あたらしい目覚め
羊のぬいぐるみが、いつのまにか届けられていた。
見知らぬベッドの上で、アンネリーゼはそれを抱きしめる。開け放たれた窓から吹き込む秋の風が、カーテンを揺らす。
小鳥たちが窓辺で羽を休めている。それは本物の小鳥ではないと、アンネリーゼは感じる。
それを覚えている。思い出したのだ。
小鳥たちはアンネリーゼの傍に、物心つく前からずっといてくれた。
友人たちだと感じていた。普段はただそこにいるだけだが、ときどき大切なことを教えてくれる。
だから小鳥たちは──ケイオスの怪我を知らせ、パーシヴァルが倒れている場所に案内してくれた。
その声を聞くことができなくても、小鳥たちはずっとアンネリーゼを助けてくれていた。
アンネリーゼは羊のぬいぐるみを抱えて窓辺に向かう。
窓から見える庭園には、薬草畑が広がっている。アンネリーゼがセゾンリーブスの裏庭に作っていたものだ。パーシヴァルが、全て城に運ぶと言っていた。
薬草は丁寧に植えられていて、のびのびと葉に光を受けている。
丸一日、眠っていたらしい。明るく世界を照らす太陽が、今は昼だと教えてくれる。
「あなたたち、精霊さんね」
『リゼット、思い出した』
『よかった、リゼット』
『お話が、できないかと思っていた』
「忘れていて、ごめんなさい」
小鳥たちは、星の欠片。精霊だ。アンネリーゼの精霊は、三匹の小鳥の姿をしている。
彼ら、もしくは彼女たちは、自由に外を飛び回り、アンネリーゼが知らないことや、見ていないことを教えてくれる。
「私は……誰、なのだろう……」
リゼットと呼ばれると、自分がまるで知らない他人になってしまったかのようで戸惑ってしまう。
でも、思い出したこともある。アンネリーゼは、腕の中の羊を抱きしめる。
その場にぺたんと座り込んだ。小さな声で「お父様、お母様」と呟いた。
「アン、大丈夫か!?」
扉が開き、パーシヴァルが駆け寄ってくる。
座り込んでいたアンネリーゼを助け起こし、すぐに抱きあげてベッドに戻してくれる。
いつの間にか、アンネリーゼはドレスから薄手のネグリジェに着替えさせられている。
彼はアンネリーゼの乱れたネグリジェを丁寧に直すと、優しく髪を撫でる。
「気分が悪いのか?」
「いえ、大丈夫です。……パーシヴァル様、ここは、どこですか」
いつもの部屋ではない。白金宮よりも部屋は大きく、美しい調度品で飾られている。
壁や柱も彫刻が彫られ、趣向を凝らしたつくりになっている。
「ここは、蒼月宮。歴代の皇妃が暮らしていた場所だ。俺も、ここで育った」
「どうして、ここに」
「白金宮は、人を閉じ込めるための場所だ。こちらにお前を移すため、準備をしていた」
「薬草畑と、ぬいぐるみ。両親の、弓と薬草の本。約束したとおり、持ってきてくださったのですね」
「……あぁ」
約束という言葉に、パーシヴァルの瞳に影が差す。
アンネリーゼは彼の肩に、額をこつんとあてた。震える頼りない背を、パーシヴァルの力強い手が、硝子細工に触れるように慎重に撫でる。
「──私の本当の名前を、どうして呼ばないのですか?」
「……なんの話だ」
「パーシヴァル様、私は……」
声が、震える。
小鳥の声を聞いたとき、パーシヴァルの顔色が変わった。
彼はリゼットが小鳥と話ができることを知っている。
そして、星のおまじないのことも。あれは、トルクメニア王家に伝わる特殊なものだ。
星の欠片である精霊の加護を与える──という、意味がある。
「小鳥たちが……精霊さんたちが、言うのです。私は、リゼット。リゼット・トルクメニア……っ」
「アン、大丈夫だ。落ち着け。俺が、傍にいる」
頭が痛む。記憶が、思い出せと悲鳴をあげている。
パーシヴァルはアンネリーゼを守るように強く抱きしめる。耳元で「大丈夫、大丈夫だ」と、優しく低い声が囁き続ける。今までの彼の態度と、少し違う。
まるで、壊れやすい宝物を真綿で包むようだ。彼は、どこまでも優しい。
「そんなことはあり得ない、私はアンネリーゼ、ケイオスとアンネマリーに育てられた、ワーグナー家の娘……そのはずです。ずっとセゾンリーブスの森で暮らしていました。生まれてから、ずっと」
「あぁ、そうだな。お前は、アン。アンネリーゼだ」
「気づいているのに、どうして、アンと、呼ぶのですか」
「……思い出さなくていい。辛い記憶だ。だから、忘れたのだろう。お前は、アンだ。それだけでいい」
「パーシヴァル様……」
彼の甘い言葉に、身を委ねてしまいたい。
なにもかもを、忘れていたい。でも、それではいけない。忘れてしまっていた辛く苦しい記憶の中には、幸せで大切な記憶もたくさん入っているのだから。
彼と、カヌレを食べる約束をしたこと。大きくなったらお酒を飲もうと言ったこと。
『私を、あなたのお嫁さんに?』
『……嫌か』
『じゃあ、カヌレは結婚のお祝いに食べましょう。山のように、お皿につんで。お酒も飲みましょうね。お祝いです』
ラングフォードにパーシヴァルが戻る日、彼はアンネリーゼと約束した。
『十五になったら、結婚できる』
『それは早すぎませんか』
『お前が俺を忘れる前に』
『忘れませんよ』
『これを、お前に。ラングフォードでとれる宝石だ』
アンネリーゼはパーシヴァルから短剣を借りる。羊のぬいぐるみの背にある縫い目を、短剣で切っていく。
アンネリーゼには、宝物があった。中央に白い宝石がはめ込まれている花の形をした、金の髪飾りだ。アンネリーゼはそれをずっと、アンネマリーからの贈り物だと思い込んでいた。
高価なものだから、ぬいぐるみの中に入れて隠していたのだ。
綿の中に包まれている、美しくも愛らしい髪飾りを、アンネリーゼは取り出した。
それを両手に持ち、パーシヴァルに見せる。
彼は目を見開いて、それからきつく眉を寄せた。
「……持っていたのか」
「はい。大切なものだから、隠していました。母にもらったのだと、思い込んでいました」
「アン。……リゼット。必ず、迎えにくる。それまで、これを。月の雫の髪飾りだ。俺を忘れないように、持っていてくれ」
「忘れないと、言ったじゃないですか。パーシヴァル様は、心配性ですね」
別れ際に、交わした約束だ。
同じ言葉を繰り返すと、アンネリーゼの脳裏に鮮やかな記憶が蘇ってくる。
パーシヴァルと毎日一緒にいた幸せな一年間。塞ぎこんでいた彼が徐々に元気を取り戻すのが嬉しかった。
パーシヴァルはアンネリーゼにとって、はじめてできた年の近い友人で、兄のような存在で。
そして──はじめて、恋をした相手だ。
彼と別れてしばらくしてから、国王ゼルディンと、王妃リノアンは深刻な表情を浮かべるようになった。小鳥たちが『こわい国が攻めてくるよ』と、教えてくれた。
アンネリーゼは幼すぎた。それが、どういう意味なのかがわからなかった。
『アンネマリー、こわい国が攻めてくるのだそうです』
『姫様、どうしてそのことを』
『小鳥さんたちが、すぐに隠れろと言っています。かくれんぼ、でしょうか』
『あぁ、姫様……っ、陛下、王妃様、姫様が……っ』
アンネマリーは、リゼットの侍女だった。彼女は薬草の知識に優れ、剣も弓も使えた。
セゾンリーブスの森で暮らすワーグナー家の最後の一人だ。
両親を失い森から出て、薬師として士官した。得体のしれない女だと皆は嫌がったが、リノアンだけは彼女の優秀さを見抜き受け入れた。彼女に教育を受けさせて、アンネリーゼが生まれると傍仕えの侍女にしたのだ。
『アンネマリー、そしてケイオス。リゼットと共に隠れていなさい。もし私たちになにかあれば、リゼットを連れて逃げなさい』
『リゼットを頼んだ、二人とも』
『お母様、お父様、一緒にいてください』
『リゼット、私たちには役割があります』
『兵たちに戦えと命じ、自分たちだけ逃げるわけにはいかない。大丈夫だ、勝つさ、必ず』
それが、母と父と交わした最期の言葉だ。
アンネマリーと、そして──護衛隊長だったケイオスは、リゼットを連れて城から逃げた。
火をつけられて燃える城と、血だまりの中に倒れるゼルディンとリノアンを、残して。
アンネリーゼの一番古い記憶は、激しく燃えるセゾンリーブスの悪夢だ。
アンネマリーは『大丈夫です、私が傍にいます』と、アンネリーゼを抱きしめ続けてくれていた。
あれは、悪夢ではない。アンネリーゼが見たのは、ごうごうと炎をあげる、トルクメニアの城。馬を駆けさせるアンネマリーに抱えられながら、アンネリーゼはそれを見ていた。
優しかった両親の遺体と、リゼットの替え玉になっていた少女が殺される光景。
夢からさめると、アンネリーゼはその記憶に蓋をして、燃える城のことも忘れていた。
森が燃えているのだとアンネマリーに訴えると、彼女は『悪い夢を見たのね、アンネリーゼ』と、辛そうに笑った。
ケイオスとアンネマリーは、全て忘れてしまったリゼットを守るため、優しい嘘をつき続けていてくれた。
リゼットは、アンネリーゼ・ワーグナー。
アンネマリーとケイオスの子として、育てられた。
「……パーシヴァル様、忘れてしまって、ごめんなさい」
「俺に謝る必要はない。アン、もう終わったんだ。忘れていい」
「でも、私……っ、お父様とお母様のことも、私の代わりに殺された少女のことも、忘れていました……っ、侍女のアンネマリーと護衛だったケイオスを、両親だと信じて……っ」
「そうするしかなかったのだろう。長きに渡り、トルクメニアはルドベキア三国連合に支配されていた。お前がリゼットで、リゼットが生きていると知られたら、必ず兵士が捕らえにやってくる。だから、二人はお前を守った」
「でも、私は……私は皆に迷惑をかけて、生きながらえました。皆、死んでしまったのに……っ」
どうしようもないやるせなさと罪悪感が、記憶が蘇ると共にアンネリーゼに襲い掛かる。
なにもかもを忘れて、平和を享受していたのだ。
アンネリーゼが生かされていた裏には、多くの人々の血と苦しみがあったというのに。
リゼットの身代わりになった少女のことを、アンネリーゼはよく知らない。
背格好の似ている少女がすぐに手配されたのだ。おそらく彼女は孤児かなにかだったのだろう。
他者の命を身代わりに、生きる価値など自分にはない。
アンネリーゼ──リゼットには、ただ殺される両親と少女を、隠れて見ていることしかできなかった。
「俺は、お前が生きていてくれて嬉しい。それだけでは、生きる理由にならないか?」
「パーシヴァル様……」
「今は、混乱しているだろう。何も考えずに、休め。大丈夫だ、俺がずっと傍にいる。離れたりしない」
「……っ」
後から後から、涙があふれてくる。
パーシヴァルは、アンネリーゼを抱きしめていてくれる。
その力強い腕の中で、アンネリーゼは失われた命を想い、無力さに打ちひしがれる。
それでも、彼の言葉だけは、生きるよすがのように微かな希望としてアンネリーゼの中に光をともしてくれた。




