あらためての求婚
ミドラー夫人が帰ったあと、アンネリーゼはバルコニーに立ち、祝いの香水を眺めていた。
蓋をあけて、香りを嗅ぐ。赤い色をしているが、それは深い森の香りがする。
もう、バルコニーは怖くない。燃え盛るセゾンリーブスの幻を見ることもない。
リゼットは、両親の死と身代わりの少女の死を目の当たりにしながら、パーシヴァルからもらった髪飾りを握り締めて、バルコニーで震えていることしかできなかった。
心の中のリゼットに、もう大丈夫だとアンネリーゼは囁いた。
蒼月宮のバルコニーからは、建設途中の薬草園が見える。
その隣には、薬剤府も作られている。こちらは、アンネリーゼの知識を皆に広げ、薬草から薬を作る研究をする場所だ。
水平線に日が落ちていく。夕日がバルコニーから見える皇都を赤く輝かせている。
劫火の中に街が沈んでいるようにも見えるが、アンネリーゼはもう怯えたりしない。
罪悪感に心が押しつぶされそうになる日も、まだある。
数多の命を犠牲にしてまで、自分に生きる価値があったのかと、自問自答を繰り返してしまう。
それでも、生きている以上は──前を向いて歩き続けるしかない。
失われた命よりもより多くの命を助けること。
それが、ワーグナーの知識をアンネマリーから授けられた、アンネリーゼの使命なのだろう。
そしてパーシヴァルの隣で、再び戦が起こらないように平和を守ることもまた、アンネリーゼの使命だ。
「外は冷えるだろう」
いつの間にか部屋にやってきたパーシヴァルが、背後から抱きしめてくれる。
アンネリーゼは甘えるように、体の力を抜いた。
「パーシヴァル様、私たちのためにつくってくれた、香水だそうですよ。森の香りがします」
「どんな香りがいいのかとランディスが聞いてきたからな。民からの嘆願書の内容が、その質問ばかりで困ると言っていた」
「パーシヴァル様が、この香りの提案を?」
「あぁ」
「嬉しい。ありがとうございます」
香水瓶をあけると、いつでもセゾンリーブスを思い出すことができる。
愛しさと、悲しさが全て詰まった場所だ。
パーシヴァルは香水瓶をアンネリーゼの手からそっと取りあげて、瓶をあける。
アンネリーゼの髪に軽くかけてから、香水瓶をバルコニーにある小さな飾りテーブルの上に置いた。
アンネリーゼの髪に彼は顔を埋める。
「セゾンリーブスの香りがする。死に場所を求めて、森の奥深くまで進んでいった時に感じた。森は強い生命の香りで満ちている。木々も虫も動物たちも、生きるために生きている。その中で、俺だけが……死にたいと、考えている。それが滑稽で……だが、どうしても、希望など抱くことができなかった」
彼の言葉を静かに受け止めて、アンネリーゼは頷いた。
その気持ちは、今なら理解することができる。
記憶を取り戻したときに、アンネリーゼもそう思ったのだ。
こんな自分よりも、もっと生きるべき人がいたのではないか。
ただ、王家の血筋というだけで、幼い姫だったというだけで──守られ、生き延びた。
いっそ両親と共に死んでしまったほうがよかったかもしれない。
アンネリーゼを生かしてくれた者たちにもうしわけないとはわかっているが、どうしてもその思考を止めることができなかった。
「あの場所は俺にとっても、特別なものだ。死を求めてさまよい、お前に救われた。アンの精霊たちが、お前を俺のもとに導いてくれなければ、俺は誰にも気づかれずに朽ちていったのだろうな」
「はい。精霊たちは……幼いころからそうだったのですが、彼らなりの意思を持っているのです。私が操れるような存在ではなくて、彼らが必要だと考えていることを、してくれます」
「不思議なものだ。それは、死者の魂の残滓なのだろう?」
「そう言われていますね。死者の魂からこぼれたものが形になって、私たちに寄り添ってくれている。よき隣人とも呼ばれています。だから、なにかを命じたり、悪用することはできないのです」
アンネリーゼの精霊たちはずっと傍にいてくれた。
ケイオスのもとに導いてくれたのも、彼らがそれをするべきだと考えたからだろう。
その力で、なにかを守ることができればよかったのに──とは思わない。
戦うための力ではないのだ。ただ、見守り寄り添い、ときにはほんの少し助けてくれる。
それ以上を求めれば、精霊たちは途端に姿を隠してしまう。
敵襲を知らせてくれた。ケイオスの危機を教え、パーシヴァルを助けるようにアンネリーゼを導いてくれた。それは、彼らが必要だと感じたからそうしてくれたのだろう。
「精霊たちは、パーシヴァル様を助けるように私をあなたの元に連れていきました。きっと彼らも覚えていたのでしょうね。あなたが私の初恋の人だったと」
「……そう、なのか」
「ええ。リゼットだったとき、あなたに恋をしたと言ったでしょう? それは幼い、形にならないような感情でした。でも……いくら子供だったといっても、好きでもない人から求婚されて、受け入れたりはしません」
愛しい記憶だ。パーシヴァルと過ごした一年間、アンネリーゼの世界はきらきらと輝いていた。
ずっとなにかに怒り、怯えていた彼が笑ってくれるのが嬉しかった。
一緒に庭園を探検するのも、本を読むのも、互いの知識を教え合うのも、全部──楽しかった。
苦しい記憶の中にも、忘れたくない大切な記憶がたくさん詰まっている。
だから今は素直に、思い出すことができてよかったと思う。
記憶にも立場にも怯えたりしない。いつか来る終わりの時まで、アンネリーゼは自分にできることを模索しながら、生きていくと決めたのだ。
パーシヴァルはアンネリーゼを背後から抱きしめたまま、覆いかぶさるように唇を合わせる。
アンネリーゼは首を反らしてそれを受け入れた。
彼の情熱が、触れ合う粘膜から伝わってくる。
喪失を恐れる彼を支えられるのは、きっとアンネリーゼだけだ。それぐらい愛されているのだと、彼の態度でも言葉でも、強く感じる。
「アン。……今更だが。俺と、結婚してくれるか」
唇が離されて、パーシヴァルはアンネリーゼの前に膝をつく。
まるで従順な騎士のように、アンネリーゼの手をとった。
「ええ、もちろんです」
答えなど、決まっている。
微笑み、頷く。アンネリーゼも彼を愛している。彼が再びセゾンリーブスの森で迷わないようにするために、彼を支えたい。愛し続けたい。リゼットを求め続けていてくれた彼を、幸せに、したい。
「トルクメニアの名を、捨てることになる」
「アンネリーゼ・ワーグナー。それが私の名前です」
はっきりと、アンネリーゼは口にした。
リゼットを捨てたわけではない。リゼットはアンネリーゼの中で生きている。
だが──トルクメニアの姫で居続けたいとは思わない。
「お父様やお母様は、トルクメニアの復興や復讐を願い、私を逃がしたわけではありません。ケイオスとアンネマリーも、同じ。だから二人は私に、真実を教えませんでした。それにあなたの隣にいれば、トルクメニアの人々を守ることができます」
きっと──この判断は間違っていない。
薬師の姫と呼ばれている者として、自分にできることをしていけばいい。
パーシヴァルの隣で、彼と共に。
パーシヴァルは立ちあがり、優しくアンネリーゼをその腕に包み込む。
言葉にならない想いがその温もりから伝わってきて、アンネリーゼはそっと目を伏せた。




