行かされたことを償うために
ミヒャエルの口ぶりに、フュリアは眉間に皺を寄せる。
「なにが言いたいのですか、ミヒャエル。アンネリーゼ様の前で、不敬ですよ。わきまえなさい」
「事実を伝えただけです。なにか問題がありますか?」
「アンネリーゼ様の立場を理解していての物言いですか? アンネリーゼ様が……幼いリゼット様がどれほど傷ついたのか、あなたにはわからないでしょう。記憶を失うほどに、悲惨な光景を見たのです。それを、あなたは……!」
フュリアは珍しく、強い口調で叫ぶ。
彼女がそんな風に思っていてくれていたことに、アンネリーゼは息を呑んだ。
リゼットとしての記憶を、アンネリーゼに尋ねる者はいない。
皆──アンネリーゼの心を、守ろうとしてくれているからだ。
「傷ついた? だからなんだ、くだらない。人の命を犠牲にしてのうのうと生き延びた上に記憶を失くした? 甘えるのも大概にしろ。なにが、姫だ。ご立派な血筋に生まれて、さぞかし大事にされてきたのだろう。命を救われ隠れて暮らして、何もしない。何もできない役立たずだ」
振り向いたミヒャエルからは、表情が抜け落ちていた。
いつもの穏やかな彼ではない。まるで別人のように──見開いた瞳には、憎悪が漲っている。
『パーシヴァルは、いないよ』
『リゼット、ここにはいない』
『まだ、城の中にいるよ』
小鳥たちがいつの間にか傍に来て、アンネリーゼに教えてくれる。
アンネリーゼはフュリアの腕を掴んだ。なにかがおかしい。この感覚は、小鳥たちがリゼットに城の襲撃を教えた時に似ている。
フュリアも異変に気づいたのだろう、アンネリーゼを後ろ手に庇い、ミヒャエルと間合いを取るためにじりじりと後退する。
「あなたは、誰。本当に、ラングフォードの貴族なのですか」
緊張した声で、アンネリーゼは問う。
答えはすぐそこにある。ラングフォードの貴族が、トルクメニアの姫に恨みを抱くはずがない。無関係だからだ。
だが、彼がトルクメニア人だとしたら、それは違う。
「気づいているくせに聞く必要があるのか、愚図で愚鈍なお姫様。なにが、薬師だ。なにがアンネリーゼだ、馬鹿馬鹿しい。お前はトルクメニア人を見捨ててラングフォード皇帝に跨り腰を振る、裏切者の淫婦だ」
「ミヒャエル、なんてことを……っ、お前は、許されないことを言った!」
フュリアが、護衛用の短剣を抜く。彼女の全身から、触れるだけで皮膚が切られるような殺気が放たれている。
「フュリアさん、待って……っ」
ミヒャエルの意図がどうであれ、逃げるべきだ。
ここには今、ミヒャエルとフュリア、アンネリーゼの三人しかいない。
ミヒャエルがこの場所にアンネリーゼを誘い込んだのだろう。
パーシヴァルのいる皇城はすぐ傍にある。温室から出れば、兵士たちも警備についている。助けを求めることは容易いはずだ。
「血の気の多い女だ。馬鹿だな、誰も彼もが、馬鹿しかいない。権力や金や愛やら、我欲に狂った貴族や王族の馬鹿どものせいで、苦しむのは庶民だ。それなのに、庶民の血が流れても誰も気づきもしない。本当に──虫唾が走る!」
ミヒャエルは護衛用の剣を抜く。フュリアが短剣を構えて、彼に向かっていく。
侍女服のスカートが翻る。低い姿勢で勢いをつけ、両手で短剣を構えて彼の胸に突き刺そうとする。
明かな殺意が、彼女にはある。ミヒャエルをアンネリーゼの外敵と認識したのだ。
アンネリーゼを守るために、敵を排除する。
彼女に、迷いはなかった。
「騎士を目指していたそうだな。なまぬるい貴族のお嬢様が。お前は、金に困ったこともなければ、金を稼ぐために汚い豚の下で働いたこともないだろう。そんな女の剣技が、俺に勝るとでも思うのか?」
フュリアの素早い一撃を交わして、ミヒャエルは彼女に剣を振りおろす。
彼女はその剣を短剣でいなし、弾き飛ばす。金属の打ち合う高い音が、何度も響く。
数度の打ち合いで、フュリアの息が切れはじめる。ミヒャエルは護衛騎士に選ばれるほどの実力を持つ男だ。その剣は、重く早い。弾くだけで精一杯になり、やがて、フュリアの短剣は弾き飛ばされた。
切っ先の鋭い短剣が宙を舞い、石畳の上にカランと落ちる。
その場に、フュリアは膝をつく。ミヒャエルは彼女の首に剣を突きつける。
「ラングフォード人など、死んでいい。どうせ、そこの姫も殺す。パーシヴァルの目の前でな!」
「なぜ、そんなことを……っ」
「母が死んだ。パーシヴァルのせいだ。だから、奴の大切なものを、奴の目の前で殺す。俺はルドベキアの残党に情報を渡すために、ここに潜り込んだ。だがそんなことはもう、どうでもいい。これは運命だ。そうすると決めた」
フュリアを、守らなくては。
アンネリーゼの瞼の裏に、在りし日の記憶がはっきりと蘇ってくる。
『リゼット、パーシヴァル様となかよくなったのね。ルーテ様が、パーシヴァル様があなたのおかげで元気になったって、とても喜んでいるわ』
『お前は優しい子だ、リゼット。私はとても、誇り高い』
リゼットは──両親が大好きだった。
ゼルディンは寡黙で自分にも他人にも厳しい父だった。曲がったことが嫌いで、己を貫き通すために、母は『頭が硬いのよ』と、時々苦笑していた。
リノアンは、よく笑う人だった。ゼルディンが寡黙なぶん、よく喋る。人との壁をつくらない明るい女性で、誰とでもすぐに仲よくなった。
侍女たちにも慕われ、ルーテにも頼られていた。貴族女性の悩みの相談に乗ることも多く、『まるで皆の母のようだ』などとゼルディンに言われていた。
あれは嫉妬もあったのだろう。自分の妻なのに、という多少の独占欲が混じった言葉だった。
トルクメニアの城はいつも明るい光がさしこんでいて、リゼットは──確かに、ミヒャエルの言うとおり、何不自由なく甘やかされて育った。
怖いものなどなかった。世界は幸福に満ちていると信じていた。
だからパーシヴァルのことも心配で、声をかけにいった。彼を救いたかったなんて大それた気持ちがあったわけではない。ただ単純に、病気だと聞いていたからお見舞いがしたかったのだ。そして、年の近い彼と仲よくなりたかった。
彼に求婚されてはじめて、幼い恋を知った。
そして──それからしばらくして城は襲撃を受けて、両親の死と、身代わりになった少女の死を、目の前で見た。
それだけではない。多くの兵士も、侍女も殺された。
まるで蹂躙されるように。城の床には血だまりが広がり、まるで赤い海のようだった。
あんな光景は、二度と見たくない。アンネリーゼの前で誰かの命が失われるぐらいなら、自分が死んだほうがずっといい。
無意識のうちに、アンネリーゼをその思いが突き動かしていた。
今は、はっきりとわかる。
アンネリーゼは失われた命に贖うために、生きている。
そして、より多くの人を救うために、生き続けているのだと。




