リゼットとして生きるのか
アンネリーゼは、記憶の混濁からしばらくの間、抜け出せないでいた。
悪夢を見てうなされると、パーシヴァルが優しく抱きしめてくれる。
朝も昼も夜も、食事を食べさせ、着替えさせて、風呂にも入れてくれる。
まるで彼の人形になったような日々を続けて、数日。
ようやく徐々にリゼットの記憶が体に馴染みはじめてきた。
「パーシヴァル様、私はもう一人で大丈夫です」
「一人にはできない」
「甘やかしすぎですよ。これでは、皇帝陛下はおかしくなってしまったと思われてしまいます。お仕事に戻ってください。私も、夫人との勉強会があります。薬草畑の世話もしたいですし」
パーシヴァルはアンネリーゼを膝にのせて、食事を与えている。
そうしないとなにも食べられないような混乱は、アンネリーゼの中をすでに通り過ぎていった。
多くの者を失っても、犠牲にしても、生きていくしかないのだと、徐々に思えるようになってきている。
そうしなければ、アンネリーゼを守ってくれた全ての人たちにとても顔向けできない。
「おかしいと思われてもいい。アン、お前以上に大切なものなどない」
「……あなたはまだ、私をアンと呼ぶのですね」
「嫌か?」
アンネリーゼは首を振る。嫌ではない。だが、戸惑いもある。
自分がリゼットなのか、アンネリーゼなのか、よくわからない。
アンネリーゼとして生きた記憶のほうがずっと長い。
リゼットとしての記憶は、パーシヴァルとの出会いと別れ、そして、燃え盛る城や両親の死。
心の傷ばかりが、鮮明に脳裏に焼きついている。
「あなたが好きなのは、リゼットです」
「俺が、その心を蹂躙し支配するつもりで抱いていたのは、アンネリーゼだ。それほど、お前が欲しかった。……すまなかったな。あんなことは、もうしない。お前に自由を返そう。城の中は自由に出歩いていい」
あんな風には、もう抱いてくれないのだろうか。
そんなことをふと、アンネリーゼは考える。リゼットだと知ってから、パーシヴァルはアンネリーゼを異常なほどに大切にしてくれている。
その心の奥底には、喪失に対する恐怖がある。彼は本当にリゼットを、心から愛していたのだろう。
純粋な少年が向けるひたむきな愛を愛おしく、同時に切なく感じる。
アンネリーゼとしての自分が消えて、リゼットだけが残ったように。
まるで柔らかな檻の中で幽閉されているような療養生活が終わり、パーシヴァルはアンネリーゼを蒼月宮の広間へと連れて行ってくれた。
「フュリアは変わらずお前の傍にいる。マリーシャは、家に戻した。お前の治療のおかげで、命は無事だった。だが、あんなことをした以上は、城においてはおけない。レイチェルに、私財を売らせて慰謝料を払わせている」
久々に姿を見せたアンネリーゼに、フュリアは安堵の笑みを浮かべた。
エマや他の見知った侍女たちも、同じように微笑んでいる。そこにはもう、アンネリーゼに対する猜疑心はなかった。
「護衛もつける。信頼できる者たちだ」
「蒼月宮を総括する護衛兵長のミヒャエルともうします。アンネリーゼ様とパーシヴァル様の御身は、この命に変えてもお守りいたします」
どことなく狐に似た雰囲気のある柔和な笑顔の優しそうな若い男が、騎士の礼をする。それに習い、他の騎士たちも恭しく頭をさげた。
彼らはすぐにさがっていく。パーシヴァルは名残惜しそうにアンネリーゼの頬を撫でて「夜には戻る」と言って、仕事に向かった。
彼の背を見送り、フュリアがため息交じりに「政務が溜まっているのですよ。一か月不在にして、今度は一週間以上アンネリーゼ様の元にこもりきり。ランディスが、国が亡ぶと悲鳴をあげていました」と、アンネリーゼに囁いた。
「ミヒャエルたちは、陛下の護衛でした。ランディスがこれは、というものを選んだのです。出自も確かです。ミヒャエルは、ファロウス子爵家の出でしたね、確か」
「……私の父、父だと思っていたケイオスも、私の護衛でした。いつも傍にいてくれて、優しくて頼りになって……懐かしく思います」
「アンネリーゼ様……リゼット様と呼ばせていただいたほうが、よろしいのでしょうか」
「アンネリーゼでかまいません。そのほうが、慣れていますから」
「あなたがリゼット様でもアンネリーゼ様でも、私の忠誠は変わりません。どうか、心安らかにお過ごしください」
フュリアはいつもと変わらない、真っすぐな礼をしてくれる。
ミドラー夫人も同じだ。久々の勉強会で彼女は「どうりで、育ちがよさそうだと思いましたわ。所作を見ればわかります。姫君だったのですわね」と微笑み、それ以上はなにも尋ねなかった。
皆、アンネリーゼの受けた傷を思い、丁寧に扱ってくれている。
涙が出るほどにありがたく、いつまでもくよくよしてはいられないと感じる。
ただ、パーシヴァルとの関係について、アンネリーゼは再び頭を悩ませている。
彼はアンネリーゼに触れない。縛りつけて幾度も犯した罪を悔いている。
それはアンネリーゼがリゼットだからだ。彼はアンネリーゼの中にいるリゼットを、愛し続けている。
お詫びがしたいと、レイチェルが贈り物を届けにきたのはそれから数日後。
フュリアは心配していたが、アンネリーゼは来訪を受け入れた。
「お義姉様! 倒れたとお聞きしたときは心配したのよ。元気そうでよかった」
駆け寄ってきて抱きついてくる彼女の幼い愛情表現を受け止めて、アンネリーゼは柔らかな金の髪を撫でた。
「レイチェル様、よくお越しくださいました」
「レイチェルでいいわ。お義姉様は、本当はリゼット姫と聞いたのよ。ええと、私には難しくてよくわからないのだけれど、記憶を失くしていたのよね。そんなこともあるのね」
「はい。そう、みたいです。……自分でもまだ、よくわかっていないのですが」
「その話にはあまり触れるなって、皆が言うわ。アンネリーゼがリゼットだとわかったのは喜ばしいことなのに。だって、アンネリーゼのままだとお兄様と結婚するのは難しいけれど、リゼット姫であればなんの問題もないものね」
それは──確かにそうだ。
ミドラー夫人は後ろ盾になってくれると言っていたが、アンネリーゼがトルクメニアの王家の血筋であればその必要もなくなる。
「リゼット姫との結婚の話、誰が言いだしたのかはわからないけれど、貴族たちの間にも広まっているわ」
「……その資格があるのでしょうか。私には、リゼットだった時代の記憶はほんの少ししかないのです」
「資格なんて、お兄様がお義姉様を愛しているのだから、それだけで十分よ。血筋だって、問題ないのだから。皇后の役割は子を産むことだわ。それ以外のことなんて気にしなくていいのよ。もしなにかあれば、私がお義姉様を守るわ」
無邪気に笑いながらそう言って、お詫びの品だと、彼女はアンネリーゼに薬を調合するための真新しい器具を渡してくれた。
典医と相談して、購入したのだという。アンネリーゼは心からの礼を言った。
パーシヴァルは、アンネリーゼを愛してくれている。
だが本当に、そうなのだろうか。
彼が求めていたのは、リゼットだ。
このまま──リゼットとして、彼と結婚をする。
そこには幸せがあるだろう。
けれど、もうアンネリーゼは何も知らない幼い子どもではない。
清楚で、無知で無垢だったリゼットではないのだ。




