誘惑 in 公園
数秒の間、沈黙が辺りを包んだ。
太陽はようやく二分の一まで沈み、辺りは夕闇に飲み込まれていく。
周囲に他の人影は無く、黒づくめの男とセーラー服姿の夕凪の影が細く、長く地面を駆っていた。
夕凪は黒づくめの放った言葉を頭の中で反芻し、それに対する答えを検索し、もっとも最適と言える答えを返した。
「えと、それはもしかして誘っている、とか?」
「うん、まぁそうなるかな」
黒づくめは何のこともなげに言った。その様子を見て、夕凪は深い溜息を吐きつつ、頭を抱える。
どうやら、目の前に立っている変わり者は、旧時代の誘拐犯気取りのお方らしい。一人で遊んでいる子どもや帰宅途中の子どもに、やれ「坊や、お菓子はいらないかい」とか「お母さんが事故にあったらしいから」などと良い人振って自分の車にご案内し、そのまま連れ去って身代金を要求するという、非常に単純で稚拙な犯罪例の一つだ。無論、『疑わしきは罰せよ』、『汝、隣人を疑え』などと教育されている現代っ子たちが引っかかるわけは無い類のものだが。
(こういうのを、『じぇねれえしょん・ぎゃっぷ』って言うんだっけか……?)
真剣に、頭痛を発症させるほどの黒づくめの突拍子な発言に、夕凪はかなり引いていた。
一方で、黒づくめの方は夕凪の反応など一切気にせずに話しを続ける。
「君が求めるものを何でも与えよう。まぁ、いくらなんでも、タダではないけどね」
そう言いながら、黒づくめは自分のフードの下に手を突っ込みながら、ゴソゴソと何かを取り出そうとして、
「ちょい待ちっ、おっさん」
「ん?」
夕凪の叫びで、その手を止めた。
年齢一四才の可憐(?)な少女は、『待った』のジェスチャーを出しながら、視線をあちこちに泳がせつつ、
「いや、あたしは、そういうのはちょっと……」
こういうのってどういう風に断ればいいんだろ? と若干変な方向に思考が働き混乱気味の夕凪に、黒づくめは意味が分からない、という風に怪訝な目をしていたが、やがて手を打つと、片手を顔の前で左右に振りながら、
「ああ、違う違う。『タダではない』っていうのは、少し『課題』をやってもらうってことさ」
「はぁ、『課題』、っすか?」
「そう。『課題』」
想定外の答えに、今度は夕凪がキョトンとした表情を取る。それを見て、黒づくめは小さな笑みを浮かべると、フードの下から手に取ったものを取り出し、夕凪の前に差し出した。
なんとなく手にとって見てみると、クリアカバーのディスクケースだった。中には見慣れた円型ディスクが入っている。
「何のディスクっすか、これ」
「それが、君のような子どもが求めるものを得るためにクリアすべき『課題』だ」
「ふーん……」
ちなみにPCで起動可能だ、と説明を付け加える黒づくめを軽く無視して、夕凪はディスクを眺める。どう見ても、表に『課題:1』と書かれているだけの何の変哲も無いディスクにしか見えない。
ふと、夕凪は黒づくめの正体を聞くのを忘れていたことに気が付いた。
「そういえばおっさん。あんたっていったい」
何者さ、と尋ねようとして、夕凪は違和感を感じた。
唐突に現れた不可解な『それ』に、彼女は眉をひそめ、顔をあげる。すぐに『それ』の正体がわかった。
つい数秒前まで居たはずの黒づくめが消えていた。
「え?」
すぐさま立ち上がって辺りを見回したが、黒づくめはおろか人影の一つも見当たらない。
時計塔から離れ、周辺の死角となっているところも見てみたが、そもそも人がいた形跡すら見受けられなかった。
いつの間にか日も落ちきり、辺りは夜の闇に沈んでいる。時計塔に寄りかかりながら、夕凪は思考を巡らした。
「暗闇に溶けて消えた、とか? 幽霊みたいに」
冗談だろうと内心で笑いながらそう呟いたが、実際は笑みなど浮かべられなかった。
隣にいた人がいつの間にかいなくなっている、ということはよくあるが、それは一〇数秒間の間を空けているためとか周囲に人気が溢れているときに起こる現象だ。誰もいない一対一の場で、たった数秒目を放しただけで、見晴らしのいい時計塔周辺から離れることなどが、果たして常人にできるだろうか?
(普通の人じゃない、とか?)
一種の可能性が頭に浮かんだが、夕凪はすぐにそれを否定する。例えば、彼が超能力者や某国の諜報員であるならば、それも不可能ではないかもしれない。
だが、そんなものが日常で繰り広げられるのはフィクションの世界であることくらい、さすがに夕凪にも理解できた。
近くにたっていた街灯に光が灯り、夕凪を照らす。
彼女の頭の中では、数分前の会話が再生されていた。
『君は今、何か欲しいものはないか?』
「『欲しいもの』って、なんでもいいのか……?」
誰にともなく問いかけるように呟いたその声は、しかし誰にも届かない。
まるで夢か幻を見たかのような表情をする夕凪の手には、黒づくめから受け取ったディスクケースがあった。
それだけが、数分前の出来事が夢ではないということを夕凪に告げているのだった。




