小鳥たちの声
いつの間にか、エマがいなくなっていた。彼女はパーシヴァルを連れて駆けてくる。
ミドラー夫人の命令に従い、報告に行っていたのだろう。
「パーシヴァル様、レイチェル様がアンネリーゼ様を殺そうとしましたわ……! マリーシャが命じられて、薬を紅茶に混ぜましたの。彼女は罪の意識からか、自分で紅茶を飲んで……」
誤解を防ぐためにか、ミドラー夫人がすぐにパーシヴァルに状況を伝えた。
パーシヴァルがレイチェルの服の首を掴み持ちあげようとするのを、アンネリーゼは彼の腕にしがみついて制した。
今、レイチェルを締めあげたところで、マリーシャを助けることはできない。
「待ってください、マリーシャさんを助けるのが先です!」
「助ける必要はない。罪人だ」
「たとえ罪人でも、救える命は救います」
だが、どうすればいい。解毒剤はそれぞれの毒草によって違う。
マリーシャがなにを飲んだのかわからない以上、どの解毒剤を飲ませればいいのかわからない。
焦りが、アンネリーゼの喉の奥に渦巻いた。このままではマリーシャは死んでしまう。
なにもできず、その死を待つことしかできない。アンネリーゼの目の前で、命が失われてしまう。
マリーシャの呼吸が徐々に弱まってきている。
額にびっしり、玉のような汗をかいている。体温があるうちはまだいい。それは体が異物を排除しようとしているからだ。発熱もできなくなれば、ただ死をまつばかりだ。
『──ぎざぎさの葉。集めていた。紫色の、細いぎざぎざ』
ふと、誰かの声が頭に響いた。
小鳥たちが、アンネリーゼの周囲を飛び回る。何かを訴えるように飛んでいただけだった小鳥たちの声が、頭の中にはっきりと響いた。
それは愛らしい少女のような声だった。
何度も『ぎざぎざの葉』『紫』『白い花の葉』と、口にする。
アンネリーゼは驚きに息を飲んだ。
「どうした?」
「小鳥たちの声が、聞こえます。ぎざぎざの紫色で、細い葉、白い花が咲く……ムラサキアザミ……葉に、痺れを生じさせる神経毒があります。触る程度では数時間痺れるだけですが、口にすると、痺れが全身に広がって、数時間で死に至る……」
「アンネリーゼ……まさか……」
パーシヴァルはアンネリーゼの両腕を握り締めて、食い入るようにアンネリーゼを見つめる。
小鳥の声が聞こえたことに、彼も驚いているのだろう。だが今は、説明している暇はない。
毒の種類がわかれば、解毒薬は作れる。
ムラサキアザミは、シロツメアザミと間違えやすい。後者は薬草茶として飲まれるもので、間違ってムラサキアザミの茶を飲んでしまい、死に至る者がセゾンリーブスの街にもいた。
そのため、アンネリーゼは解毒剤をつくったことがある。
すぐに解毒剤を飲めば、一日熱を出す程度で症状が治まる。後遺症は残らない。
「フュリアさん、グズリの根を集めます。強力な解毒作用があり、ムラサキアザミの毒によく効きます。大丈夫、マリーシャさん、必ず助けます」
アンネリーゼはマリーシャを安心させるために、彼女の肩に手を置いて力強く言う。
「パーシヴァル様、お願いです、マリーシャさんをベッドに運んでください」
「お前の頼みなら」
「エマ、医師を呼んでいらっしゃい。わたくしは、パーシヴァル様と共にレイチェルを見張っておりますわ」
パーシヴァルがマリーシャを抱きあげ、ミドラー夫人が震えるレイチェルの腕を引っ張って白金宮の中に向かう。
アンネリーゼはフュリアと共に庭園の奥に向かい、雑草の中に顔を出している小さな青い花を持つグズリを抜いて根を集めた。
すぐに調理場に向かい、土を落とした根を細かく刻む。
すり鉢ですり潰すと、粘性のある液体に変わっていく。白湯と蜂蜜を混ぜて飲みやすくした解毒剤を持ち、マリーシャの元に急いだ。
マリーシャの寝かされている部屋には、使用人たちが集まっている。
ベッドで苦しげに息をしているマリーシャの傍に、眼鏡をかけた生真面目そうな男がいる。典医だと、フュリアがアンネリーゼに教えてくれる。
「ムラサキアザミの葉の毒を飲んだと聞きました。とても助かるとは思えません」
典医は諦めたように首を振る。アンネリーゼは彼に頷いてから、パーシヴァルを見あげた。
「解毒剤を作ってきました。マリーシャさんに飲ませてもいいですか?」
「あぁ。お前がそうしたいのなら、やってみるといい」
「ありがとうございます」
余計なことをしないほうがいいと典医は言ったが、アンネリーゼはマリーシャに近づいていく。
フュリアがマリーシャの体を抱えて起こしてくれる。
彼女にはまだ微かな意識があるのだろう、薄く目を開いた。恐怖と諦めと苦痛が綯交ぜになった虚ろな瞳に、アンネリーゼの姿が映る。
「マリーシャさん、飲んで。大丈夫、私を信じて」
「わたし、は……死に、ます」
「諦めないで。大丈夫、私があなたを助ける」
どくん、どくんと、心臓が悲鳴のような音をあげている。
目の前で人の命が失われることが、なにもできないことが、怖い。
両親を、救えなかったからなのか。それとも薬師としての己の矜持のためか。心が恐怖に蝕まれそうになる。だが、マリーシャはもっと怖いのだ。
アンネリーゼが怯えた顔を見せるわけにはいかないと、自分を叱咤する。
「頑張って、マリーシャさん。飲んで」
「……っ、……ん」
マリーシャの唇が、薄く開いた。スプーンですくった薬を、一口ずつ入れていく。
喉が動いて薬を飲み込むのを確認しながら、アンネリーゼは慎重に、カップの中に入れた解毒剤を全て彼女に飲ませた。
徐々に、マリーシャの呼吸が深く穏やかなものに変わっていく。
頬に赤みが戻る。彼女は静かに目を閉じて、眠りについた。
アンネリーゼはマリーシャの首に手を当てる。熱はまだ残っているが、命の危険は去っていった。
「──もう、大丈夫。熱が一日続きますから、あとは体を冷やしてあげれば、明日には元気になります」
「なんと、素晴らしい……!」
典医もマリーシャの体を確認したあとに、感嘆の溜息をついた。
部屋に、安堵の空気が満ちたのもつかの間、空気を切り裂くような悲鳴があがる。
パーシヴァルが剣を抜いて、レイチェルの首に突きつけていた。
「レイチェル、お前もお前の母と同じだ。今ここで、死ね」
部屋の空気が凍りつく。皆、微動だにできずにその場に立ち竦んだ。
レイチェルは床に膝をついて、幼い子供のように泣きじゃくりながら彼に許しを請う。
「い、嫌……っ、ごめんなさい、お兄様、ごめんなさい……っ、わたしはただ、お兄様がアンネリーゼにとられるのが嫌だったの!」
「俺はお前のものではない。お前のものだったときなど、ただの一度もない」
「だって、でも、私……っ、私の家族はお兄様だけだもの……っ、ごめんなさい、こんなことになるなんて思わなかったの、殺さないで……っ」
目の前で、人が殺されそうになっている。その光景に妙な既視感がある。
セゾンリーブスの森が、燃えている。その幻に再び襲われながら、アンネリーゼはパーシヴァルとレイチェルの間に体を滑り込ませる。
剣の前に立ちふさがり、レイチェルを守るために両手を広げた。
「アンネリーゼ……!?」
レイチェルが驚きの声をあげる。パーシヴァルは、アンネリーゼに向けることになってしまった剣を、すぐに降ろした。
「アン、そこを退け」
どこか困惑したように、彼は言う。
「退きません。パーシヴァル様、誰も傷つきませんでした。マリーシャは罪を犯す前に、自分で薬を飲んだのです。レイチェル様は私を追い出したかっただけです。私は彼女を許します。ですから、パーシヴァル様も──」
「許すことのできる罪ではない」
「私は……あなたの剣が、あなたの家族の血で汚れることを望みません。レイチェル様は幼くして、母を失くしたのでしょう。罪を犯した母の子として生きなくてはなりませんでした。きっと……レイチェル様は、孤独や苦痛を、我儘という形でしか外に出せなかっただけです」
頼れる人が、果たして彼女にいたのだろうか。
彼女を育ててくれたルーテは早逝し、パーシヴァルは戦争に行っていた。家族に甘えたい時期に、彼女の傍には誰もいなかったのではないか。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ、アンネリーゼ、私はあなたにひどいことを……っ、マリーシャのことも、脅したの、私が悪いの……っ」
「パーシヴァル様、お願いです。レイチェル様は、あなたの妹。私にとっても、家族になる人です。ですから……!」
泣きじゃくるレイチェルを、アンネリーゼは抱きしめる。
驚くほどに細く頼りない。まだ少女だ。間違えてしまうこともあるだろう。少なくとも彼女には、殺意などなかった。
ただアンネリーゼを、追い出したかっただけだ。
パーシヴァルはしばらく沈黙した。剣を鞘に戻すと、深く息を吐き出す。
「……わかった。アンがそこまで言うのなら。ただし、これでレイチェルを許すのはこれで最後だ。次になにか問題を起こしたら、そのときは」
「お兄様、もう二度と悪いことはしません。約束します。マリーシャにもアンネリーゼにもきちんと、謝罪をします。アンネリーゼ……ありがとう、お義姉様……」
レイチェルはアンネリーゼにしがみつくように抱きついて泣きながら震えている。
母をみつけた迷子の子のようにアンネリーゼから離れようとしないレイチェルに、アンネリーゼは優しく囁く。
「レイチェル様、もう、大丈夫。あなたは一人ではありません。手を出してください」
アンネリーゼは彼女の手の甲に、指で星を描いた。
アンネマリーが、アンネリーゼを安心させるためによく行ってくれたおまじないだ。
「怖いことはなにもない。星はあなたを見守っている。私もいつか星になり、あなたをずっと見守るでしょう」
「これは、なに?」
「おまじないです。魔よけの意味もあるのですよ。悪夢や怖いことから、あなたを守ってくれます」
「……うん。ありがとう」
やがて疲れ果てたのだろう、静かになった彼女を、ミドラー夫人が侍女たちに指示してどこかに連れていく。
フュリアは「あとのことは、私とハルザイン医師に任せてください」と、典医と共にマリーシャの傍に残った。
アンネリーゼは、パーシヴァルに促されて部屋を出る。
誰もいない二階の廊下までやってくると、彼はアンネリーゼの体を、唐突に、強引にその腕の中に閉じ込める。
骨が軋むほどにきつく抱きしめられて、アンネリーゼは僅かな痛みに眉を寄せた。
「無事でよかった。お前が、無事で。──アン」
空気の入れ替えのためだろう、二階のテラスに続く窓が開いている。
夕闇が迫っている。橙色の夕日を受けながら、宝石のように輝く小鳥たちがテラスに舞い降りてくる。
『リゼット、思い出した』
『リゼット』
『リゼット、聞こえている』
リゼット、リゼット。
そう、小鳥たちは言う。
──リゼット。
確かに、小鳥たちはアンネリーゼをそう呼んでいる。
それはパーシヴァルの大切な少女の名だ。どうして。その名は、いったい。でも、その名を──アンネリーゼは知っている。
アンネリーゼの記憶を、その声は頭の奥に閉じ込めて幾重にも鎖で縛り鍵をかけた箱を開くように、無理やりこじ開けていく。
「パーシヴァル様、私は……」
セゾンリーブスの森が燃える。
瞼の裏側で燃える森は徐々に形を成していく。それは森ではなく、城だ。
血だまりの中に、多くの死体が転がっている。そこには──アンネリーゼの両親の姿もある。両親だとわかるのに、彼らはセゾンリーブスの森で暮らした二人の顔をしていない。
『逃げますよ、姫様……っ』
『姫様、行きましょう』
そう言って、バルコニーに隠れて震えているアンネリーゼをケイオスが抱きあげる。アンネマリーは、剣を持っている。
お父様、お母様──と、大きな声を出そうとするアンネリーゼの口を、ケイオスが塞ぐ。
ケイオスはバルコニーから紐をかけて、眩暈がするほど高い場所から地上へとアンネリーゼを抱えて降りていく──。
「……っ」
嵐のような記憶の奔流に襲われて、アンネリーゼの意識はふつりと途切れた。
パーシヴァルが「アン!」と、必死に呼びかけてくれる声が遠くで響き続けていた。




