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アエテルヌス陛下との婚約が公式に帝国全土へ発表されてから、三ヶ月の月日が流れた。
帝国の王宮での生活は、私のこれまでの人生が何だったのかと思えるほど、穏やかで幸福に満ちたものだった。
「フィデリタ、今日も君の魔法は素晴らしい。君が改良してくれた農業用の魔力コアのおかげで、今年の帝国の麦の収穫量は過去最高を記録しそうだよ」
執務室の広いデスク越しに、アエテルヌス陛下——私に惜しみない愛情を注いでくれる最愛の人——が、書類から顔を上げて眩しい笑顔を向けた。
「陛下のお役に立てて光栄ですわ。ですが、あのコアは帝国の魔術師の方々の基礎研究があったからこそ完成したものです。私一人の手柄ではありません」
「君は本当に謙虚だな。だが、その君の頭脳と膨大な魔力こそが、我が国の至宝であることに間違いはない。……ほら、少し休憩しよう。君の好きな東の国から取り寄せた茶葉を淹れさせたんだ」
立ち上がった彼が私をソファへといざない、優しく肩を抱き寄せる。その温もりに身を預けながら、私は満ち足りた思いで目を細めた。
祖国で「陰気な趣味」と蔑まれていた私の魔術研究は、この帝国では最高峰の国家技術として絶賛された。
私が助言した魔導具は帝国の民の生活を劇的に豊かにし、私が最適化した防衛結界は、帝国の軍事力を盤石なものへと昇華させた。誰もが私に敬意を払い、帝国の臣民は「賢妃の再来」と私を讃えてくれている。
何より、アエテルヌス陛下は私の才能だけでなく、私という人間そのものを深く愛し、慈しんでくれた。彼と共に過ごす日々の中で、私の心にあった古傷はすっかり癒え、今では思い出すことすら少なくなっていた。
そう、あの愚かな祖国と浅ましい者たちのことなど。
「……陛下、フィデリタ様。お寛ぎのところ大変申し訳ございません。急ぎのご報告が」
ティータイムの穏やかな空気を破るように、密偵の長であるケレルが、宰相のウェリタスを伴って執務室へと入ってきた。二人の顔には、隠しきれない呆れの色が浮かんでいる。
「構わない。例の『東の小国』の件か?」
アエテルヌス陛下が鋭い皇帝の顔に戻り、ケレルに先を促した。東の小国——それは、私がかつて国母となるべく身を粉にして尽くした、私の祖国を指す隠語だ。
「はっ。フィデリタ様が去られてから87日、かの国は完全に崩壊の瀬戸際にあります。
まず、魔の森からの魔物の大群の侵攻により、国境沿いの領地は全滅。難民が王都に押し寄せていますが、食糧の備蓄はとうに底を突いております。
周辺諸国からの経済封鎖も決定打となり、国庫は完全に破産。兵士や役人への給金も支払えず、治安は最悪の状態で暴動が多発しています」
ケレルの報告を聞きながら、私は静かに紅茶を一口飲んだ。
すべて、私が去る前に予測していた通りの結果だ。むしろ、三ヶ月もよく持ち堪えたと褒めてやりたいくらいである。
「それで? スペルブス王子や、あの男爵令嬢はどうしている?」
陛下が冷ややかな声で問う。
「それが……王族に対する貴族たちの不満が爆発し、ついにクーデター寸前の事態に陥っております。スペルブス王子は『すべては結界を張れない宮廷魔術師が悪い』と責任を転嫁し続け、インウィディア男爵令嬢は『こんな汚いお城は嫌! 美味しいお菓子を出して!』と泣き喚く毎日だとか。
見かねた有力貴族たちが、スペルブス王子を王太子の座から引きずり下ろすべく、国王に直訴状を突きつけたそうです」
「自業自得、という言葉すら生温かいですね」
私がため息交じりに呟くと、宰相ウェリタスが一歩前に出た。
「その通りでございます。……そして、ここからが本題なのですが。先ほど、我が帝国の国境警備隊から急報が入りました。
東の小国より、数名の使者が『帝国への亡命と保護』を求めて国境の関所に現れたとのこと。その使者の中心にいるのは……ボロボロの平民の服を纏った、スペルブス王子とインウィディア男爵令嬢です」
その言葉に執務室は一瞬、水を打ったような静寂に包まれた。
「……国と民を捨てて、自分たちだけ逃げ出してきたというのか? あの者たちは」
地を這うようなアエテルヌス陛下の怒りの声に、室内の空気がビリビリと震える。
国を滅ぼす原因を作っておきながら、最後まで責任を取ることなく、あまつさえ私が庇護を受けているこの帝国へ逃げ込もうとするその厚顔無恥さ。
呆れを通り越して、ある種の滑稽さすら感じてしまう。
「関所で追い返せと命じますか、陛下?」
ウェリタス宰相の問いに、アエテルヌス陛下は私の方を向いた。
「フィデリタ。君の意思を尊重しよう。君が二度と顔も見たくないというなら、彼らを関所で捕縛し、彼らの国の暴徒と化した貴族たちのもとへ『手土産』として送り返してやるが?」
それは、彼らにとって最も残酷で、確実な死を意味する提案だった。
だが、私はゆっくりと首を振った。
「いいえ、陛下。せっかく私を頼っていらっしゃったのですから、一度だけ、この王宮の謁見の間にお通しください。……私が、彼らに最後の『現実』を教えて差し上げます」
私の言葉の真意を悟ったアエテルヌス陛下は、凶悪な、しかし極上の美しさを湛えた笑みを浮かべた。
「良かろう。特別に、皇帝と次期皇妃の連名で彼らを謁見の間に迎えてやろう」
数日後。
帝国の王宮の中でも最も豪奢で広大な謁見の間。大理石の床には深紅の絨毯が敷き詰められ、両脇には帝国の誇る近衛騎士たちが微動だにせず立ち並んでいる。
最奥の黄金の玉座にアエテルヌス陛下が座し、そのすぐ隣、一段低い銀の玉座に私が座っていた。
今日の私は、帝国の国花である白百合をあしらった最高級の純白のドレスに身を包み、髪には星屑を散りばめたようなダイヤモンドのティアラを頂いている。かつて祖国で着ていた地味なドレスとは比べ物にならない、次期皇妃にふさわしい圧倒的な威厳と美しさを纏っていた。
ギィィィ……と、重厚な扉が開く音が響き、衛兵に両脇を固められながら、二つの人影が引きずり出されてきた。
「はなせっ! 私は由緒正しき第一王子だぞ! 帝国は我々を国賓として手厚く保護する義務があるのだ!」
「いやあっ! 気安く触れないで! 私のドレスが汚れるじゃない!」
広間の中央に乱暴に投げ出されたその男女を見て、私は危うく吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
かつて太陽のように輝いていた金髪は脂と泥で汚れ、落ち窪んだ目には狂気じみた焦燥が浮かんでいるスペルブス。
そして、愛らしかった蜂蜜色の髪は鳥の巣のように乱れ、汚れた安物のドレスを着て悪態をついているインウィディア。
そこにはかつて私を見下し、勝ち誇っていた王太子と男爵令嬢の面影は微塵もなかった。ただの、惨めな敗残兵だ。
「……静まれ。帝国の玉座の御前であるぞ」
ウェリタス宰相の冷徹な一喝が響き渡り、二人はビクッと肩を震わせて顔を上げた。
そして、玉座に座るアエテルヌス陛下を見上げ——その隣で、冷ややかな視線で彼らを見下ろしている「私」の存在に気づいた瞬間、二人の動きが完全に停止した。
「フィ、フィデリタ……!?」
スペルブスの口から、間抜けな声が漏れる。彼は信じられないものを見るように目を瞬かせ、やがてその顔に、見当違いの希望の光を宿した。
「おお、フィデリタ! そうか、お前、この帝国で保護されていたのか! しかも、皇帝陛下の隣に座るほどの地位を得ているとは! さすがは私の婚約者だ!」
彼は狂ったように笑い出し、這いつくばるようにして私の方へ手を伸ばしてきた。
「フィデリタ、許してやろう! お前が去ってから、国は少しばかり混乱してな! だが、お前が帝国軍と物資を引き連れて戻ってくれば、すべて元通りだ! 私とお前で、またあの国を立て直そう! インウィディアは側室で我慢させてやるから、な!?」
そのあまりにも身勝手で、状況を1ミリも理解していない発言に、広間にいた帝国の騎士や文官たちから、ドン引きしたような息を呑む音が漏れた。
インウィディアもまた、私の姿を見てギリッと唇を噛み締めながらも、猫撫で声を出して媚びを売ってきた。
「フィ、フィデリタお姉様……私、やっぱりお姉様がいないとダメみたい。今まで意地悪してごめんなさい! だから、私をお姉様の侍女として、この綺麗なお城に置いて? お願い!」
……ああ、本当に。
どこまでも自分本位で、他人の感情を踏みにじることに何の躊躇いもない人間たちだ。
私は、氷よりも冷たい視線で彼らを見下ろした。
「……誰に口を利いているのか、わかっているのかしら?」
私の静かな、しかし魔力を帯びた圧倒的な声音が広間に響き渡ると、スペルブスとインウィディアは息を詰まらせて硬直した。
「『許してやる』? 『また国を立て直そう』? ……悪い冗談ですわね、スペルブス元王子。
私はすでに、あなたの国から追放された身。そして、今この瞬間をもって、私は帝国皇帝アエテルヌス陛下の正妃——帝国の皇后としての誓いを立てた身です。
他国の、それも国を捨てて逃げ出してきた卑怯な難民が、帝国の皇后に向かって気安く名を呼ぶことすら、本来ならば不敬罪で即座に斬首となる行為ですわ」
「な……なん、だと……?」
スペルブスの顔から、さーっと血の気が引いていく。
「追放を命じたのはあなたです。『陰気で小賢しい女はいらない』『自分たちの明るい世界から汚いゴミを排除する』。そう言って、私を国境へ放逐したのは、他でもないあなたでしょう?」
「あ、あれは、その……誤解だ! お前を試したんだ! そうだ、私が本当にお前を愛しているかどうかの試練で……!」
「見苦しい言い訳を。あなたが放棄した執務の山をこなし、あなたの代わりに国を支えていた私を裏切った。その報いが、今のあなたのその泥に塗れた姿です」
私は玉座からゆっくりと立ち上がり、彼らを見下ろしながら最後の宣告を下した。
「私はこの帝国で、私を真に必要とし、愛してくれる方と出会いました。私はもう、二度とあの国には戻りませんし、あなたたちを助けるつもりも一切ありません」
「待ってくれ! 頼む、フィデリタ! お前がいないと、私は……私は貴族たちに殺されてしまう! 助けてくれえええっ!!」
「いやあああ! 私、死にたくない! こんなの嫌あああ!!」
床に額を擦りつけ、鼻水と涙を流しながら絶叫する二人。
だが私の心には一雫の同情も湧かなかった。
「ウェリタス宰相。この見苦しい侵入者たちを、帝国の国境の外——彼らの祖国側へ放り出してちょうだい。あとは、彼らの国の民が彼らをどう裁くか決めるでしょう」
私が冷酷に言い放つと、アエテルヌス陛下が満足そうに頷いた。
「二度と帝国の土を踏ませるな」
「はっ!」
近衛騎士たちが容赦なく二人の腕を掴み、引きずっていく。
「フィデリタァァァッ!! 許してくれ! 私が悪かった! フィデリタァァァァァッ!!」
「お助けえええっ! 誰かああああっ!!」
重厚な扉が完全に閉まるまで、二人の絶望に満ちた悲鳴が響き渡り——やがて、完全な静寂が訪れた。
広間に静けさが戻った後、アエテルヌス陛下は玉座から立ち上がり、私の前へと歩み寄ってきた。
そして、多くの臣下たちが見守る中、まるで騎士のように片膝をつき、私の右手を取ってその甲に恭しく口付けをした。
「見事な采配だった、私の愛しいフィデリタ。過去のしがらみを完全に断ち切った君は、今日、誰よりも美しく輝いている」
彼が見上げる銀色の瞳には、私への底知れぬ愛情と、深い敬意が満ちていた。
「陛下……。彼らを突き放す私の姿を見て、残酷な女だと思われませんでしたか?」
私が少しだけ不安に思って尋ねると、彼はふっと笑い、立ち上がって私を強く抱きしめた。
「残酷? とんでもない。自らの価値を貶める者たちに鉄槌を下し、己の尊厳を守り抜く強さ。それこそが、我が帝国の皇妃にふさわしい資質だ。私は、そんな君の気高さごと愛しているのだから」
その温かく力強い言葉に、私の心の中で最後まで張り詰めていた見えない糸が、完全に解けていくのを感じた。
「アエテルヌス陛下……」
「私のことは名前で呼んでくれと言ったはずだ、フィデリタ。これからは、二人でこの大帝国を、世界で最も豊かで幸福な国にしていこう。君となら、どんな未来も輝かしいものになると確信している」
彼はそっと私の顎を引き寄せ、誓いの口付けを落とした。
広間を埋め尽くす臣下たちから、割れんばかりの歓声と祝福の拍手が巻き起こる。光の魔石がシャンデリアを照らし、祝福の花びらが舞う中、私は彼の広い胸に顔を埋め、幸福の涙を流した。
私が必要だったのは、私の真価を認め共に歩んでくれる、この永遠の愛を与えてくれる人だけだったのだ。
窓の外には雲一つない帝国の青空がどこまでも広がっていた。
私の真の人生——光り輝く栄光と愛に満ちた日々は、今、ここから永遠に続いていく。




