憤り
◇
なにが──薬師の姫だと、ミヒャエルは香水瓶を床に叩きつけた。
自室にむせ返るような森の香りが広がり、不快感に壁を激しく殴りつける。
護衛騎士の軍服から目立たない黒装束に着替えると、皇都の一角にある私邸から外に出た。
薄暗い路地の奥、階段を降りた先にある酒場で酒を飲んでいる男の隣に座る。
目立たない角席である。他にも客がちらほらいるが、ミヒャエルに気づく者はいない。
男は隣に座るミヒャエルの顔も見ずに「香水をつけているのか」と言った。
「香水瓶を落としただけです」
「あぁ──あの、祝いの品か」
「薬師の姫と、血の皇帝への祝福だそうです。笑える」
ミヒャエルが吐き捨てるように言うと、男は低く笑った。
「まさか本当に、リゼット姫が生きていたとはな。国王と王妃と共に殺した子供の顔が違うと、セオドア卿が言っていた。方々を探したが見つからず、有益な情報が手に入った途端にパーシヴァルが攻めてきて、殺されてしまったがな」
セオドア卿とは、故トルクメニア国王の側近で、宰相を務めていた男である。
かつて、隣接している三国から連合を求められたときに、トルクメニア国王はそれを拒絶した。
セオドア卿はそれを快く思わず、ひそかに三国連合と内通して、城内に兵士たちを引き入れたのである。
その後、ルドベキアと名を変えた旧トルクメニアに君臨し、圧政により栄華を極めていたものの──突然攻めてきたパーシヴァルによって殺された。
ミヒャエルは、セオドア卿の抱えている軍の末端の兵士だった。
トルクメニアの庶民の子として、王都で生まれた。幼くして父を亡くし母に育てられたミヒャエルは、裕福ではないが母に大切にされて育った。
トルクメニア兵に志願して金を稼ぎ、母に楽をさせてあげたいというささやかな夢を抱き、生きてきた。
しかしミヒャエルが士官ができる年齢になる前に、トルクメニアは三国連合によって滅ぼされて、セオドア卿に統治者が変わっていたのである。
セオドア卿に忠誠を誓っていたわけではないが、ミヒャエルは士官した。金を稼ぐためだ。それ以外の理由などない。
ルドベキア兵として生きることは、トルクメニア人に同胞でありながら嫌われるということだ。
税の取りたてや、裏切者の捕縛など──したくもないような仕事をさせられた。このころ、ミヒャエルの母は長年の苦労が祟ったのか、足を悪くして歩けなくなっていた。
三年前である。パーシヴァルが王都を攻めた。
セオドアは城門を閉じ、王都の民を壁とした。逃げようとしたトルクメニア人を、ルドベキア連合の者たちは味方でありながら殺した。捨て駒のように扱ったのだ。
ミヒャエルは軍から離反し、母の元に必死に駆けた。
辿り着いたときに見たものは、ミヒャエルに『私のせいで、ごめんね。どこか遠くに逃げなさい』と書き残して自ら命を絶った、母の亡骸だった。
母は、ミヒャエルの足枷になりたくない一心で、動けない体で這いずりナイフを調理場まで取りにいき、そこで胸を刺していた。
『かあさん……かあさん……っ』
ミヒャエルは、戦争の嵐が過ぎ去るまで母の亡骸を抱えて調理場の隅でうずくまっていた。
トルクメニア人に嫌われた。友人を全てなくして、裏切者だと石を投げられた。
それはすべて、母に豊かな暮らしをさせてあげるため。金を稼ぐためだったのに──。
なにも、ならなかった。
大切なときに母の傍にいることができず、守ることさえできなかった。
パーシヴァルさえ攻めてこなければ、あんなことにはならなかった。
だから──ミヒャエルは、三国連合に魂を売った。
パーシヴァルは確かに三国の王を殺したが、それに連なる者たちを虱潰しにできたわけではない。
ラングフォード皇国に復讐を望む者が残党として集まっている。
ミヒャエルは彼らの犬になった。パーシヴァルに復讐するためであり、金を稼ぎ生きるためでもある。
トルクメニア人に嫌われていたミヒャエルは居場所をなくし、そうする以外に生きるすべがなかったのだ。
残党たちの手引きで、ミヒャエルはラングフォードのファロウス子爵家へと入った。
この子爵家もまた、ラングフォード貴族でありながらルドベキア三国連合の残党と通じていた。
ファロウス子爵はニコル派であったが、血の粛清で罪を逃れることができた。
目立たない子爵家であったし、パーシヴァルとの戦いには参加せずに日和見を貫いていたからだ。
たいした軍事力もなく、金もなかった。肩を並べていた貴族たちが粛清されて、いつ自分もパーシヴァルに目をつけられるかと、戦々恐々としながら生きていたところ、三国連合残党から仲間にならないかという甘い誘いがあったのである。
人は、甘い蜜に誘われる。耳障りのいい言葉は冷静になって考えれてみれば利点などなにひとつないとわかるのに、誘蛾灯に誘われる蛾のように炎に焼かれて羽を落とすのだ。
それは自分も同じかと、ミヒャエルは思う。
このまま残党を裏切り、護衛騎士のミヒャエルとして生きれば、そこには穏やかな幸福が待っているだろう。
けれどそれはできない。母の仇を討つために、ミヒャエルは生きている。
そのために仕官し、ランディスの信用を得て護衛騎士の座に昇りつめた。
そして今は──アンネリーゼの、民を見捨てた裏切り者のリゼットの傍にいる。
「ケイオスをみつけたが、何も吐かなかった。拷問の最中に獣が現れて──結局、リゼットの居場所はわからずじまいだったが、皇帝のお気に入りとは数奇なものだ」
方々を探している最中、セゾンリーブスの森で、かつて王の護衛を務めていたケイオスをみつけた。
大人数で取り囲みリゼットについて知っていることを吐けと拷問したが、彼は何も吐かなかった。
さらに苦痛を与えようとした矢先に、炎のような毛皮をもつ巨大な熊が現れたのだと、ミヒャエルは男から聞いている。
その後、セゾンリーブスの街にいる魔女の噂を耳にした。
だが、接触を図る前にパーシヴァルが連れ去ってしまった。
運がないといえばいいのか、それとも運があったといえばいいのか。
リゼット一人にはなんの価値もないが、パーシヴァルの寵姫であれば話は別だ。
「姫を攫え、ミヒャエル」
「御意に」
ルドベキア残党にとって、リゼットはパーシヴァルを殺すためのよい餌になる。
だが、ミヒャエルにとっては違う。
ミヒャエルは、ルドベキア三国連合などどうなってもいい。あんなものたちは滅びればいいのだ。
ただ──母を殺したパーシヴァルも、トルクメニアの姫でありながら、トルクメニアを見捨てたリゼットも許せない。
それだけが、今のミヒャエルを突き動かしている。
リゼットをパーシヴァルの目の前で殺せば、あの男もミヒャエルと同じ気持ちを味わうだろう。
大切なものを奪われる無力を、怒りを、苦しみを。
──そうすれば、母の死も、きっと報われる。




