてまだ早いと、お父さんは思います!」
箸を握ったまま、テーブルを拳で叩いて涙目で訴える中年の利き手じゃない方の拳に、椿にーちゃんは真剣な表情でそっと手を置いた。
「雅春さん、お土産は何が良いですか?」
「つ、椿君、お土産なんかでお父さんは誤魔化されないから!」
「夏祭りの屋台と言ったら、やはり綿飴や林檎飴でしょうか。いつもお仕事でお疲れの雅春さんが、混雑する人混みで難儀する事なくご自宅でゆったりと花火を楽しめるように、私と美鈴ちゃんでお使いに行ってきますよ」
「お、お父さんの為に……?」
椿にーちゃんの穏やかな微笑を湛えた眼差しを中年は潤んだ目で見返し、しばし見つめ合った。
「あ、ありがとう椿君。君がそんなに私の事を案じてくれていただなんて……!」
……こんなにあっさり絆されるだなんて、うちの中年、椿にーちゃんの事好きすぎじゃないだろうか?
「だから安心して、美鈴ちゃんの事は私にお任せ下さい」
「うんうん。あ、美鈴、お父さんかき氷とイカ焼きも食べたいから、忘れないでね!」
椿にーちゃんに頷いて、中年は間髪入れずに私へお土産リクエストを出してきた。……それ、両方とも中年が海水浴場で食ってたやつだね。好物候補として記録されたのかしらん。メロンシロップ山ほど掛けて来てやれば良いのか中年よ。
椿にーちゃんが手を離したのを機に、中年は夕食を再開して箸を動かし始める。
「それで、椿君は浴衣を着てお祭りに行くのかい?」
「ええ。実家から持ってきた浴衣があるので。
それで、明日にでも美鈴ちゃんの浴衣を買いに行こうかと、相談していたところだったんですよ」
……そういや、そんな話題の最中だったな。中年の帰宅で吹っ飛んじゃってたけど。
椿にーちゃんの言葉に、中年は錦糸卵をもぐもぐと噛みつつ首を傾げた。
「……わざわざ新しく買わなくても、美鈴、美波さんの浴衣が箪笥の引き出しにしまってあるから、それを着ていきなさい」
「お母さんの?」
「柄が古いって思うかもしれないけど、物はとても良いんだよ。美鈴にもそろそろ着られるんじゃないかな」
着る機会は少ないのにわざわざ購入するのもなあ……と、染み付いた貧乏性根性でもったいないんじゃないかと考えていた私は、中年の勧めに従う事にした。
その日は夕食後に英会話の特訓をし、人が変わったようなスパルタっぷりに慄く中年をよそに、私はビシバシと指導され。帰路につく椿にーちゃんを玄関先で見送ってから、中年と一緒に和室の箪笥からお母さんの浴衣を引っ張り出して広げる。
……連れ合いを早くに亡くした設定は変更してやってくれという要望、流石に昨日の今日でそうすぐに反映されたりはしなかったけれど、懐かしそうな表情を浮かべて浴衣に目を細める中年を見ていたら、やっぱりこの人がお上の都合でやもめなのはちょっと可哀想だよなあ、という気持ちがするのだ。
「この浴衣、きっと美鈴に似合うよ」
「うん、楽しみ」
薄いピンク地に主張の激しくない小花が散っている上品な柄なのだが、この花って桜だよなあ。当日は椿にーちゃんから貰った簪をまた付けようと思ってたけど、青い紫陽花をイメージしているあの簪と合わない。
「ねー、お父さん」
「うん?」
浴衣や着物と一緒に仕舞われていた、肌襦袢や巾着、帯といった品々を確認した私は、父を見上げて首を傾げた。
「浴衣はこれで良いとして……下駄はどこにあるの? 玄関の靴箱に下駄なんて無かったと思ったけど」
「……」
私の素朴な疑問に、父は沈黙した。
というか、お母さんの下駄をどこかにとってあったとしても、私の足のサイズに合うかどうかが別問題な訳で。
翌々日の部活動登校日。
お昼休みの時間に、中学校の校舎内でも密談に向いた音楽室で、私とアイ、そして時枝先輩がお弁当を広げて作戦会議を開いていた。
「……それで結局、昨日は椿さんと一緒に下駄を買いに行ったと」
「うん。我が夫ながら、凄いわあの人。一昨日の図書館デートでは何かぎこちなかったクセに、昨日のショッピングデートではほぼ『いつもの椿にーちゃん』に戻ってた。
でも、相変わらず部屋には入れてくれないんだけど、どうしてだと思う?」
作る料理マズい、と断言していた光お兄さん作のお弁当を平らげていた時枝先輩が、噛んでいたおにぎりを飲み込んでから口を開く。
「あの人の事だから、巨乳モノなレンタルDVDあたりが部屋に山積みになってんじゃねーの?」
「うわっ、実にありそう!」
時枝先輩へ、そっとアスパラベーコンを差し入れてやると、アイもまたプチトマトを時枝先輩のお弁当箱へ入れてやりつつ唇を持ち上げる。
「もしくは、美鈴っちの隠し撮り写真を寝室にコッソリ飾っているか、だな」
「……というか。隠し撮りなんてしてるかなあ?」
中の人であるえーじの嗜好、知ってる人は知っている……
ニヤリと笑って写真や動画撮影とかしたがる人だが、椿にーちゃんは真っ向からカメコさんに変身してバシャバシャ激写していた覚えしかないぞ。
「なあに、部屋に入れたがらないと言うのならば、向こうが入れざるを得ない状況に持っていけば良いだけの話だ」
「渋木、お前はもう少し万人へ思いやりの心と、男への寛大さを持った方が良い。あの人が何隠してんだかは知らんが、少しは汲んで容赦してやれ」
「なるほど、狙い目は夏祭りの帰り道かな。『椿にーちゃん』が私を部屋に上げざるを得ない理由付けと言えば~……マンションの前でシステムに干渉して都合よく雨に降られるか、盛大に転んで怪我をするか、だね!」
「みのりも下らん好奇心で全力投球に身体を張るな!
つーか、みのり個人の都合で天候を操作したのが父さんにバレたら、後でドヤされるぞ?」
すかさず左右へツッコミを入れてくる時枝先輩に、私は頬を膨らませた。
「だがな、時枝先輩。
以前は気軽に通していたというのに、今は入れたがらない部屋の秘密を暴くというのは、十分黒歴史の匂いがしないか?」
「……」
アイが楽しげにフォークを振りつつ指摘すると、時枝先輩も同感であったのか咄嗟に言葉が出ずに黙り込む。
「ふっ。見てろよえーじ。浮気の証拠を掴み取ってやるわ」
「例え仮にアイドルやアニメのDVDやポスターやフィギュアや抱き枕があっても、それは浮気じゃねえ」
私の冗談に、ボソッと呟く時枝先輩。
……『今の椿にーちゃん』が何をしたところで、それは記憶が無ければ単なる不可抗力だ。それは分かっている。
だが、あの旦那が自分で言ったのだ。『記憶を無くそうが、生まれ変わろうが関係が無い』と。ならば今度こそ、それをハッキリと証明してもらおうじゃないか。
「で、渋木。オレへの作戦方針提案は無いのか?」
「ふむ。美鈴っちの方は面白いから手を貸しても良いが、時枝先輩には敢えて何も助言を与えない方が、より面白くなる予感がする」
「おい。てめ、マジで男には容赦ねえな!?」
さり気なくアドバイスを与える事さえ拒否して、イイ笑顔で言い放つアイ。
あと、時枝先輩の中のあんちゃん。アイのそれは、ある意味愛情表現だ。
「あの兄貴、普段ふざけた言動ばっかりかますくせに、肝心なところで目敏くてちっとも隙がねぇんだよ!」
「それはそうだろう。あれはあたしなど目ではない、無害を装った悪魔だからな」
「げぇ……」
「なーに、幸い時枝先輩は光氏に気に入られているようじゃないか。諦めて玩具にされてくれば良い」
頭を抱える時枝先輩を横目に、アイはお茶を啜って「ほぅっ」と、満足げな溜め息を吐いていた。
私は自分の旦那の事で手一杯なんだ。許せよあんちゃん。
昼食後は美術室にて文化祭で飾る絵を仕上げにかかり(本編中の記憶の中では既に完成していたので、おかしな感じだ)、顧問の小川先生に「この妖艶な空気……素晴らしいぞ葉山!」というお褒めの言葉? を頂き、次の週にある林間学校の話題を同じ学年の部員と交わしてその日は帰宅。
何気に夏休みって学校行事やら催しの予定が入ってて、忙しいな。……時枝先輩、コンクールに出品する絵にかまけて、文化祭に作品間に合うのか?
黙々と課題を片付けて、遂に週末の夏祭りの日がやってきた。
「美鈴、お父さんへのお土産、本当に絶対忘れないでね。
イカ焼きと、かき氷と、林檎飴と綿飴とタコ焼きとお好み焼きと焼きそばだよ!」
「はいはい。全く、お父さんそんなに食べてお腹壊しても知らないよ」
私は畳の和室にお母さんの浴衣を広げながら、呆れた眼差しを中年に向けた。そんなに食べたいのならば、自分で食べ物を買い込みに行けば良いと思う。取り敢えず、中年希望の品が多すぎて私とにーちゃんの両手だけでは持ちきれなさそうなので、一応レジ袋を持参しておこう。リクエストの品が全て、剥き出しではあるまい。
私に浴衣を着付けるべく、夏祭り開会の時間よりも少し早めに椿にーちゃんは我が家へやって来る約束になっている。
お財布やハンカチ、スマホや敷物用シートなど忘れ物が無いかを改めて確認し、髪が邪魔にならないようお団子に結う。
服と下着を脱いで畳んでおき、素肌の上に肌襦袢と裾よけがひとつになっているワンピース型の白い着物を身に着ける。薄手で通気性も高く、汗をよく吸収してくれて生地が肌に貼りつかない優れもの。
「……こりゃ楽で良いな」
パタパタと腕を上げたり、その場でくるっと回ってみたりして、動きを阻害しないしさほど暑くはない事を確認する。日本の昔のパジャマって、こんな感じだったのかな。うむ、なかなか過ごしやすいかもしれない。
「美鈴ー、椿君がいらしたよー」
白い肌襦袢姿で畳の上に寝転がってごろごろしていたら、玄関先の方から中年の声がした。どうやら留守番予定中年が椿にーちゃんを出迎えてくれたらしい。
私はむくりと起き上がって「はーい」と返事を返し、障子戸に手を伸ばす。
「ミィちゃん、来たよ。開けても良いかな?」
しかし、玄関先から廊下を足早に移動して出入り口の向こうに既に到着していたらしき椿にーちゃんが、明るい声で尋ねてきて、私は返事の代わりに勢い良く障子戸を開いた。ついでにそのまま廊下に佇んでいた椿にーちゃんに飛び付く。
「おっ、と」
「にーちゃんいらっしゃい!
早く着せて着せて」
勢いが有りすぎたのか、驚いたように仰け反る椿にーちゃんもまた、既に浴衣を着用していた。
遠目からでは単なる濃い藍色に見える生地でも、近付いてよくよく見てみると、ちゃんと柄があるんだ、へー。これって、プリントとかじゃなくて染め物だよね。私には着物の良し悪しは分からないけど、にーちゃんマジで浴衣似合うな。
絵のモデルを頼んだ時に着ていたものとは異なる、初めて見る浴衣をまじまじと観察していたら、頭上から椿にーちゃんの咳払いが聞こえてきた。
「にーちゃんどうしたの?」
「ミィちゃんさんや、俺、前に説明しなかったっけ?」
見上げれば、チラチラとこちらへ視線を下ろしては逸らすという、挙動不審な行動を取るおかしな椿にーちゃんが困惑したように尋ねてくる。
「合わせは左側が上だし、腰紐は固結びにしていない。私はいったい何を間違えたと?」
「……いや、うん、良いよもう。浴衣と帯はこれだね」
椿にーちゃんはふぅ……と深い溜め息を漏らし、抱き付いている私の肩を押して出入り口付近から退かすと、和室に入って薄桃色の浴衣をふわりと広げた。
「さ、着せてあげるからおいで、ミィちゃん」
「はーい」
手招きをする椿にーちゃんの傍らに近寄ると、浴衣を着せ掛けられておはしょりが作られ腰紐が回され……椿にーちゃん、相変わらず着付けが手際良くて早ぇぇぇ。
「うん、想像してた通り、ミィちゃんピンクの浴衣似合うね。可愛いよ」
「ありがとー。夏なのに桜柄ってどうなんだ、って、ちょっと思ったけど」
「桜は日本を代表する国花だから、おめでたい柄として通年好まれる良い柄なんだよ?」
「ふーん。そうなんだ」
「確か、物事の始まりや豊かさの象徴だったかな」
何しろ、中身はともかく外見はフワフワ甘可愛い系であった母の浴衣なので、そんな彼女に似合う可愛らしさ全開の浴衣なのだ。柄が桜なのは縁起物らしいからまあ良いとして、フツメン中年に似た顔である没個性的な風貌を持つ現在の私に似合うかどうかが、非常に心配である。
お喋りをしながらも、腕上げてとか、ここ押さえてて、後ろ向いて、などなど色々な指示が飛んでくるのにアタフタと従っていると、あっという間にお腹の上で黒い帯がキュッと締められ背後でゴソゴソしていた椿にーちゃんが「はい完成」と告げ、私の眼前へと回ってきた。
「ミィちゃん、今日もプレゼントがあるんだ」
「なに?」
今日も袂に手を突っ込む椿にーちゃん。やっぱりあの部位はポケットか、ポケットなんだな。
椿にーちゃんが取り出した長細い小箱は可愛らしくラッピングされていて、それを受け取った私は首を傾げた。
「椿にーちゃん、これなあに?」
「開けてみて」
にこにこと嬉しそうな表情を浮かべる椿にーちゃん。
包装紙を丁寧に剥がして小箱を開けてみると、桜を基調とした簪が入っていた。あら可愛い。
「……私、お母さんの浴衣の柄が桜だって、椿にーちゃんに教えたっけ?」
「ううん。下駄を買いに行った時も、薄桃色の浴衣としか言ってなかったよ。
でも、桃色の浴衣ときたら桜かな、と思って。これが赤だったなら候補の花の範囲が広くて、サプライズに出来なかったね」
椿にーちゃんはそう言って、箱から簪を取り上げると、私の髪にスッと挿した。お団子から零れていた横髪が耳に掛けられ、にーちゃんの長い指先が私の耳に触れてちょっとくすぐったい。
「……って感じで、スマートに決められたら良かったんだけど。ミィちゃんがどの下駄にしようか悩んでる間に、念の為お父さんにメールで柄を確認しておいたの。外したくなかったし」
ビッ! と、すかさず親指を立てて笑顔に覗いた歯をキラリと光らせる椿にーちゃん。おちゃらけて空気を軽くしたいのか、口説きたいのかあんたいったいどっちなんだ。
「えーと。もしかして、一緒に下駄買いに行った日に、これも買ったの?」
「うん。きっとミィちゃんに似合うと思ったから!」
私が下駄を選んでいる間に、椿にーちゃんまたしても衝動的に散財していたらしい。
「……なんで毎回簪をくれるの?」
「さり気ないプレゼントの機会は逃さない、のが鉄則だからね」
ふっふっふ、と、得意げに胸を張る椿にーちゃん。謎の行動原理だが、えーじも結婚前は何だかんだ言って色々くれたなー。
「よく似合ってるよ、ミィちゃん。月並みだけど、さ。ミィちゃんのこんなに可愛い浴衣姿、誰にも見せたくないって思っちゃって」
「にーちゃん……?」
畳に膝を着いて、立っている私を見上げる体勢になった椿にーちゃんは嬉しそうにはにかみつつ、片方の手を握ってもう片方の手を私の頭の後ろに回し、自分の顔を私の方に近付けて……って、え、おお? もしやこれはちゅーする流れでは!
内心を抑えて両目を閉じ、触れ合いを待つも、数秒待っても何も起こらない。
おや、どうした事だと目を開く。椿にーちゃんは私の手を握って後ろ頭を支えたまま、その視線だけが私の肩越しに後方へと向けられていた。気のせいか、にーちゃんの表情が微妙にひきつっている。
拘束力は無いに等しいにーちゃんの手はそのままに、くるりと後ろを振り返って見てみると、十センチにも満たない程度に開かれた障子戸の隙間から、人の目が片方、瞬きさえせず無言のまま、ただただこちらをじーーーーっと見つめてきている。
「ひぃっ!?」
反射的に後退ると背中が椿にーちゃんの胸元に当たり、私は思わずはっしとしがみついていた。
「……何をなさっていらっしゃるんですか、雅春さん?」
……恐怖心に駆られてしまったがあれは一応お化けではなく、休日で在宅していて椿にーちゃんを我が家へ迎え入れた中年だ。普通に部屋へ入ってくりゃ良いものを、何故だか無言のまま片目だけで室内の様子を窺っているだとか、こっちの行動原理も謎過ぎる!
背後から私の肩を抱き、苦笑気味に覗き見中年の真意を問う椿にーちゃん。
おのれ中年、壁に耳あり障子に目ありを実演してホラー要素までをも絶妙なタイミングでメアリーの演出をしてくるとは、要らん成長学習を遂げおって! マジで腰抜かすかと思ったぞ、メアリー!
「お父さん……いったいどうしたの? そんなところで」
気を取り直した私の問い掛けにもすぐには答えず、しばらくメアリー中年は微動だにせず黙りこくっていたが、ようやく口を開いた。
「お父さんの……」
「うん?」
「お父さんへのお土産、忘れたら絶対に許さないからね……?」
めっちゃくちゃ低い声音でそう念押しを重ね、ピシャッ! と、やや乱暴な音を立てて閉められる障子戸。
「……」
「……」
私と椿にーちゃんは無言で顔を見合わせ、どちらからともなく夏祭りへの出発を促した。
まったく。あの中年、そんなに屋台の食べ物へ血道を上げるぐらいならば、私達に託さず自分で買いに行けば良いのに。
出掛けにケチがついてしまった感があるが。椿にーちゃんが選んでくれた下駄を履いて自宅を出て、浴衣姿で手を繋ぎ二人並んで夏祭り会場へと向かう道すがらで、すっかりと私の機嫌は向上していた。
周囲の住宅街の路地からも、広い道路へとチラホラと浴衣やラフな服装をした、ご近所に住まう住民達が現れ同じ方角へ向かって歩き始める。
日が暮れ始めた夕暮れの茜色の空へ、ドーン! と一発試し打ちの花火が打ち上げられ、人々は空を見上げた。夏祭りの始まりが近付く。
夏祭りの会場はご近所の神社のすぐそばであり、私でも楽に徒歩で向かえる距離ではあるが、我が家と椿にーちゃんの住むマンションのどちらが近いかと言えば、断然マンションの方が近い。何しろ、高層マンションのすぐ隣にある公園の歩道沿いに屋台の出店が軒を連ね、マンションの背面、道路を挟んだ向かい側の小丘で森林に覆われその神社はある。
恐らく、以前は独自に神社で行われていた祭事と、地元の花火大会が同日に行われる事が通例になって、夏祭りと呼ばれるようになったんだと思う。
あの丘の更に奥、少し離れた池の側で花火が打ち上げられていて、つまりは立地的に花火見物をするのならばこのマンションから眺めるのがうってつけなんだけど。
「ねぇ椿にーちゃん。屋台で食べ物買って、にーちゃんの部屋で花火見たら大迫力じゃないかと思うんだけど」
「えー? せっかく夕涼みに出てきたんだし、公園からの方が風情があるよー」
「そお?」
「それに、花火に夢中になって、うっかり雅春さんのお土産を買いそびれたら大事だ」
「……そうだね」
手を繋いだまま真顔で諫められ、私は渋々頷いた。おのれメアリー、自宅に居ながらにしてここまで祟ってくるか!
我が夫は見栄っ張りなところがあるので、急な話であれば部屋が雑然としているから招きたくない、という言い分もまあ理解は出来る。だが、私はここ数日間ずっとねだり続けているのだから、部屋に入れるつもりがあればとうに嬉々として掃除している。
椿にーちゃんのお部屋に行きたいの(はーと)……という訴えをこうまでことごとく退けられてしまうとなると、これは本格的にヤバいモノを隠しているらしい。
らしいとか結論付けるも、それ以上は全く手掛かりも何もないのでお手上げ状態の私。歩きながら椿にーちゃんの横顔をじーっと見上げていると、屋台が並ぶ通りを指差し、椿にーちゃんが私の顔を覗き込んできた。
「ミィちゃんミィちゃん、何食べたい?」
「んー。タコ焼きをね、半分こしない?」
賑わう屋台の通りをざっと見える範囲で見回した私は、まずは夕食になる食べ物をねだってみた。繋いでいた手を解いて、椿にーちゃんの腕に抱き付く。
「今日はね、色んなものをちょっとずつ食べたいんだ」
「はいはい、奢らせて頂きますよお姫様」
帯でお腹をギュッと締め付けられているせいで、あまり食べられる気がしないが、ああいった屋台というのは何故こうも眺めていると食べたくなるのか。
椿にーちゃんにタコ焼きを買って貰い、行き交う人通りの邪魔にならぬよう通りの片隅に移動し、二本付いている爪楊枝でそれぞれ熱々のタコ焼きをはふはふしながら食べる。
「ミィちゃん、タコ焼きに何で大抵、爪楊枝が二本付いてるか知ってる?」
出たな蘊蓄雑学王えーじ。いや、言葉遣いが柔らかいせいか、嫌味ったらしさや自慢気な空気が無いけども。
私は首を左右に振った。
「ううん、知らなーい」
嘘でーす。本当は知ってまーす。えーじが意地悪い顔をして焦らした挙げ句、二本の方が安定して持ち上げやすいからだって教えてくれました。しかし椿にーちゃんの得意顔は何か可愛いので、このまま拝聴させて頂きましょうぞ。
「ほら、こっちのタコ焼きって表面が比較的固めに焼いてあるのが多いけど……」
にまにましながら椿にーちゃんの顔を眺めていたら、解説していたにーちゃんはちょっと小首を傾げた。
「……ミィちゃんもしかして知ってた?」
「知らなかったよ?」
椿にーちゃんだと蘊蓄も可愛いって事はね。
何か物言いたげな椿にーちゃんの言を遮って、最後の二個のタコ焼きのうち、一個をえいやっと椿にーちゃんの口に押し込む。
「もごっ……あつっ。
……あ、これタコが二切れ入ってる」
「え、ホント?」
熱々から少しだけ冷めたタコ焼きを噛んだにーちゃんは、目元を緩ませ「ラッキー」と呟いた。私も期待して最後の一個を口に放り込み、噛む。出汁の効いた生地に、ソースとマヨネーズのかかった丸いタコ焼きを噛み続ける。
舌の上で生地は千切れ細かく旨味を残していくが、ぷにっと固い感触が存在しなかった。
ハハハハ。タコを撒いた際に、本来入るべき部分からズレて隣の型にポロッと零れたんだね。だからあっちは二切れだったと。
「……こっち、タコが抜けてて単なる『お焼き』だった……」
私の呆然とした呟きに、プッと吹き出す椿にーちゃんの腹に軽くパンチをかまし、我々は気を取り直して射的と水風船掬いに挑戦する事にした。
金魚掬いはほら、上手く掬えたとしても持ち帰って飼育する準備をしてないし。
可愛い柄の水風船を一発で釣り上げ、上手く取れない私にアドバイスをしてくれ。射的の景品であるお菓子をソツなくゲットし、チャレンジが全弾空振りに終わった私に笑顔で戦利品を全て手渡してくる椿にーちゃん。くそう、何でこの人こんなに器用なんだ。
「不満そうだけど、どうしたのミィちゃん? もう一回チャレンジしてみる?」
「ううん、いいよ。当たる気がしないし、にーちゃんからお菓子貰ったもん」
お菓子は巾着にしまって、水が入った水風船の輪ゴムを中指に付けてパシパシと上下させる。
システムアシストに物をいわせ、射的勝負で椿にーちゃんをぎゃふんと言わせてやろうと企んだけれど、椿にーちゃんの方が『射撃スキル発動』だの『器用値』のボーナスがやたらと高かったんだよ。よく考えたらこの人、拳銃で動く的にだって当てられる設定のスナイパーだった。射的命中率で勝てるわけ無かったわ……
「そろそろ花火が上がるね。ミィちゃん、どこか座れるところに移動しない?」
「うん」
小さいサイズである赤い姫林檎飴を買って貰って舐めながら、椿にーちゃんの腕に抱き付いて公園の歩道を歩く。
普段は閑静な散歩道が、今日はベンチから芝生まで人だかりでいっぱいだ。
「にーちゃんにーちゃん、境内の方に行ってみようよ。案外人少ないらしいよ」
「そう?」
話している間に、夜空に本日第一弾の花火が打ち上げられた。
ドーン、ひゅるるる……と、大きな音が絶え間なく響き、赤や緑、青色や白っぽい光が漆黒の夜空を彩ってゆく。
屋台通りのざわめきと人混みの間を縫うようにして通り抜け、私とにーちゃんは下駄をカラコロと言わせながら石段を登り、人の姿が見えない境内の裏手の林へとやって来た。
「ね? 人居なくて落ち着いて見られるでしょ?」
「……あのさあ、ミィちゃん。もしかして去年も一人でここに来てたりした?」
巾着の中から取り出した持参のシートを広げ、次から次へと打ち上がる花火を見上げている私に、隣に座った椿にーちゃんが呆れたように尋ねてきた。
人が少なくて穴場なんだけど、林の枝振りがところどころ上空を遮っていて、満天の夜空に咲く花火を余すところなく満喫! とはいかないのが難点。人が居なくてゆっくり出来るから、いい場所だと思うんだけど。にーちゃんのお気に召さなかったのだろうか。
「ううん? 流石に一人では来ないよ。夜に子どもだけとか女の子だけで、こんな人気の無いとこに来たら不用心じゃん」
「それなら良いんだけど……」
椿にーちゃんは不意に両腕を私に回して、グイッと抱き寄せてくる。
「『人気の無いとこ』に俺を連れ込んだりして。もしかしてミィちゃん、俺を誘ってるの?」
突然だったので、驚いて手にしていた林檎飴を危うく取り落としかけた私は、唇に付いた飴を舐めながら間近に顔を寄せてきた椿にーちゃんを見上げた。
このあんちゃん、相変わらず積極的だな。
「ん? んーと……誘う方法がよく分かんない。から、出来たら教えて欲しい、かな」
花火の下で、鮮やかに彩られ照らし出された椿にーちゃんは、唇を歪めた。
「分からない、だなんて、とんだ嘘つきだね」
後頭部に手が回ったと思ったら、グイッと顔を引き寄せられた。
「毎日毎晩、俺を誘惑して惑わしてる小悪魔のくせに。
そんな悪い子には、お仕置きしないと」
お仕置き、と笑いを含んだ声音で呟きながら、椿にーちゃんは私の唇に付着した飴を舐めて綺麗にしてゆく。指先が頬に触れ、「こんなとこにも飴引っ付けて」と、呆れたように舐めとられた。
くすぐったい、という抗議は唇を塞がれて封じ込められてしまい……私はゆっくりとシートの上に横たえられた。手から、食べかけの林檎飴と水風船が草むらに転がり落ちる。
花火が上がる夜空を背景に、浴衣の胸元を暑苦しそうに片手で緩めた椿にーちゃんが、私の上に覆い被さってくる。
「……ええと、椿にーちゃん? 花火見ないの?」
「見てるよ?」
無駄に妖艶な微笑を浮かべて即答された。
いやいや、あんさん背中向けてますよね? というツッコミを入れる前に柔らかく唇がはまれて、私は戸惑った。こんな時、椿にーちゃんが止めざるを得ない言葉って何だろう。えーじなら一発で思いとどまってくれる一言が、椿にーちゃんにも通用するとは思えない。
「にーちゃん待って」
「やだ、待ちたくない」
私の制止の言葉に、にーちゃんは耳元で低く答える。
椿にーちゃんの手が、私の手の甲を撫でてから肩に伸ばされ……そうしてガクンと、全身から力が抜けたように椿にーちゃんが脱力した。私のうなじの辺りに口付けようとしていた為、薄いシートに勢い良く側頭部をぶつけているが、意識を失っているようである。というか、熟睡状態だ。
私はむくりと上半身を起こし、眠っている椿にーちゃんの頭を膝に乗せた。
「椿にーちゃん、このゲームは十八禁じゃないんだよー」
脳内分泌物をある程度抑えているとはいえ、恋愛シミュレーションゲームなので盛り上がる客が現れないとも限らない。そんな時はまあGM側が実力行使をせずとも、こうやってセクハラ防止にシステムが問答無用で行動不能にしてしまう訳だが。目の前で突然意識を失われると、分かっていても驚くな。
私は膝に乗せた椿にーちゃんの頭を撫でつつ、夜空を彩る花火を見上げ、うーんと唸った。
せっかく花火を見に来たのに、デート相手が早々にダウンしてしまったのだけれど、この場合はいったいいつになれば目覚めるのだろうか。というか、林檎飴食べかけだったのにもったいない。
花火も後半になって、ようやく目を覚ましたは良いが、状況が掴みかねている椿にーちゃんに、ちょっと拗ねてみせて屋台で散財させ、夏祭りは大きな問題も起こらず終わった。何か椿にーちゃんの中では、うっかりお酒飲んで花火が上がってる最中うたた寝をしちゃった事になっているらしい。状況の辻褄合わせもバッチリな脳内補正システムのアシストがちょっぴり怖いです。
「にーちゃん、下駄で歩いて疲れちゃった。にーちゃんのお部屋で休ませて?」
「ああ、それならおんぶしてあげるよ。さ、遠慮しないで?」
帰り道にさり気なくねだってみたけれど、椿にーちゃんの部屋には相変わらず入れてもらえなかった。いけずー。
遠慮なく背中に特攻した。
そして帰宅後。
「お帰り、美鈴、椿君!
さあ、お父さんへのお土産はどこ?」
「……あ」
玄関先で待ち伏せていたメアリー中年から頼まれた品、帰り際に購入するのすっかり忘れてた。
夏祭りが終わったら、すぐに林間学校である。行ってらっしゃい楽しんできてね、と、椿にーちゃんに笑顔で送り出され、数日間の泊まりがけ学校行事を楽しく終え、その帰路にて。私はバスの中で唇を尖らせていた。
この調子でいくと、黒歴史を製作する前に、あっという間に夏休みが終わってしまいそうだ。何だあのあんちゃん隙が無いぞ。
「どうしたんだい、美鈴っち?
やけにご機嫌斜めじゃないか」
「全ッ然、えーじの黒歴史を暴けそうにないの……このままじゃ、夏休みが終わっちゃう」
隣の座席に座っているアイが、窓から視線を外して問うてくるのに焦燥感を交え答えたら、我が友は不思議そうに幾度か瞬きをする。
「というかもう十分、瑛司さんが赤面するネタを掴んだと思ったが」
「ええ? アイの情報収集能力分けてよ……」
「そもそもだな」
へにゃ、と、座席に崩れ落ちる私の頭をぽんぽんと軽く撫で、アイは人差し指を思案げに自らの唇にあてがった。
「むしろ美鈴っちは、目が覚めた後の瑛司さんの妬心に備えるべきではないのか?
美鈴っちには記憶があり椿さんとベタベタしている現状、瑛司さん曰くの『みのりの意志でよその男に媚びている』と、断じられる気がするのだが」
驚きのあまり、私は口をポカーンと開いていた。
が、テストプレイ直後に浮気だなんだとなじってきたあの旦那の事だ。デートやら着付けやら、ましてや二人きりの夜の林でイチャイチャなど……言われてみれば、またもや理不尽に難癖を付けてくるのは否定出来ない。
そもそも、了承無くゲーム機に放り込んだ時点で、起きた後えーじは怒り狂っていそうな……やべぇ。
「いっ、今から椿にーちゃんと距離取れば平気かなっ!?」
「いやあ、それはそれで『この俺に素気なくしやがって!』などと怒るのではないか?」
「……どうしよう……」
「美鈴っちの旦那は面倒臭い男だから仕方がない」
面白がっている我が心の友は肩を竦めて「ま、頑張れ」と、気のない応援を投げるのみ。具体的な良案なぞ無いって事ですね私にどうしろと!
「嫌だ、この夏休みがいっその事ずっと続けば良いのに!」
「なあに、学生全てが同じ事を願うが、夏休みなんてすぐに過ぎ去るものと相場は決まっている」
頭を抱える私を乗せて、バスは軽快に学校へ……椿にーちゃんの待ち受ける故郷の街へと戻っていく。
本編から目覚めた直後も思ったけど、だけど。……あの時とはまたちょっと違う意味で、やっぱり目覚めたくない!
往生際悪く唸る私。
アイは窓枠に肘をついて、唇に笑みを湛え厳かに告げる。
「ゲームはいずれ終わりを迎えるからゲームなのさ」
▽浜辺にて。
「椿君、椿君」
「はい。何でしょうか、雅春さん」
「うちの美鈴はまだ中学生なんだが……」
「そうですね。それで何か問題でも?」
「どーしてもと言うのなら、椿君には、うちの美鈴と『健全なるお付き合い』でお願いしたいっ」
「はあ……」
「具体的には抱擁止まりで!」
「!?」
「それから、会うときはなるべく人目があるところで。お互いの部屋には足を踏み入れない」
「あ、あの……雅春さんがお帰りになるまで、葉山家のダイニングで美鈴さんに勉強を教えていたりするのですが」
「うむ、我が家の一階でならば出入りには目を瞑ろう」
(……普通、家庭教師って生徒の部屋で勉強を教えるものじゃ?)
▽夏祭り後。
「椿君、椿君」
「はい。何でしょうか、雅春さん」
「どうしてかき氷のお土産が無いのかな?」
「……申し訳ありません」
「もしや夏祭りで、お父さんへのお土産をうっかり記憶の彼方へ追いやってしまうような、そんな何かが?」
「……(視線逸らし)」
「椿君?」
「……(視線逸らし)」
「つーばーきー、君?」
「……ちょっとだけ」
「ほほう、ちょっと……何だろうね?」
「膝枕してもらいました」
「それはそれは。で、かき氷は?」
「次の機会に、必ず埋め合わせします……」
「本当かい? やった、次はお父さんも一緒にお出掛けだ!」
(ああ、ミィちゃんとの貴重なデートにお目付役がまた……)
結局『父親』に弱い椿にーちゃん。
▽林間学校からただいま。
ちょっぴりびくびくしながらバスが学校に到着し、自宅へ帰宅する道すがら、椿にーちゃんと行き合った。ただいまメールを受け取って、わざわざ出迎えに来てくれたらしい。
「お帰りミィちゃん。楽しかった?」
「うん、河原でバーベキューとか、カレーとか作った!」
「あはは、真っ先に思い返す林間学校の思い出が、食べた物の事なの?」
私が背負っていたリュックを代わりにヒョイと持ち上げて、当たり前のように歩調を合わせて車道側で隣を歩く椿にーちゃんは、私の林間学校の思い出に楽しげに笑みを零す。が、私の手を繋ごうとはしてこない。
……おや?
「花火とか、キャンプファイアーとか、肝試しもあったよ」
そう言いながら私が手を伸ばして椿にーちゃんの手を握ると、振り払う事はないが……んー、特に積極性もなくただされるがままって感じ?
謎の距離感が再び発生している。私が林間学校に行っている間に、いったい何があった。
「椿にーちゃん」
私は椿にーちゃんの手をくいくいと小さく引いて注意をひき、にーちゃんは「ん?」と、微笑みながら私の顔を見下ろしてくる。
「あのね、私、中身含めてにーちゃんの全部が大好きだよ?」
「っ!?」
目を覚ます前に多少ゴマをすっておこうと、にっこり笑顔で私が告げると、椿にーちゃんは意表を突かれたのか息を飲み、狼狽えたように視線をさまよわせた。ついで、空いている手が、私の頭をやや乱暴にぐしゃぐしゃと撫で。
立ち止まってしゃがみ込むと、椿にーちゃんは私の耳元に唇を近付け、こっそりと秘密を打ち明けるように囁いた。
「俺も、世界で一番君が好き」




