第10話 私はもう聖女ではなく、ここの軍医です
「辞退いたします」
その一言を口にするまでに、十年かかった。
大審問場に沈黙が落ちた。国王陛下が目を細める。傍聴席がざわめく。
「聖女の称号は、ありがたいお言葉です。けれど、私にはすでに居場所があります」
声は震えなかった。追放された朝と同じ平坦な声。でもあの時と違うのは、これが誰かに決められたことではなく、私が選んだことだということ。
「私はもう聖女ではありません。辺境騎士団の軍医です。それが、私の選んだ居場所です」
国王陛下が、小さく息をついた。
「……そうか。見事な軍医がいる騎士団は、心強いな」
笑っていた。怒られるかと思ったのに、笑っていた。
後ろでオスカーが鼻を啜った音が聞こえた。振り返らなかったけれど、たぶん泣いている。
審問場を出ると、エミール様が待っていた。
「クラーラ嬢」
穏やかな声。母さんの弟子。十年間、遠くから見守ってくれていた人。
「聖女を辞退されたのですね」
「はい。……お母さんに怒られるでしょうか」
エミール様は首を振った。
「あなたのお母様も、きっとそう言うでしょう。あの方は、肩書きで人を救う人ではありませんでした」
肩書きで人を救う人ではなかった。
……ああ。そうだ。母さんは聖女じゃなかった。ただの治癒師だった。ただの治癒師として、目の前の人を治し続けた。
「エミール様。ありがとうございます。ずっと」
「こちらこそ。お母上への恩返しが、ようやくできました」
頭を下げるエミール様の手が、少し震えていた。十年分の重さだろう。
帰路は五日間。
来た時と同じ道を、今度は騎士団と一緒に戻る。馬上から見える景色は変わらないのに、風の匂いが違って感じる。夏の草いきれ。乾いた土。辺境に近づくにつれて、空気が少しずつ冷たくなる。
五日目の夕方、駐屯地の門が見えた時、馬上で小さく息を吐いた。
帰ってきた。
門をくぐると、留守番をしていた騎士たちが手を振っていた。炊事係が「鍋を大きいのにしておいたぞ」と叫んでいる。救護天幕の入口に、洗った包帯が干してある。誰かが代わりに手入れをしてくれていたのだ。
ここが、私の居場所だ。
夜。
駐屯地の裏手、あの丘に登った。母さんの命日に泣いた丘。今夜は月が出ていて、駐屯地の全景が見下ろせる。
足音が聞こえた。
重い、規則正しい歩幅。もう数えなくても分かる足音。
「ヴォルフさん」
「ああ」
ヴォルフさんが隣に立った。月明かりの中、灰色の目が銀色に見える。
沈黙があった。虫の声だけが鳴っている。
ヴォルフさんが、膝をついた。
鎧の膝当てが地面に当たって、硬い音がした。片膝を折って、私を見上げている。あの大きな体が、こんなに小さくなることがあるのかと思った。
「軍医としてではなく」
声が低い。いつもより、もっと。
「俺の」
止まった。
「……隣に」
また止まった。顎が強張っている。言葉を探している。剣を振る時には迷わないこの人が、今、たった一言に詰まっている。
「隣に?」
「いてほしい。一生」
最後だけ、声が掠れた。
手首の脈が速くなっている。自分の脈だ。
返事をしなきゃ。……というか。
私は自分の手を見た。母さんから受け継いだ手。十年間、傷を塞ぎ続けた手。偽物と呼ばれた手。でも本物だった手。
この手を、初めて自分のために使おう。
手を伸ばした。ヴォルフさんの手に触れる。あの夜、冷たい私の指を温めてくれた手。剣だこのある、硬くて大きな手。
「はい」
声が、出た。
ヴォルフさんの手が、私の手を包んだ。古傷を治療したあの夜と同じ。でも今度は、治療のためじゃない。
膝頭の鎧の音が、もう一度鳴った。立ち上がろうとして、ヴォルフさんが少しよろけた。
「……緊張していたのか」
「していない」
嘘だ。手が震えている。この人の手が震えるのは、感情を抑えている時だ。もう知っている。
月明かりの下で、私たちはしばらく手を繋いだまま立っていた。虫の声と、二人分の呼吸だけが聞こえる。
何か気の利いたことを言うべきなのかもしれない。でも何も浮かばなかった。浮かばなくていいと思った。
数日後。
ヴォルフさんの天幕に、古傷の定期治療で訪れた時のこと。
机の横の棚に、毛布が畳んで置いてあった。薄い灰色。織りが粗い。見覚えのある毛布。
私の天幕にある毛布と、同じ織り方だった。
「……ヴォルフさん」
「何だ」
「この毛布」
「……何だ」
言いかけて、やめた。確かめなくてもいい。
ヴォルフさんの耳の端が、ほんの少しだけ赤くなっていた。
あの人でも、そういう顔をするのだ。
笑ってしまった。声に出して笑ったのは、騎士団に来て初めてかもしれない。
窓の外から、訓練場の剣戟が聞こえる。炊事場の煙が流れている。誰かがオスカーの名前を呼んでいる。
私はヴォルフさんの古傷に手を当てた。聖印が淡く光る。
私の手は、本物だ。
それを知っている場所が、ここにある。
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