少しずつの変化
アンネリーゼは彼の指に、自分の指を絡める。
離れ難いのは、アンネリーゼも一緒だ。
「パーシヴァル様……このあと、お時間はありますか?」
「あぁ」
「では、薬草園を見に行きませんか? 皆さんのおかげで、だいぶ完成したのですよ」
「見せてくれるか? もちろん、行こう」
アンネリーゼはフュリアを呼んだ。パーシヴァルはランディスに呼ばれて執務室に向かう。支度が終わったら迎えに行くと、アンネリーゼは彼と約束した。
「陛下はお変わりになりましたね。それも、よい方向に」
「元々は、どんな方だったのですか? フュリアさんとランディスさんは、陛下の幼馴染なのですよね」
「幼馴染というのは烏滸がましいですが、おばさまと王妃様が友人でしたので、幼いころから顔を合わせることがありました。私は、ランディス様に連れまわされていただけでしたが」
「ランディス様は、フュリアさんのことが好きなのですね」
「いえ、そういうわけでは。小さなころは気が弱かったのです、あの従兄は。私の陰に隠れていないと、会話もろくにできなかったのですよ」
ドレスを着替えさせてもらいながら、アンネリーゼは笑う。
ランディスは神経質で繊細だとフュリアは言うが、幼いころはとても可愛らしい少年だったのだろう。
「パーシヴァル様は……リゼット様でいらしたころの記憶にあるかもしれませんが、優しくて穏やかで、少女のような少年でした。ランディス様とパーシヴァル様は、私が守らなくてはと思ったものです。なんせ、私が一番力持ちで、背も高く強かったですから」
「フュリアさんは、少女時代から格好よかったのですね」
「ええ。そのあたりの男には負けないぐらいでしたよ。ですが……トルクメニアが陥落したと聞いてからは、様子が変わりました」
脱がせたドレスを丁寧にトルソーにかけながら、フュリアは話す。
「元々大人しい方でしたが、パーシヴァル様はいっそう寡黙になり、ほとんど笑わなくなり、一日の大半を鍛錬と座学に費やすようになりました。当時まだ壮健だった陛下は、ようやく皇帝になる自覚が出てきたなどと言っていたようですが……私には、まるで手負いの獣のように見えたのです。触れたら食い殺されそうな迫力がありました」
「そうなのですね……」
「はい。私にも、ランディス様にも……誰にもその理由はわかりませんでした。毒殺未遂のせいで心に傷を負ったのだろうと、皆で話していました。でもそうではなく、リゼット様を失ったせいだったのですね」
アンネリーゼは曖昧に頷いた。きっと、そうなのだろう。
彼を森で助けたとき、アンネリーゼも手負いの獣のようだと感じた。
リゼットを失った日から彼はずっと──深い傷を負い、満たされない孤独を抱え続けていた。それほどまでに、トルクメニアで過ごした一年間が、特別だと思ってくれていた。
そしてリゼットもまた、幼いながらに、パーシヴァルと交わした結婚の約束を、健気に信じていた。
約束の印である髪飾りは今も、アンネリーゼの髪を飾っている。
幼いころにはやや大人びているデザインだったが、今のアンネリーゼにはそれはとてもよく馴染んでいた。
「あのまま……トルクメニアが陥落しなければ、私はきっと、パーシヴァル様とは結婚できなかったでしょう。お父様とお母様には、子供が私しかいませんでしたから」
あるいは、いつか弟が生まれていたかもしれない。
だがそれも、今となってはわからない。ともかくラングフォードに比べ、トルクメニアはとても小さな国である。彼の皇妃として嫁げたかどうか──。
運命とは、数奇だ。アンネリーゼには本当の両親の記憶はあまり残っていない。ただ、二人とも優しい人たちだった。
傷ついていたパーシヴァルとその母を、一年も保護して穏やかな環境を与えた。そして、ルドベキア三国連合からの誘いを拒絶した。
優しくもあり、強くもあった。
多くの失われた命の上に、アンネリーゼは立っている。
多くの犠牲によって得られた幸福だ。
罪悪感がまるでないといえば嘘になる。
それでも、アンネリーゼはパーシヴァルを愛している。
嘆きも悲しみも全て飲み込んで、前を向いて歩いていかなくては。
「それに、トルクメニアが三国連合に加担していたら……パーシヴァル様と戦うことになってしまっていたかもしれません」
仮定の話をしても無意味だが、つい口にしてしまう。
フュリアはいつも静かにアンネリーゼの話を聞いてくれる。まるで姉のようで、彼女と話をしていると心が落ち着く。
「どうでしょうか。陛下の情熱が、燻って鎮まるとは思えません。リゼット様を攫うか、トルクメニア王を説得してどうにか結婚を認めてもらうか……」
それから、フュリアは珍しく背筋が凍えたように身震いした。
「嫌なことを、考えてしまいました。トルクメニアと敵対したら、陛下はもしかしたらトルクメニアを降伏させたあと、リゼット様を強引に手に入れていたかもしれません。捕虜として監禁して……あなたの心を、折っていたかも」
パーシヴァルならやりかねないと、フュリアは呟くように言う。
それから気を取り直したように、大きく首を振った。
「ともかく、陛下にとってリゼット様……アンネリーゼ様ほど大切な人はいません」
フュリアは婚礼着や装飾品を片付けて、アンネリーゼに着せた普段着のドレスのレースやリボンを手直しした。
髪をもう一度綺麗に整えて、満足げに笑う。
「こんなに優しくて勇気があって美しい人を、手放せませんよ。陛下は危ういところがありますが、アンネリーゼ様が隣にいてくださればきっと、名君になります」
「私も、精一杯パーシヴァル様を支えたく思います」
「陛下をよろしくお願いします。ラングフォード皇国には、陛下が必要ですから。もちろん、アンネリーゼ様も」
アンネリーゼは胸に手をあてて頷いた。
危ういという意味は、理解できる。パーシヴァルは強く賢いが、心の中に手負いの獣を飼い続けている。それはほんのわずかな綻びで、パーシヴァルを喰らいつくしてしまうようなものだ。
彼は極端に、喪失を恐れている。
アンネリーゼの拒絶に憤り白金宮に閉じ込めたのも、心が堕とされそうになるほどにひどく抱いたのも──全ては、失いたくなかったから。
激しい情熱と、執着と支配。そんなものを心の中に飼っている。だがアンネリーゼがリゼットだとわかり、それでもアンネリーゼとして愛していくことを決めてから、彼の獣は落ちついたように感じられている。
少なくとも、死を求めることはない。以前よりも言葉が増えて、皆に対しても優しいとはいわないまでも、気にかけるようになっている。
彼の傍を離れてはいけない。離れる気もないが──アンネリーゼは、皆に認められるように努力を続けなくてはいけない。ラングフォードの皇妃として、ラングフォードやトルクメニア、そして属国となった国々の平穏を守ることができるように。
レイチェルは皇妃の役目は子を産むことだけだと言ったが、アンネリーゼはもっと皆のために生きたい。
それはきっと、リゼットを守ってくれた皆への、そしてリゼットに変わらぬ愛を捧げて、求め続けてくれていたパーシヴァルへの恩返しになるだろう。
「アンネリーゼ様のおかげで、レイチェル様も穏やかになりました。ミドラー夫人と和解もできて、本当によかったと思います。イザベラ様も本来の優しさを取り戻したように思います。あの苛烈な女性と言葉を交わせる日がくるとは思っていなかったのですよ」
「人は、ほんの少しのことで変わることができるのでしょうね。私も、森の魔女だったときは……こんな風に皆と話をすることなど考えたこともありませんでした。両親が亡くなってから、私はずっと孤独で、ひとりきりでしたから」
アンネリーゼは、薬師として皆の治療をした。それだけだ。
ただ、自分が正しいと信じたことを行った。それが少しでも誰かを救えるのなら、アンネリーゼはこれからも、自分の信念に従って生きていきたい。
怯えてうずくまっていては、なにもできない。恨みや怒りでは、誰も救えない。
だから──できることなら。
パーシヴァルの心が、暗闇に囚われないように。手負いの獣に食い殺されないように──アンネリーゼは彼を守りたい。
「陛下と薬草園に行く約束でしたね。準備ができましたので、行きましょうか」
「はい、ありがとうございます、フュリアさん」
フュリアは扉を開く。彼女と共に支度部屋から出ると、廊下の奥から足早にミヒャエルがやってくる。
彼は「あぁ、まだこちらにいらしたのですね」と、安堵したように礼をして言った。
「陛下が、先に薬草園に行くと言っていました。アンネリーゼ様にお伝えして、お連れするようにと言われたので、お迎えにあがりました」
「執務室で待っていると、おっしゃっていましたが」
「残りの仕事をランディス様が片付けてくれるそうです。アンネリーゼ様との時間を長く作ることができたと、喜んでおいででしたよ」
訝しげに尋ねるフュリアに、ミヒャエルはにこやかに答える。
フュリアは「ランディス様がそのような気をまわせるとは思えませんけれど」と呟くように言う。
それはランディスに失礼だろうと、アンネリーゼは笑った。
「呼びにきてくださりありがとうございます、ミヒャエルさん。では、薬草園に行きましょうか」
「ええ、では、こちらに」
ミヒャエルの案内で、アンネリーゼはフュリアと共に薬草園に向かった。




