2
王都を離れ、国境へ向かって夜の街道をひた走る馬車の中で、私は十数年ぶりに深く、そして安らかな眠りについていた。
これまでは、眠っている間も常に意識の半分を覚醒させ、広大な『浄化の結界』へと自身の魔力を送り続けるという、狂気じみた魔力制御を強いられてきた。ほんのわずかでも気を抜けば結界が綻び、国境沿いの「魔の森」から魔物たちが雪崩れ込んでくる。その凄まじい重圧と疲労から解放された私の身体は、まるで呪いが解けたかのように軽く、そして芯から温かかった。
「……信じられないほど、魔力が満ち溢れているわ」
夜明け前、ふと目を覚ました私は、自身の両手を見つめて呟いた。
これまで、私の体内で生成される魔力の九割以上は、自動的に結界の維持と、国中の魔石の充填システムへと吸い上げられていた。しかし、私に対する「国外追放」という公式な命令が下されたあの瞬間、私とあの国とを繋いでいた魔力供給のパスは完全に切断されたのだ。
今、私の体内には、かつてないほど純粋で、膨大な量の魔力が渦巻いている。指先を少し動かすだけで、空気中の精霊たちが喜んで擦り寄ってくるのがわかるほどだ。
(スペルブス殿下は、私が魔術の研究に没頭して「遊んでいた」と非難したけれど……)
私が執務室に引きこもって行っていたのは、この歪な魔力供給システムをどうにかして効率化し、私個人の負担を減らしつつ国を守るための必死の防衛策だった。もし私が過労で倒れれば、国が滅びるからだ。
だが、その努力を「陰気な趣味」と一蹴し、あまつさえ追放という形で私を解放してくれたのは彼ら自身である。
もう、私があの国のために身を削る義理は、欠片ほども残っていない。
馬車が大きく揺れ、やがて速度を落とした。
窓のカーテンを少しだけ開けると、朝靄の向こうに、巨大な石造りの城壁が見えてきた。我が国の粗末な防壁とは比べ物にならない、堅牢で美しい、白亜の城壁。
隣国——強大な軍事力と豊かな経済力を誇る、アエテルヌス陛下の治める帝国だ。
「フィデリタ様ですね。お待ちしておりました。アエテルヌス陛下より、貴女様を最高の礼を尽くしてお迎えするよう厳命を受けております」
国境の関所に到着するや否や、本来なら厳しいはずの検問は一切なく、白銀の鎧に身を包んだ近衛騎士たちが整然と立ち並び、私に最敬礼をして迎えてくれた。
彼らの隊長と思われる初老の騎士が、私の馬車の扉を恭しく開け、赤い絨毯すら敷かれた道を示す。
「陛下はすでに、王宮にて貴女様の到着を心待ちにしておられます。長旅でお疲れのこととは存じますが、特別製の魔導馬車に乗り換えていただき、王都まで護衛させていただきます」
罪人として国を追い出されたはずの私が、隣国では国賓以上の待遇を受けている。
そのあまりの落差に、私は思わず苦笑を漏らしてしまった。
「ご丁寧な歓迎、感謝いたします。……それにしても、随分と手回しが早いのですね。私が追放されたのは昨夜のことだというのに」
「陛下は、『フィデリタ嬢の祖国の暗愚な者たちは、いずれ取り返しのつかない愚行を犯す。その時に彼女を必ず我が国へ保護できるよう、国境の警備隊は常に最高の準備をしておけ』と、三年前から仰せでしたので」
三年前。
それは、私が過労と魔力枯渇で一度だけ倒れ、生死の境を彷徨った時期と重なる。あの時も、スペルブス殿下は見舞い一つ寄越さず、インウィディアとボート遊びに出かけていたっけ。
アエテルヌス陛下は、あの時からずっと、私が限界を迎える日を見越して、万全の受け入れ態勢を整えて待っていてくれたのだ。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がるのを感じながら、私は用意された豪華な魔導馬車へと乗り込んだ。
帝国の都は、私の祖国とは比較にならないほど活気に満ちていた。
美しく舗装された広い大通り、立ち並ぶレンガ造りの商店、そして道を行き交う人々の顔は明るく、衣服も豊かだ。魔の森の脅威に怯え、慢性的な物資不足に悩まされていた私の祖国とは、まるで違う世界だった。
馬車が巨大な宮殿の正門を潜り抜けると、幾重にも連なる美しい庭園と、天を突くような尖塔を持つ宮殿が姿を現した。
案内されたのは、堅苦しい謁見の間ではなく、柔らかな陽光が差し込む美しい温室のティー・ルームだった。
色彩豊かな花々が咲き乱れるその中央に、一人の青年が立っていた。
「——よく来てくれた、フィデリタ。君が自らの足でこの国へ足を踏み入れてくれたこと、我が生涯においてこれ以上の喜びはない」
漆黒の髪に、月明かりを固めたような美しい銀色の瞳。
長身で、鍛え上げられたしなやかな体躯を上質な軍服に包んだその人こそが、この巨大な国を若くして統べる覇王、アエテルヌス陛下だった。
威風堂々たるその佇まいの中には、かつて私が見たスペルブス殿下のような、中身の伴わない虚飾や傲慢さは微塵もない。ただ静かで深い、海のような知性と包容力が漂っている。
「アエテルヌス陛下。突然の訪問にもかかわらず、このような過分な歓迎をしていただき、心より感謝申し上げます。手紙では何度かやり取りをさせていただきましたが、直接お会いするのは、五年前の建国記念式典以来ですね」
私が完璧なカーテシーで礼をしようとすると、彼は足早に歩み寄り、私の手を取ってそれを制した。
「形式張った挨拶など、今さら不要だ。……君の顔色が、以前よりもずっと良くなっていることだけが、今の私にとっての救いだよ。あの愚か者どもは、君という至宝の価値を最後まで理解しなかったようだな」
アエテルヌス陛下の銀色の瞳が、気遣わしげに私を見つめる。
その大きく温かい手に触れられた瞬間、私が十年間ずっと張り詰めていた心の糸が、ふっと緩むのを感じた。
「ええ……本当に、最後まで理解されませんでした。私が徹夜で組み上げた予算案も、周辺国との関税の調整も、すべて『女の小賢しい真似事』だと。しまいには、国を覆う結界の維持すら、勝手に自然発生しているものだと思い込んでいたようです」
「呆れて物も言えんな。君の類稀な魔力量と、緻密な術式の構築能力がなければ、あの国はとうの昔に魔物の餌場になっていたというのに。……本当によく耐えた。君は立派だったよ、フィデリタ」
彼に「よく耐えた」と言われた瞬間、私の瞳から、不意に一粒の涙がこぼれ落ちた。
自分でも驚いた。悲しくもなんともないはずなのに。
スペルブス殿下にどれほど罵倒されても、インウィディアにどれほど陰湿な嫌がらせを受けても、決して泣くことはなかった私が。
誰かに自分の努力を正しく評価され、労いの言葉をかけられるということが、これほどまでに心を揺さぶるものだとは知らなかった。
「……申し訳ありません、陛下。私としたことが、みっともないところを」
「謝る必要はない。君はこれまで、背負わなくていい重荷を一人で背負わされてきたんだ。これからは、私のそばで、思う存分羽を伸ばしてくれ」
アエテルヌス陛下は、純白のハンカチで私の涙を優しく拭い、甘く、そして情熱的な響きを帯びた声で言った。
「フィデリタ。私はずっと、君に側にいて欲しかった。君の知略、君の魔術、そして何より、君という美しく、気高い一人の女性が。……私の伴侶となり、共にこの国を導いてはくれないか?」
それは、ただの保護の申し出ではなく、国の皇妃としての求婚だった。
追放されたばかりの傷物の令嬢に対する言葉としては、あまりにも破格すぎる。しかし、彼の銀色の瞳には、一欠片の嘘や同情もなく、ただ純粋な敬意と熱情だけが宿っていた。
私は、彼から与えられたハンカチを両手で包み込み、そして、これまでの人生で最も美しい笑顔を作って見せた。
「……喜んで、お受けいたします。私の持つすべての知識と魔力を、陛下とこの国のために捧げましょう」
その言葉を聞いたアエテルヌス陛下は、少年のように顔を輝かせ、私を優しく、しかし力強く抱き寄せた。
「ありがとう、フィデリタ。君を必ず世界で一番幸せにすると誓おう。……さて、感動の再会のところ申し訳ないが、君に見せたいものがある」
陛下は私を席に座らせると、温室の入り口に控えていた黒ずくめの男を呼んだ。
「ケレル。例の報告をフィデリタに」
「はっ。我が国の誇る密偵部隊の長、ケレルにございます。フィデリタ様、お初にお目にかかります。……早速ですが、貴女様が去った後の祖国の現状について、最新の報告が上がっております」
ケレルと呼ばれた鋭い目つきの男は、恭しく一礼すると、一枚の羊皮紙をテーブルの上に広げた。
そこには私が国境を越えてからわずか半日の間に、私の祖国で起きた大パニックの全貌が克明に記されていた。
「まず今朝の夜明けと共に、王都を覆っていた『浄化の結界』が完全に消滅しました。当然、魔力の供給源を失ったためです。魔の森の瘴気が国境の村に流れ込み始め、すでに一部の領民が王都へ向けて避難を開始しております」
「想定よりも少し早いわね。予備の魔石の充填を怠っていたのね」
私が紅茶のカップを傾けながら冷静に分析すると、アエテルヌス陛下も楽しげに頷いた。
「さらに」とケレルは続ける。
「フィデリタ様の追放を知った周辺諸国の商業ギルドが、一斉に貴国との取引を停止しました。フィデリタ様の『信用』という担保が消滅したため、貴国が抱えていた莫大な負債の即時返済を求めております。現在、王都の市場からは小麦や塩といった生活必需品が完全に姿を消し、物価は昨夜の十倍に跳ね上がっています」
「……見事なまでの崩壊ぶりだな」
「それに対して、スペルブス殿下はどう対応しているのかしら?」
私の問いに、ケレルは酷薄な笑みを浮かべた。
「スペルブス王子は、結界の消失も、経済の崩壊も、すべて『フィデリタという悪女が去り際にかけた呪いのせいだ』と主張しております。そして、今すぐ新たな結界を張り直すよう、宮廷魔術師たちに命令を下しましたと……」
「無駄なことよ」
私は冷たく言い放った。
「あの結界は、何百年もかけてウォルペス公爵家が編み上げてきた独自の秘術。凡庸な魔術師が何十人集まろうと、解析することすら不可能です。せいぜい、自分たちの無能さを思い知るだけでしょう」
「その通りだ」
アエテルヌス陛下が、私の肩に優しく手を置いた。
「彼らは今頃になって、玉座を支えていた巨大な柱を自分たちで叩き折ったことに気づき始めているだろう。だが、もう遅い。私が君を彼らに返すことは、二度とないのだから」
窓の外では帝国の青く澄み渡る空が広がっていた。
私の祖国は今頃、消えゆく光の中で、愚かな王子と男爵令嬢を中心に、絶望の泥沼へと沈み始めているはずだ。
助けを求められても、私は絶対に手を差し伸べない。
私がこの国で必要ないと言い放ったのは彼らなのだから。
「さあ、フィデリタ。不愉快な連中の話はこれくらいにして、私たちのこれからの話をしよう。君の才能を活かすための研究室も、君が好む茶葉も、すべて揃えてある」
私を大切に思い、正当に評価してくれる人の隣で、私はようやく本当の自分を取り戻すことができたのだ。
これから始まる新しい人生の輝きに胸を躍らせながら、私は愛しい王に向かって心からの微笑みを返した。




