『最終回。カロンの予言。そして新しい旅立ち』 管理人側視点
「あらっ、いつの間にか、こんなところに流れができている」
ちょっと驚いたようなカロンの声がしたのは、それから数時間後。頭の中の風通しがすこし良くなったことを実感していたころだった。
カロンのいう流れが、何によって引き起こされたのか、その流れの正体が何なのか、なんとなく理解できた。でも訊いてみた。
「なにが、流れだしたの?」
「足元付近に溜まっていた、ごみのようなもの」
「ごみ?」
僕は縦書きの文字が並んだディスプレイに、目を移した。どうやらこれは、ごみが繋がってできているらしい。
「僕の頭の中は、ゴミだらけなんだね」
皮肉も込めてそう訊くと、落ち着いた声が返ってきた。
「ごみとはいっていないわよ。ごみのようなものといっただけ」
「どっちにしても、大して変わらないだろ」
と吐き捨てた瞬間、反射的に背筋が伸びた。アパートの住民との接触の段階で学んだことを思い出したのだ。
それをどう見るかで、それは変わる。
ごみと思えば、ごみ。価値あるものと思えば、価値あるもの。
「ごめん。訂正する」
素直に謝った僕は、天井を仰ぎ見た。
「たった今、書き上げた。といっても、初回分だけなんだけどね」
「それって、ネットが、どうのこうのっていってた、あれのこと?」
嬉しそうな声に、僕も同じトーンで返した。
「バーシュウレインメンバーとの約束を果たすことができそうなんだ。これも、きみがくれたヒントのおかげ」
そして、にやけたままの顔で想像した。
「すごいわね、やればできる人だったのね」もしくは「わたしなにもしていないわよ。でも、そういってもらえると、なぜか嬉しい」そんな言葉を、カロンがいう。
しかし、そのどちらでもなかった。
「原稿用紙換算で、何枚になるの?」
いきなりだったので、すぐには答えられなかった。でも書式設定は知っていた。
A4サイズ。40文字×55行。しかし中身はスカスカ。改行だらけ。
でも文字数を調べる方法があったことを思い出した。たしかツールの中。あった。上から四番目。さっそくクリック。僕はそれを声にした。
「スペースを含まないで、2529文字。確認のために、数えてみようか」
もちろん最後の部分は、ギャグ。でも笑いは取れなかった。
「で、タイトルは、どうなったのかしら」
遠慮がちな口調に、あ、そうかと思った。カロンが最初に訊きたかったのは、これだったんだ。タイトルに自分の名前があるのかどうかを心配していたらしい。
勝手にそんなふうに受け取った僕は、意識して間合いをあけた。
「ゆうれい付きアパートの管理人とバーシュウレイン」
しかし、何の反応もなかった。
長い、欲張り過ぎ、わかりにくい、そんなダメ出しさえなかった。しばらくの沈黙の後、聞こえてきたのは、ため息交じりの、すねたような声だった。
「つまり、あなたにとって重要だったのは、そっちの方だったってことなのね」
僕はそれには答えなかった。その代わりに横目で時計を見た。今日の日付が変わるまで、時間はたっぷりあった。
「最終チェックも兼ねて、声に出して読もうとしていたところなんだ。聞いてもらえる?」
用意しておいたセリフを口にしたが、何の反応もなかった。
でも、それは織り込み済み。
僕は、喉の渇きを押えるためにコーラを一口飲んだ。
この第一話は、カロンと僕のために書いた。カロンに聞いてもらうのを前提に書いた。
さあ、いこう。
カロンの本心を聞き出す方法は、これしかない。
なにごともやってみなければ、始まらない。サイは投げられた。後は野となれ山となれ。
そんなことを心の中でつぶやきながらディスプレイに顔を近づけた僕は、ゆっくりとした口調で、その一行目から読みはじめた。
★
彼女の名前は、カロン。
透きとおるような白い肌。すらりとした体つき。ぱっと見は、十代後半。
でも初めて会った日に、こんなことを言っていた。
「三十路なんて、とっくの、とっくの、とっくの昔に越えているのよ、わたし」
カロンの大好物は、お酒らしい。
でも、彼女が飲んでいるところを、一度も見たことがない。
たまにだが、僕を「プースケ」と呼ぶことがある。
プースケは、無職の若者の代名詞、プー太郎からきているらしいのだが、僕はその呼び名がとても気に入っている。
しかし、言葉の響きが好きなわけではない。
「プースケ」と呼ぶとき、必ず僕の体のどこかをくすぐるからだ。
首筋、脇腹、足の裏、脇の下。ときには、太ももの付け根あたりを、手のひらでさっと撫でることもある。
でも僕は、くすぐりには、とても弱い。体が勝手に防御の姿勢をとる。
「そこを動かないで」
命令口調で言われても、ひーひー言いながら、せまいワンルームを逃げ回る。
「しもべのくせに、私から逃げようなんてバカな考えは、お捨てなさい」
僕が部屋の隅に追い詰められたところで、ゲームセット。じゃれあいが終わると、カロンは両手を大きく広げて、僕をじっと見つめる。
「プースケや、ちゃんと、わたしの目を見ておくれ」
そして僕を包み込むように抱きしめると、ほっぺとほっぺをくっつける。
すりすりを、くりかえされている時が、僕にとっては、至福の時。
次第に、自分が手のひらサイズの小動物になったような錯覚に陥り、頭の芯が、ほんわかと温かくなってくるのだ。
彼女がはじめて僕の部屋にきた日のことを、はっきり覚えている。
「素敵ね、このマンション」
僕はそれを皮肉だと受け取った。
僕が住んでいるのは、築五十年をこえるコンクリート造りの二階建。
ここをマンションだなんて言ったら、不当表示で訴えられる。
外壁を縦横無尽に走る大きなひび割れ。それにアクセントを添えているのが、真っ赤に錆びついた鉄製の窓枠。
もちろん、エレベータなんて気の利いたものは付いていない。
「どんなところが?」
「音がぜんぜんしなかったの。階段を駆け足で上がってきたんだけどね。足音って、結構気になるものなのよ。聞かされる方も、音を立てる方も、嫌なものなの」
そこで話をやめた彼女は、さっと立ち上がると、キッチンの蛇口を左右に何回かひねった。
「こちらも、合格。百点満点」
笑顔で百点満点と言われて悪い気はしなかったが、そのような言葉が、唐突にでてきた理由が、わからなかった。
「水が、濁っていないってことですか?」
彼女はにこっと笑うと、人差し指の腹で蛇口をポンポンと叩いた。
「安普請のマンションの水道管は、たいてい泣き虫なの」
僕は蛇口が水道管につながっていたことを、思い出した。
「水道管って泣くんですか?」
「そうよ、たまにそんな奴がいるの。ちょっとのことで、キュキュキュキュキュって泣く奴が。真夜中に、それをやられると、もうダメ。神経ズタズタ。そんなのに当たったら、逃げ出すしかないの」
ときどき僕は、こんなことをカロンに言う。
「きみって、どこか違っているよね」
するとたいてい、こんな言い方で反論してくる。
「そんなことないわ。わたし、ごく普通。どこも変わらない。ドアをノックするときだって、基本に忠実。中指の第二間接を90度に曲げて、ノックは四回。間隔は、いつ計っても、二秒ぴったし」
コンコンコンコン。
いつもの軽やかなノック音で、目が覚めた。
いけない、寝過ぎた。と思った。
あわてて上半身を起こしたとき、違和感を覚えた。
頭の芯がしびれているような感じがしたのだ。でも、こんなことは珍しくない。睡眠不足のとき、必ずそうなる。
だがよく考えてみると、それはあり得ない。
昨夜寝たのが、午前零時。予告無しにカロンが姿を見せるのは、日が落ちてから、しばらくたった頃と決まっていた。つまり、僕は二十時間近くも寝ていたことになるからだ。
ところで、今、何時?
時刻を確認した僕の頭が混乱した。自動修正機能付きの電波時計の針は、午前二時を示していたからだ。寝付いてから、二時間しか経っていないことになるが、カロンが時間を間違えるはずがない。
ということは、僕に関係のあることで、緊急事態が発生したということになる。
心当たりを探す間もなく、カロンが現れた。
「ずいぶん早いんだね、今日は」
と言って様子をうかがったのだが、僕の声は、彼女の耳には届かなかったらしい。
カロンは僕の耳元に口をよせると、ささやくように言った。
「あなたの、新しい呼び名を考えなきゃいけないみたいね」
そして、僕の反応も見ずに、そのまま風呂場に向かった。
「考える? 僕の新しい呼び名を? 何のために?」
彼女の後ろ姿を眺めながら、僕はそうつぶやいた。
同じ日の、同じ時刻。
ここは、築五十年のオンボロアパートから、四キロほど離れたマンションの一室。
思案顔で窓の外を眺めているのは、還暦過ぎの三人。
還暦過ぎで、ヨボヨボのお婆ちゃんの姿を想像した人がいたとしたら、それは大間違い。
去年の夏、あるイベントで、彼女たちの年齢当てクイズが行われた。ぴたり賞が三万円。前後賞が一万円と聞いて、大勢の人が参加した。
だが、ぴたり賞も前後賞も該当者無し。一番近かったのが、26歳差。
彼女たちの肌つや、スタイル、身のこなしの軽やかさに一番驚いたのが、そこに居合わせた化粧品と健康食品を取り扱う会社の社長だった。
「ぜひ、我が社の顔になってください」
誰もが驚くほどの破格の契約金の申し出があったが、その場で、きっぱり断った。
その時の三人の悩みが、増え続ける財産の使い道が見つからないことだったからだ。
「そろそろ、時期がきたみたい」
最初に口を開いたのは、緑色のナイトガウンのおんなだった。
「あら、私も、それを言おうと思っていたところなの」
黄色いパジャマが、そう言うと、赤いカーディガンが、うなずいた。
「私も、同じ意見」
すると三人は、一斉に後ろを振り返った。誰かに号令をかけられたみたいだった。
彼女らの視線の先にあったのは、神棚と仏壇をミックスしたような形の、縦横六十センチくらいのヒノキの箱。
その真ん中に飾られていたのは、黒光りする石。
それを見つめながら、三人は声を揃えて言った。
「やっぱり、御石様からのお告げなのね」
★
読み終えたあと、いくつもの深いため息が漏れた。
今の僕は、まないたの鯉。これからの僕の人生は、カロン次第。
一番可能性が高いのは、いま僕の頭の中にいるカロンが、どこかに行ってしまうこと。
覚悟していたはずなのに、いざとなると、返事も聞かずに逃げ出したくなった。
でも下腹に力を入れて思いとどまった。
この自信の無さが、カロンに嫌われるんだ。しっかりしろ、お前。
と自分に言い聞かせた僕は、心の弱さが声に出ないことを祈りながら、わざと素っ気ない声で訊いてみた。
「どう?」
「なにが」
予想通りの、はぐらかし。僕はもうひとつ用意しておいたセリフを早口でいった。
「自分の一番好きなものを書こうと決めた瞬間、思い出したんだ。君との出会いの場面をね。思い出すつもりはなかった。でもこうなった以上、仕方がない。あとは任せる。きみに関する記憶のすべてを消されたとしても、文句はいわない。これまで、付き合ってもらったことに感謝する。ありがとう」
急に胸苦しさを感じた。一気にしゃべったせい。酸素不足。でも、それ以外の要素もあるような気がした。
僕は息を止めて返事を待った。
この次の言葉で、僕の今後が決まるのだ。
しかし、カロンの口から出てきたのは、意外な言葉だった。
「わたしが探しているあなたとの出会いは、こんなほのぼのとしたものじゃないわよ」
「ほんとにぃ?」
嬉しさのあまり、一度は裏返った僕の声は、すぐに凍り付いたようになった。
その出会いは、アパートに棲み着いている住民との出会いよりも、さらに、おどろおどろしいものだったんじゃないだろうか……
僕のその思考を、カロンが遮った。
「訊きたいことがあるんだけど……」
ドキッとした。語尾がかすれたときの、カロンは要注意。これまでも、知らないうちに機嫌を損ねたことがある。いまのこれも、きっと、そう。
それにしても、よりによって人生の分岐点に差し掛かっているこの時点で、どうして、こんなへまをするんだ。情けない。しっかりしろよ、お前。
と自分を責め立てた後「訊きたいことって、何?」というと、カロンは笑いながら、こんな質問を投げかけてきた。
「この2529文字の締切日は、いつなの?」
「この長ったらしいタイトルの小説、最終的には何話になりそう?」
カロンがそう訊いたのは、無事に第一話のアップを終え、ほっとしながらコーラを飲んでいる途中だった。
そんなこと考えたこともなかったが、とっさに答えた。
「長くて十話。少なくて七話。そんなとこかな」
と、カロンがクックックッと、含み笑い。
反射的に浮かんできたのが、三日坊主。
「なるほどね」僕は意識してふてくされた声を出した。
「せいぜい三話。ひょっとすれば、今の第一話で終了。きみは、そういいたいんだね」
すると今度は、くすくす笑いに変わった。でも、悪意を感じる笑いではなかった。聞いている僕までもが幸せになりそうな響きがあった。
「あのね」カロンは、くすくす笑いのままつづけた。
「最終的には、129話になるみたいよ。その、ゆうれい付きアパートの管理人とバーシュウレイン」
一瞬、何をいわれたのかわからなかった。
「投稿期間は、丸々二年」
そこでやっと意味が通じた。
話題を逸らすための冗談。
ウケたふりをしてやろうと思ったが、笑えなかった。カロン特有の笑いのセンスが、どこにもなかったからだ。
桁が多すぎる。期間が長すぎる。その上、どちらも中途半端。しかし引っかかる部分があった。こういったでたらめな数字を口にした場合、必ずといっていいほど出てくる数字、嘘のサンパチの、三と八がなかった。
しかし、その次の言葉の中に、ちゃんと出てきた。嘘八百の八が二個。
「原稿用紙換算で、八百十九枚。最終投稿日は、今日と同じ、六月八日」
それにしても、よくもまあ根拠のないことを次から次に、べらべらと、とあきれ果てながらも、返す言葉を考えているうちに、カロンの本音を引き出せるようなセリフを思いついた。
僕はそれを、冗談ぽく聞こえるような言い方でいった。
「すると最終回は、こうなるわけだね」そこで効果を高めるために、少し間を置いた。
「人間の姿に戻ったきみが、僕の目の前に現れる。そして二人は何もいわずに、固く固く抱き合う。めでたしめでたし」
しかし、カロンはなんの反応も示さなかった。というより、完全無視。そっちの方があっているかもしれない。
急に息苦しさを感じるような沈黙が訪れた。
その居心地の悪さを追っ払おうと、コーラに手を伸ばそうとしたとき、僕の心をかき乱すような言葉が聞こえてきた。
「やっぱり、最終回のストーリーは、内緒にするわ」そこでカロンも僕と同じくらいの間を置いた。
僕は、全神経を耳に集中して、言葉を待った。
「でもそのあとの、あなたのことなら教えて上げてもいいわよ」
「僕のこと?」僕はしっかりと念を押して訊いた。
「つまり、そのあとの僕というのは、129話を書き上げたあとの僕のことなんだよね」
「そう、二年後のあなたが何をするか、そのこと」
繰り返された二年後という具体的な数字に、つい前のめりになっていた。
「で、どうなるの? 二年後の僕」
「あなたの希望した通りの展開になるの」
「僕の希望? なにそれ」
「覚えていないの?」カロンは呆れたような声でいった。
「神隠しにあった娘さん、嫁姑問題、初恋の乙女心に、女好きな男を絡ませたサスペンスタッチ。それだけじゃ面白くないから、さらに」
「ああ、あれね、ハイハイ」僕は話を遮った。
期待が大きかっただけに、反動も大きかった。自分の肩が、ガクンと下がるのがわかった。
「それなら覚えている。でもあれは口から出まかせ。僕が望んだことじゃない」
「でも、あなたは、そういった」
はい、おっしゃるとおりでございます、カロン様。胸の中でつぶやいただけ。
「とにかくあなたは、書きはじめるの。頭を悩ませながらね。嫁姑問題、女好きの男、輪廻転生、小学生の女の子も出てくるみたいよ」
「もういい」僕は片手で空気を払った。
「たった今、やっとの思いで、第一話を書き上げたところなんだ。余計なことをいわないでほしい。プレッシャーにしかならない」
すると、わざとらしい声が返ってきた。
「あ、忘れてた。わたしには、大事な捜し物があったんだ」
僕は遠ざかる声に呼びかけた。
「ねぇ、どうして、二年後のことがわかるの?」
しばらく待ったが、返事はなかった。
シャワーを浴び、明かりを消して、ベッドにはいったところで、同じ問いかけをしたが、無駄だった。
「おやすみ、カロン。でもその前に」
返事はなかったが、かまわずつづけた。
「きみの予言通りだとすれば、少なくともあと二年の間、きみは僕のそばにいるってことになるようなんだけど、どうなの。イエスかノーで答えてほしい」
即座に真っ暗闇の中、声に出してカウントダウンを開始した。
さん、にぃ、いち、ゼロまで数えたが、カロンの声はなかった。
「っ、たくもう」
吐き捨てるようにいって、ふと目覚ましに目をやると、緑色の液晶の数字は、後七秒で、日付が変わることを告げていた。
了