トーチャー
※(ノエル視点)
また、居なくなってしまった。
危険だし、ギャンブルだからと、あれほど何度も止めたのに。
あの日、鉱山へ出稼ぎに出ると言って背中を見せたきり、彼は一週間戻らなかった。
カイトが残してくれたこの店を、私一人では守り切れないと彼なりに責任を感じていたのだろうか。それとも、私の知らない「何か」に突き動かされていたのだろうか。
一週間後、ようやく帰ってきたトーチャーは、まるで魂を削り取られたような、変わり果てた姿をしていた。
酷い汚れと傷、そして何より、その瞳に宿っていた光が以前の彼とは決定的に違っていた。
そして、その目は私を他人として見つめていた。
最初は、私をからかっているのだと思った。あるいは、鉱山での過酷な労働が彼の精神を一時的に蝕んだだけなのだと。
けれど、彼の瞳には私との記憶が一片も残っていなかった。かつて愛を囁き合い、共に未来を語った日々が、まるで最初から存在しなかったかのように……。
それでも、私は彼を拒絶できなかった。
からかってる罰だと思って、しばらくの間、彼を物置小屋で寝泊まりさせた。
だけど決定的だったのは、自分を「リンネ」だと名乗ったことだ。
しばらくして見つけた鉱山の就業手帳には確かにトーチャーと記されていたけど、彼は年齢だけ確認した後に、いそいそと手帳をしまい込んだ。
たまたま食事に訪れた馴染みの回復術士に、眠っている彼を診てもらったが、返ってきたのは「ただの栄養失調だ」という拍子抜けするほど淡白な答えだった。
私が「幻惑魔法による記憶障害ではないか」と食い下がっても、術士は首を振るばかり。
「あの鉱山にそんな高位の魔物はいないし、魔法使いがわざわざ穴蔵へ出向く理由もない。精神的なショックか、あるいは――」
術士は言葉を濁し、他所で囁かれている不吉な噂を口にした。
ある日突然、人格が別人のように入れ替わり、英雄気取りで無鉄砲になり、まるで自ら死を望むかのように戦場へ突き進む「呪い」。
確かに、今の彼は別人のようだった。
けれど、その根底にある不器用な優しさは、私の知っているトーチャーそのものだった。
私と過ごした日々を忘れていても、彼はまた、私を助けようとしてくれる。
失われた記憶の代わりに、新しい思い出を一つずつ積み上げていく時間は、まるで恋に落ちたばかりの頃に戻ったようで、切なくも、どこか誇らしかった。
きっと、記憶はそのうち戻る。
そして、以前の幸せと、今の新しい絆が混ざり合って、私たちは以前よりもずっと強く結ばれるはず。
そう自分に言い聞かせると、日々の苦労さえも輝いて見えた。
けれど、現実という怪物は、甘い夢を許してはくれなかった。
客足は遠のくばかりで、不安な夜が続いた。
そんな折、彼は再び「鉱山へ行く」と言い出した。
怖かった。また彼を失うのではないかと。
けれど同時に、愚かな期待も抱いてしまった。記憶を失った場所に戻ることで、以前の「彼」が目覚めるきっかけになるのではないか、と。
彼が居ない一週間は、永遠のように長く、鋭い孤独が胸を突き刺した。
だから、彼が無事に戻ってきた夜、私は心に誓ったのだ。
もう二度と、彼をどこへも行かせない。
お金なんて要らない。名誉も、贅沢も、何も望まない。
ただ、彼と二人でこの店に居られれば、それだけで世界は満たされているのだから。
それなのに……。
思い出が壊れるような物音が響いた店前には、壊れたドアだけが転がっていた。
トーチャーの姿はどこにもなかった。
どれだけ名前を呼んでも返事は返ってこなかった……。




