遭難者
妙な沈黙が、玄関を支配する。日が陰り始めている。はやく蝋燭に火をともさないと、光源のないこの場所では月明りのみが頼りになってしまう。
「……足は、動きますか?」
アンネリーゼの声が、沈黙を破る。自分の家の中で、その声は妙に白々しく響いた。
男がここにいるというだけで、自分の家が自分の家ではなくなってしまうかのようだ。
「……あぁ。折れてはいない。痛みがある。捻ったのだろう」
返答はないかと思ったが、男は明瞭な口調でそう言った。
捻ったのだろう右足を持ちあげてみせてくれる。
「ご自分で、わかるのですか?」
「自分の体ぐらいは、自分でわかる」
だとしても、普通は痛みや怪我におびえて、そこまで冷静に把握はできないだろう。
男は、日常的に怪我をするか、体を使う仕事をしているのかもしれない。
体に古傷があるのだから、戦う仕事だろうか。
セゾンリーブスの街にも、ラングフォード皇国から派兵された兵士がいる。そのうちの一人かもしれない。
ラングフォード皇国の人々と、トルクメニアの人々には身体的特徴における変わりはない。言語も同じだ。これは元々両国の関係が良好で、互いの国の人々が交流していたからであると、吟遊詩人がいつか歌っていたことを思い出す。
彼がラングフォードの兵士だとしても、アンネリーゼにはトルクメニア人との見分けがつかない。
「──森で迷った。水を飲もうとして、川に落ちて流された。死んだと考えていたが、俺はどうやら悪運が強い。死んでも、よかったのだがな」
皮肉げに、彼は言う。
本当に死んでもいいと思っているような口調だ。
アンネリーゼは、体が熱くなるような怒りを感じる。
彼の言葉に、両親の死が重なる。生きたくても、それができない人もいるのだ。
「本当に、死んでいるところだったのですよ。セゾンリーブス大森林は危険な場所です。森の奥に一人で入っていくなんて、死にに行くようなものです」
やや強い口調になってしまったことに、アンネリーゼは自分でも驚いた。
「あなたが無事で、よかった」
とりなすように、本心を伝える。
それから包帯と添え木を救急箱からとりだして、彼の足首を確認する。そこは確かに赤く腫れている。
アンネリーゼは余計なことを言わないようにするために、黙々と足首を添え木で固定した。あとは痛み止めを飲んで休めば、数日で元どおりに動けるようになるはずだ。
頭の傷も軟膏を塗り、傷が開かないように包帯を巻く。
包帯を巻き終えると、ぐぅ、と、どこか間の抜けた音が聞こえた。
まじまじと男に視線を送る。彼は照れたように、視線を逸らした。
「……数日、食べていない」
「では、スープを作りましょう」
手負いの獣も人間らしいところがあるものだ。
アンネリーゼは彼を安心させるために、にっこりと微笑んだ。
「着替えはここに置いておきます。自分でできますか?」
「あぁ」
「あなたの、名前は?」
彼はなにかを考えこむように、しばらく黙っていた。
それから、「パーシヴァル」と、一言口にした。
アンネリーゼは一瞬の沈黙のあとに、首を傾げる。
その名は知っている。今日、街で聞いたばかりの皇帝の名だ。
ずいぶん偶然だとアンネリーゼは驚いた。
まさか、本人などということはあり得ないだろう。こんなところにラングフォードの皇帝がいるはずがない。
「はじめまして、パーシヴァルさん。ラングフォード皇帝陛下と同じ名前なのですね」
パーシヴァルはわずかに目を細めた。
「そうだな」
その声は低く、感情が読めない。
アンネリーゼはくすりと笑った。
「皇帝陛下と会うことなんて、ありえませんものね。吟遊詩人さんも、皇帝が街を歩いているわけがないって言っていました」
そう言いながらも、ふと胸の奥に小さなざわめきを感じた。
(……真紅の瞳。ラングフォードの皇帝は、血の皇帝と呼ばれている。でも、ただの偶然よね)
なにか──心の奥にひっかかるものがある。
けれど、結局その違和感は形にならなかった。
きっと、皇帝と同じ名の男を助けたという偶然に、不可思議さを感じただけだ。
「あらためて自己紹介を。私はアンネリーゼ・ワーグナー。森の魔女と呼ばれていますが、ただの一人暮らしの薬師です」
もう一度挨拶をして、アンネリーゼは軽く礼をした。
彼は訝し気に眉を寄せて、それから「アンネリーゼ、か」と、小さな声で呟いた。




