血の魔法
「ここなら奴の魔法も届かないだろう」
ガレスは、そう言って俺を岩陰へ誘導した。
そして目を瞑って剣を構えて駆け出す。
その刹那、ゴルゴンデューサのうごめく蛇の髪が一斉に牙を剥き、超常的な速度でベアリウスたちへと襲いかかった。
誰も奴の動作を目で追っていない。そんな状態であの猛スピードの巨躯を避けられるというのか?
だが、俺の心配は文字通り無駄だった。
ヒュルメイルバイガーの放った冷気が瞬時に部屋の空気を凍てつかせた後──
「そこですね」
死角から肉薄したヴァイオレットの小刀が、音もなく奔る。
目を瞑ったまま、彼女は魔物の急所だけを正確に、千の傷となって刻み込んでいく。肉を裂かれ、のたうち回る魔物が最後の足掻きと言わんばかりに、邪眼の光を部屋中に撒き散らした。凄まじい石化の魔力が奔流となって吹き荒れる。
だが、目を閉じている彼らには、その光などただの眩光に過ぎなかった。
「終わりだ」
ベアリウスの大剣が、虚空を縦に割った。
空間ごと断ち切られたゴルゴンデューサの右腕が、悲鳴を上げる暇もなく宙を舞い、地面へと転がり落ちる。
間髪入れずにガレスの大剣が左腕に突き刺さる。
切り落とすまでには至らなかったようだが、すでに力が入っていないようで、ただぶら下がっているただの肉塊に見えた。
そしてベアリウスの一撃で、ゴルゴンデューサの首が飛んだ。
あまりの幕引きの早さに、部屋には静寂が戻る。
セシルの父も、ライラの姉も、フィフィの祖父も、俺の隣で呆然とその光景を見つめていた。
だが、本当の試練はここからだった。
「さて最後はわしの出番かの……これより、儀式を始めるぞい」
セバスチャンがそう言って杖を掲げると、部屋を満たしていた霧が晴れ、アルスたちの石像がレアストーンの光の中に浮かび上がった。
俺は安堵の息を漏らし、これでアルスたちを助けられると、どこか楽観的にその光景を眺めながら石像の元へと向かった。
王族の権力でここまで連れてくることはできた。魔物を屠ることもできた。あとは、集まってもらった血縁者たちの血を少しばかり分けてもらい、儀式を行うだけだ。
セバスチャンが、重々しく一歩前へ出た。その穏やかな顔に険しさが宿ってように見えた。
「……血縁者の皆様。儀式を始める前に、神の御名において、伝えておかねばならぬ真実があります」
セバスチャンの硬い声に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。俺は眉をひそめ、彼の横顔を見つめる。
「石化を解く血の魔術……それは、単に指先を傷つけ、数滴の血を捧げれば済むような生易しいものではありません。石化とは、存在の完全な停止。それを強制的に起動させるには、呪いを上書きするほどの、莫大な生命力が必要となります。……すなわち、どれほどの量の血が必要になるかは、誰にも分からないのです。最悪の場合、あそこにいる子供たち一人を呼び戻すために、あなたたちの命が尽きるほどの……致死量の鮮血を捧げることになるかもしれない」
セバスチャンの言葉は、冷酷な宣告となって墓標のような部屋に響き渡った。
致死量──。
俺の心臓が、冷たく跳ねた。そんな話、聞いていない。まさか、誰かを救うための代償が、別の誰かの命だなんて。俺は絶句し、集まった遺族たちの顔を交互に見つめた。
重苦しい沈黙が満ちる中、最初に動いたのはセシルの父親だった。
彼は迷いのない歩調でセシルの石像の前へと進み出た。
「あの子は、私のたった一人の息子です」
父親の、低く、押し殺したような声が響く。
「妻を早くに亡くし、不器用な男手一つで育ててきました。あの子が冒険者になると言った時、本当は引き止めたかった。だが、あの子の引き締まった目を見て、私は応援すると決めたんだ。……一人息子の未来のためなら、この程度の命、喜んで差し出しましょう。セシル、お前の旅は、まだ始まったばかりだろう」
父親は拳を握りしめ、ただ真っ直ぐに息子を見つめていた。
「ライラ……待たせてごめんね」
次に声を上げたのは、ライラの姉だった。
彼女は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、愛おしそうに妹の石像の頬に触れた。
「私たちは、幼い頃に両親を魔物に奪われました。それからは、二人きりで、互いの手を握り合って、支え合って生きてきたんです。あの子はいつも私の後ろをついてくる泣き虫だったのに、いつの間にか、私を守れるくらい強い魔法使いになっていた……。もし、逆の立場だったら、ライラだってきっと、私のためにこうしてくれたはず。だから、何も怖くないわ。今度は、お姉ちゃんがあんたを守る番ね」
姉は優しく微笑みながら、自らの細い腕の袖を、静かに捲り上げた。
そして、最後方にいたフィフィの祖父が、深く、重い足取りで前へ出た。
「何をゴチャゴチャと、もったいぶった口を利きおるか、聖職者め」
老人は、皺枯れた声を鋭く響かせ、セバスチャンを、そして俺たちを凄んだ。その瞳には、死を恐れる気配など微塵もなかった。あるのは、理不尽に時間を止められた孫への、燃え盛るような憤怒だけだ。
「わしのような、先のない老いぼれの命など、何の値打ちもないわ。あの子はまだ、この世界の美味いものも、綺麗な景色も、何一つ十分に知りゃあせんのだ。そんな若者の時間を、こんな薄暗い穴倉で終わらせてたまるか。老いぼれの命などいくらでもくれてやる。だから、早くしろ」
老人は自らの硬くひび割れた皮膚の腕を突き出し、早く刃を当てろと促した。
誰も、逃げ出さなかった。
自分の命と引き換えにしてでも、子供たちを、家族を救う。その極限の愛の輝きが、レアストーンの不気味な光を塗りつぶしていく。
「……フン」
最後に鼻で笑ったのは、ガレスだった。
彼は大剣を納めると、アルスの石像の前に立つ。
「皆、覚悟は出来ているようだぜ。さっさとやってくれ」
ガレスはそれ以上何も言わなかった。
俺は彼らの背中を、ただ震えながら見つめていた。
命を賭けて、誰かを救おうとする人たちの想い。
それが、自分の寿命があと一ヶ月だと知らされたばかりの俺の胸に、痛いほどの熱となって突き刺さる。
セバスチャンは静かに頷き、魔法の詠唱を始めた。
それぞれの腕に小さな傷が現れ、そこから血が漏れ出す。
そして、その血は宙に舞い赤黒い霧となって、アレス達に降り注いだ。




