誰かのために、自分のために
「ミヒャエル、やめて! 殺したいのならば、私だけになさい!」
「震える手で剣を持って、なにがしたいんだ、姫? この女を守るのか? トルクメニア人を守る気もないくせに。ラングフォード人のためなら剣を持つのか?」
落ちた短剣を拾い、アンネリーゼはミヒャエルに向ける。
ミヒャエルはフュリアに向けていた切っ先を、アンネリーゼに向けなおして、嘲笑った。
「裏切者が。アンネリーゼとしてパーシヴァルと結婚すると言っているらしいな。リゼット姫である自分を捨てて、トルクメニアの民を見捨てて。それはトルクメニアをラングフォードの属国に堕とすことを認めるという意味だ。生きる価値のない役立たずだが、パーシヴァルはお前が目の前で殺されたら、さぞや嘆くだろうな」
「私は……」
アンネリーゼとして生きると、決めた。
だがそれは、確かにミヒャエルの言うとおり、トルクメニアを見捨てるということだ。
パーシヴァルと共に生き、トルクメニアを守るなど詭弁だ。
トルクメニアは属国のまま、滅ぶ。
「……私は、リゼット。アンネリーゼでもあり、リゼットでもある。その名を捨てたわけではありません」
「では今すぐ、トルクメニアに戻れ。残る兵をあつめて、トルクメニア王家を再興し、民のために生きろ。できないのならばお前は、やはり裏切者だ」
アンネリーゼは唇を噛む。ミヒャエルの言葉の意味は理解できる。
それが──最善なのかもしれない。けれど誰がそれを求めるのか。アンネリーゼの王家の血筋としての矜持だろうか。
そんなもので、誰を幸せにできるというのだろう。
「そんなことをする意味がありません」
アンネリーゼは強い口調で言いきった。
視線を逸らさずに、ミヒャエルを見据える。彼の抱えているものを全て見透かすような、強い光に満ちた瞳に、ミヒャエルは一瞬たじろいだ。
だがすぐに見下すような表情でアンネリーゼを睨みつける。
「私は市居で庶民として生きました。あなたも同じですよね、ミヒャエル。あなたも、トルクメニアの庶民だったはず。ラングフォードの統治になり、皆が安心して暮らしています。もう民は、争いなど求めていません」
「己の国が他国に支配されることを、認めるのだな」
「違います。支配ではなく、併合。ラングフォードの豊かさと共に生きるための選択です。ラングフォードとルドベキア三国に囲まれたトルクメニアが生きる為の最善の手段です。私はパーシヴァル様を愛しています。だからこそ……彼の隣で守るべきものを守ると決めました」
一瞬の迷いを捨てて、アンネリーゼは毅然とそう口にする。
リゼットとして、トルクメニア王家の娘として。
アンネリーゼとして、リゼットでは見えなかったものを見てきた者として。
それがアンネリーゼの選択だ。
迷いも後悔も、今は捨て去ろう。
彼の言葉に惑わされてはいけない。私怨でフュリアに刃を向け、パーシヴァルの前でアンネリーゼを殺そうとする男の抱えているものに哀れみを感じたとしても、そこに正義などはない。
「なにが、愛だ! パーシヴァルさえいなければ、母は死ななかった!」
「あなたの事情は知りません。ですが、パーシヴァル様は徒にトルクメニア人を殺したりはしていません。もし彼が支配と共に虐殺を選んでいれば、トルクメニア人はラングフォード人をもっと恨んでいたでしょう。けれど、そうはならなかった。彼の統治によりトルクメニアは平和で豊かになりました」
「黙れ、何も知らない小娘が。お前の言葉などどうでもいい。俺はただ、パーシヴァルの前でお前の命を奪えれば、それで十分だ」
こちらに駆けてくる幾人かの足音が響く。
ミヒャエルはアンネリーゼに向けた剣で、軽々とアンネリーゼの持つ短剣を弾き飛ばした。勝てないことはわかっている。
フュリアから彼の気を逸らすことができれば、それで十分だ。
もう誰も、アンネリーゼのために命を落として欲しくない。
アンネリーゼを守って誰かが死ぬのなら、自分が死んだほうがずっといい。
そう、思ってしまう。たとえそれが、王族として、そして皇妃になる者として正しくないとしても、どうしても、耐えられない。
「アン!」
ミヒャエルがアンネリーゼの喉元に剣をあてながら、背後から拘束する。
駆けつけたパーシヴァルは、アンネリーゼの名を温室が震えるほどの声で呼んだ。
ランディスが傍に控えている。彼は床に座り込んでいるフュリアに駆け寄り助け起こす。
「アンネリーゼ様……っ」
フュリアが瞳を潤ませている。アンネリーゼは彼女に大丈夫だと微笑んだ。
「ミヒャエル、貴様……っ」
「いったいどういうことだ、これは……!」
パーシヴァルは剣の束に手をかける。
しかし、アンネリーゼの喉にあたる切っ先を見て、剣を抜くことを躊躇した。
ランディスが信じられないというような表情で、ミヒャエルを見つめる。
誰にも気づかれないぐらいに、彼の擬態は完璧だった。
その心に暗く激しく燃え盛る炎を隠し、復讐の機会を待ち続けていたのだろう。
失われたリゼットのためにひたすら行動し続けていたパーシヴァルとは真逆に、同じように戦争で母を失った彼は──歪んだまま真っすぐにつき進んでいる。
「アンを離せ」
「これはこれは、皇帝陛下。遅いご到着だ」
「アンを離せと言っている」
「お前の頼みを聞くわけがないだろう。俺はアンネリーゼを殺すためにここにいる」
「何故だ!」
パーシヴァルは酷く狼狽し、そして怒りに震えている。
彼の瞳は大きく見開かれている。その瞳はアンネリーゼと、そしてかつて失われたと思い込んでいたリゼットの幻を見ているかのようだ。
「お前はなにも知らないだろう。お前がトルクメニアに大群で攻めてきたとき、多くの者が犠牲になった。ルドベキアはトルクメニア人をラングフォードの侵攻を止めるための盾にした」
「そんなことは知っている。ラングフォード兵には、トルクメニア人を傷つけるなと命じた。市民を保護し、短時間で城に攻め入ったはずだ。だが……犠牲は、出てしまったのだろうな。無傷であったとは、言えない」
「俺は金のためにトルクメニア人でありながらルドベキアの兵として働いていた。トルクメニア人からは恨まれ、ルドベキア人からは見下されても……金のために働き続けた。母によい暮らしをさせたかった。だが……足の不自由だった俺の母は、お前が攻めてきたときに俺を逃がすために自ら命を絶った」
果たしてそれは、パーシヴァルのせいなのだろうか。
ミヒャエルの震える声からは、母を失った時の絶望が身を切るように感じられる。
だが──パーシヴァルを恨む理由になるのだろか。
「それは、逆恨みではありませんか」
アンネリーゼは、剣を喉元にあてられながら、振り絞るような声で尋ねる。
「黙れ。お前はルドベキア兵に父と母を殺されただろう。お前の育ての親、ケイオスを殺したのもルドベキア兵だ。お前はなにも知らないだろうが。お前が生きているかもしれないと、ルドベキア兵たちはずっとお前を探していた。セゾンリーブスの森でケイオスを見つけたが、奴はなにも吐かなかった」
「ケイオスは、父は……熊に、襲われて」
「違う。熊に襲われた傷と暴行の傷の区別もつかないのか、間抜けめ。お前は多くの者を奪われたというのに、復讐をしようともしない、弱い女だ」
「私は……」
怒りがまったくないのかと問われれば、嘘になるだろう。
だがもう、終わったのだ。怒りも復讐心も抱き続ければ毒になる。
ケイオスは──リゼットの情報を吐けと暴行されたのだろう。
だが彼は、アンネリーゼとアンネマリーを守った。
その尊い志を、憎しみで穢したくない。彼がアンネリーゼやアンネマリーを守った意味を、見失いたくない。
「復讐して、なにになりますか。それで救われる民はいますか」
「そんなものは、どうでもいい。無知で間抜けな姫、愛する男の前で死ね!」
「やめろ! 殺すのならば俺を殺せ!」
パーシヴァルの激高に、ミヒャエルは口角を吊り上げる。
嬉しくて仕方ないという表情で、ゆっくりと剣をアンネリーゼの心臓の上にふりあげる。
「アン……お願いだ、やめてくれ……」
弱弱しい声で、パーシヴァルは訴える。喪失に怯える少年の姿がそこにはある。
そしてそれは、彼の心の崩壊を孕んでいる。
アンネリーゼを失ったら、きっと彼は──壊れてしまう。
失ってはいけないものが多くあるはずなのに、かつてセゾンリーブスの森で死に場所を求めていたように、なにもかもを見捨ててしまう。
絶望に染まった心はきっと、全てを焼き払うほどに憎しみに支配されるだろう。
それほどに、愛されている。それほどに、求められている。
だから──誰かが死ぬのならば、自分が死んだほうがいいなんて。
アンネリーゼは、考えてはいけなかった。
「ミヒャエルさん、私を殺せば、パーシヴァル様はあなたを殺します」
「だからどうした? お前を殺せば俺の望みは叶う。そのあとは、死んでもいい。殺されてもいい。生きる意味など、どうせないのだから」
失うものがなにもないからこそ、ミヒャエルは破滅的に行動することができるのだろう。
彼にとって、ラングフォードの民もトルクメニアの民もどうでもいい。
リゼットを裏切者だと彼は言うが、はなからトルクメニアがどうなろうと、彼は興味がないのだ。
ただ、パーシヴァルを傷つけることができればいい。それだけのために、呼吸をし続けている。
「パーシヴァル様のために、私は生きなくてはいけません。ラングフォードにもトルクメニアにも、パーシヴァル様が必要です。もし彼が失われたら、多くの民が苦しむことになります。あなたも、ルドベキアの圧政を知っているでしょう?」
「どうでもいいと言っただろう!」
「どうでもよくなんかない! それが大義のためであっても、血を流すことで出た犠牲を肯定してはいけない。けれど、血が流れたことに憤り、再び血を流すことはもっと否定しなくてはなりません!」
ミヒャエルの手が少し動くだけで、アンネリーゼの心臓は貫かれる。
恐怖に足が竦み、言葉が喉の奥で詰まりそうになる。
けれど──言葉を、届けなくては。
もう逃げてはいけない。自分の立場からも、役割からも。
アンネリーゼは、そしてリゼットは、どんなに強い逆風にも立ち向かっていかなくてはいけない。
愛してくれたパーシヴァルのため、アンネリーゼを支えてくれている皆のため。
そしてなによりも、自分のために。
「ただ静かな幸せを望んで生きる多くの人々を苦しめることを、あなたのお母様は望むのでしょうか」
「黙れ!」
「ミヒャエルさん、どうか怒りで剣をふりあげるのではなく、あなたの力を……守るために使ってください。あなたの幸せを望み、あなたのお母様は命を絶ったのでしょう。こんなことを、誰も、望んでいません」
アンネリーゼは、剣を握った。
鋭い刃が、アンネリーゼの手のひらを傷つけて血を滴らせる。
フュリアの悲鳴と、ランディスの息を呑む音、そしてパーシヴァルの「アン、やめろ」という声が聞こえてくる。
アンネリーゼはそれでも祈るように、剣を握り続ける。
「……っ、離せ、指がその手から全て離れるぞ」
「ええ。その前にあなたは、剣を離してくれると信じています」
「馬鹿な女だ。そんなわけが、ない……」
ふと、ミヒャエルは言葉を止める。
アンネリーゼの目の前に、小鳥たちが舞い降りてくる。
精霊たちは光の粒子になり、優しそうな女性の姿を形作った。
『やめなさい、ミヒャエル。あなたは優しい子だったはずよ。あなたに頼ってしまった私が全て悪いの。あなたに辛い生き方を選択させてしまって、ごめんなさい』
女性の声がはっきりとその場に響いた。
ミヒャエルの体から力が抜け落ちる。アンネリーゼはそれに気づいて、剣から手を離した。ミヒャエルはその場に脱力して膝をつく。剣が、だらりと投げ出された手から落ちる。
パーシヴァルは、拘束がとかれたアンネリーゼを抱えて彼から救い出した。
彼の呼吸が、いつもよりも荒い。彼の苦痛がその体から伝わってくる。
腕の力は、骨が軋むほどに強い。もう離さないというように、アンネリーゼを強く抱いている。
アンネリーゼは大丈夫だと伝えるために、彼の体にそっと寄り添った。
「かあさん……」
ミヒャエルは茫然としながら、そう口にした。
精霊たちは彼の母の姿をしているのだ。
その輝く粒子は、両手でミヒャエルを包み込んだ。天から福音が届けられたような、神秘的な光景だった。皆、何も言えずにただ、目の前の光景を見つめている。
『あなたの幸せを願っている。どうか、間違えないで』
「かあさん……ごめんなさい、俺は、あなたを苦しめてしまった……」
『違うわ。私のために、ありがとう、ミヒャエル』
彼の体を包み込んだ粒子は、輝きながら消えていく。
それは小鳥の姿に戻り、アンネリーゼの周囲で羽を休める。
アンネリーゼは「あなたたち……」と、小さな声で呟いた。
彼らは、死者が残した星屑だ。だから──死者の声を伝えることも、できるのだろうか。
パーシヴァルは戦意を喪失したミヒャエルに、抜いた剣を突きつける。
「陛下、この男の出自を調べたのは私です。責任は、私に」
「俺も、疑わなかった。それどころか、信用さえしていた。お前の責任ではない」
深い悔恨の中にいるランディスを許し、パーシヴァルは静かな瞳でミヒャエルを見つめた。
「……ミヒャエル」
「殺せ」
「いいや。殺さない。以前の俺なら、お前の首を簡単に落としていただろう。だが、それでは……なにも変わらない。すまなかった」
「なぜ、謝る」
「俺のせいで、お前は母を失った。俺の身勝手が、犠牲をうんだ。それすら気づけず生きてきた」
パーシヴァルは剣を降ろし、鞘におさめる。それから、アンネリーゼをフュリアに任せると、ミヒャエルの前に膝をつく。
「お前は優秀だ。だからその力を、民のために使ってくれないか。これ以上、犠牲が増えないように。俺やアンと共に、民を導くための助力をしてほしい」
「俺は、アンネリーゼを殺そうとした」
「あぁ。だが……お前は思い止まった。そしてきっと、同じ過ちは犯さないだろう。お前の顔を見ていれば、わかる」
ミヒャエルは項垂れる。顔をあげると、彼の瞳は涙で濡れていた。
そして「血の皇帝などと呼ばれているくせに、甘いな」と、呟いた。




