亡国の姫と森の薬師
採取した薬木は、その棘でも破れない頑丈な皮袋にいれた。
両手で抱えられるほどの量で、数十人分は作れるだろう。公爵領では多くの人が熱病に侵されているという。
少しでも、治療の助けができればと、アンネリーゼは薬木を撫でて考える。
薬は皇城に戻ってから作る必要がある。馬で駆ける間に薬瓶が破損するかもしれないし、繊細な薬のために長期保管ができないのだ。
今日はもう遅い。暗闇の中を馬で駆けるのは危険だ。明朝発てば、昼過ぎにはラングフォードに帰れるだろう。
カヌレは駿馬だ。どれほど駆けても疲れない。仔馬のころから面倒を見て、戦場を共に駆けたのだと、パーシヴァルが教えてくれた。
家に戻り、アンネリーゼは暖炉に火を入れる。
セゾンリーブスでの懐かしい暮らしが戻ってくる。燃え始める薪を眺めながら目を細めた。
森を探索した汚れを湯あみをして落とした。
干してあった黒いドレスに着替える。懐かしさを感じた。
彼とのはじめての夜、アンネリーゼは黒いドレスを着ていた。あの日は雨が降って、ドレスは濡れて肌に張りついていた。
アンネリーゼよりも早く起きたパーシヴァルが、料理をしていてくれたことを思い出す。彼は汚れたドレスも洗い、室内に干していてくれたようだ。その甲斐甲斐しさを、愛しく感じる。
彼は、多くの腹違いの弟妹を持つ兄だ。なにごとも起こらなければ、世話焼きのよい兄になっていたのかもしれない。
ヴェールもつけて、鏡の前に立つ。
久々に見る己の姿を確認するように、アンネリーゼは鏡の中の自分に触れる。
この魔女の姿は、アンネリーゼを守るための鎧だった。
アンネマリーとケイオスは、自分たちが永遠にアンネリーゼを守ることはできないと自覚していたのだろう。かといって、助けを求められるものもいない。
ルドベキア兵の監視が、街に出れば常にあるような状況だった。トルクメニア兵の生き残りを探すことも難しかっただろう。
記憶を失っていたアンネリーゼ──リゼットに、外の世界を学ばせる必要があった。
セゾンリーブスのアンネリーゼ・ワーグナーとして生かすために、顔を隠させたのだ。
二人は本当の夫婦ではなかったが、アンネリーゼの目から見れば本当の夫婦のようであり
本当の両親だった。
アンネリーゼの母の名は、リノアン。
アンネリーゼとは、アンの娘、リーゼという意味もある。
アンネマリーの娘という意味だと、アンネリーゼは思っていた。
けれどそうではなく、リノアンの娘、リゼット。そんな意味を、彼らは偽名に込めてくれていたのだろう。
家から少し離れた森の奥、ワーグナー家の墓地にアンネリーゼは二人の墓をつくった。
パーシヴァルと共に祈りをささげてきた。きっと今頃二人は星になり、アンネリーゼを見守っていてくれている。
アンネリーゼの本当の両親である、国王と、王妃と共に。
「その姿を見るのは、久々だな」
「パーシヴァル様……見られてしまいましたね。あなたが戻る前に脱ごうと思っていたのですが」
「脱ぐ必要はない。その姿のお前も、美しい」
「怪しい魔女ですよ。不気味すぎて、友人さえできませんでした。男性は、一晩だけ抱いてやろうと……興味本位や、怖いものみたさです。おかしなものですよね」
「お前の素顔が晒されて、アレックスが求婚したときは、嫉妬で臓腑が煮え滾った。俺以外の人間が、お前に触れることは許せない」
パーシヴァルはアンネリーゼを背後から抱きしめる。ドレスとヴェールと手袋で、肌のほとんどが隠されている。白く浮き上がっている首に、彼の唇が触れる。
「まって、ここでは……」
「二人きりだろう。この家には、俺とお前しかいない。ときどき、ここに来ようか。存分に抱くことができる」
アンネリーゼは切なく眉を寄せた。
ずっと、彼を求めていた。リゼットである自分に葛藤し、また、リゼットに嫉妬してしまうぐらいに──アンネリーゼは彼を、いつの間にか深く愛してしまっていた。
ひとりきりで生きていたアンネリーゼは、彼を受け入れた。
離別を覚悟しながら彼を受け入れてしまうほどに、最初から──彼に絆されていたのだ。
リビングルームの暖炉の前に敷かれた絨毯に、彼はアンネリーゼをそっと押し倒した。
ヴェールをあげられないままに、唇が重なる。
不明瞭な視界を、ヴェールの上からさらに彼の手で隠されて塞がれる。
荒々しい深い性急な口づけに、彼の余裕のなさを感じる。二十一歳の精悍な男の姿がそこにはある。皇帝という仮面を脱いで、彼はこの家でアンネリーゼを抱いたパーシヴァルというただの男に戻っている。
アンネリーゼも、ここではただの薬師の女だ。それが、心を楽にしてくれる。
唇が離れていく。彼は何度か角度を変えてアンネリーゼと唇を合わせて、愛しげに濡れる唇を撫でた。
「お前にはじめて触れた日も、お前はこのドレスを着ていた。雨に濡れたドレスが体にはりついているのが淫らだった。……もう一度、この姿のお前を乱したいと、ずっと考えていた」
「パーシヴァル様は……不埒、です。昔はそうでは、なかったのに」
「お前が少女ではなくなったように、俺は少年ではない。失望するか?」
そんなわけがないと、アンネリーゼは彼の首に腕を絡めて、もう一度口づけを強請る。
深く触れては呼吸を促すように離れていく唇や舌の感触に、甘い吐息を漏らした。
「だが、お前にだけだ、アン。お前以外の誰も、俺は欲しくない」
「恋人は、いなかったのですか。誰も……好きな人、も……?」
「つれないことを口にする。このままずっと塞いでいようか。俺を疑う余裕など、なくなるぐらいに」
そうして欲しいと、アンネリーゼは小さく頷いた。
深い愛情の中で溺れて、彼でいっぱいになりたい。
そうすれば、アンネリーゼも同じように、彼に愛を返すことができる。
愛しているから、あなたの全てを受け入れていると、言葉にしなくても伝えることができる。
パーシヴァルは愛おしげにアンネリーゼの頬を撫でて「愛している」と囁いた。
──どれほど経ったのだろう。空が白みはじめている。室内の熱気で窓が曇っている。
朝を知らせる鳥の鳴き声が遠く聞こえる。暖炉の炎はくすぶっているが、冷えた空気が火照った体に心地いい。
脱がされたドレスが、ぐちゃぐちゃになって床に転がっている。
あれはもう、着ることができないだろう。
ここから出れば、アンネリーゼは森の魔女ではもう二度となくなる。だから、黒いドレスを着るのもこれで最後だ。
アンネリーゼは彼と共に、亡国の姫リゼットとして、そして同時に彼の伴侶アンネリーゼとして生きていく。
「無理をさせたな」
優しく体を引き寄せられて、包み込むように抱きしめられる。
彼の腕の中でまどろみながら、アンネリーゼはセゾンリーブスでの愛しい時間を味わった。
「愛している、アン。……リゼット。お前たちを、心の底から」
「私も……あなたが、大好き、です」
小さな声で伝えて、アンネリーゼは柔らかい眠りの淵へと落ちていく。
小鳥たちが祝福するように、窓辺で囀っている。
『眠って、リゼット』
『おやすみ、アンネリーゼ』
『パーシヴァルがいれば、もう大丈夫。あなたを守ってくれる』
そう、小鳥の姿をした精霊たちが、優しい声で囁いた。




