ミドラー夫人の勉強会
パーシヴァルに教育係をつけてほしいと頼んだ翌日、フュリアが四十歳程度の上品な女性を連れてやってきた。
丁寧にまとめられた金の髪に、華美ではないが年相応の華やかなドレス。赤い唇が魅力的な、優しげな女性だ。
「こちら、ミドラー夫人です。マダム・ミドラーとも呼ばれています。姫君たちの教育係を務めている、ランディス・デュリエラ宮内卿の母君です」
「はじめまして、アンネリーゼ様。今日からあなたの教育係を務めさせていただきます」
「はじめまして、マダム。よろしくお願いいたします」
アンネリーゼは、フュリアたちの所作をここにきてから眺めていた。
それに習い礼をすると、ミドラー夫人はあら、と意外そうな表情を浮かべる。
優雅な指先で顎に触れ、小首を傾げた。
「トルクメニアの森の中で暮らしていたとお聞きしましたが、ずいぶんと洗練されていらっしゃいますのね。もしかして、お城で暮らしたことがあるのかしら。薬師の腕を買われて、貴族のお屋敷に招かれていた経験がおありですか?」
「いいえ、生まれてからずっと森の中でした。今は、フュリアさんの真似をしました」
「それは素晴らしいですわ。なにごとも、見て真似ることが大切ですもの。陛下の寵愛を受けてその立場に甘んじているだけではなく、学びたいという姿勢は立派なものですわ」
にこやかに褒めてくれるミドラー夫人に、アンネリーゼは安堵した。
教育係という言葉には、威圧的で怖いような印象がある。けれど、ミドラー夫人は真逆だ。
「フュリア、同席をしてね。二人きりとなると、アンネリーゼ様もご不安でしょう」
「はい。陛下からもそう申しつけられております」
ミドラー夫人は、アンネリーゼを一階にある広間に連れていった。
何もない空間だが、壁には大きな鏡がはめ込まれている。鏡の前にアンネリーゼを立たせると、彼女はその隣に並んだ。
「陛下が夢中になるのも頷けます。銀の髪も白い肌も繊細で美しいのに、豊かな森のような生命力に満ちた方です。ですが、立ちかたをもっと工夫すると、さらに磨きがかかりますよ。顎を引いて、背筋を伸ばして」
「はい」
「そう、いいですね。では、私を真似て歩いてみてください」
午前中は、立ち振る舞い、歩きかた、礼の仕方などを、丁寧でありながら厳しく指導された。
フュリアは近くで、はらはらしながらそれを見守ってくれていた。
アンネリーゼが褒められれば微笑み、注意されると青ざめる。彼女の表情が変わるのは珍しい。
エマやマリーシャも、何事かと遠くからアンネリーゼの様子を眺めていた。
エマは優しく微笑んでくれたが、マリーシャはどこか浮かない表情で、アンネリーゼから視線を逸らすとすぐにその場を立ち去った。
「お疲れでしょう。お食事になさいますか」
フュリアに促され、食堂に向かう。ミドラー夫人と向かい合って食事をとりながら、食事のマナーも指導もされた。
食欲は長らくなかったが、パーシヴァルと話ができたことで心が軽くなったためだろう。
スープも魚も美味しく食べることができた。食事のマナーについても、そこまで難しいとは感じなかった。これは、母がしっかり教えてくれていたからだろうと、アンネリーゼは思う。
「今まで私は、三人の姫を指導しましたが、アンネリーゼ様が一番筋がいいですね」
「ありがとうございます、マダム」
「世辞ではなく、本当にそう思っているのですよ。もちろん、陛下が気に入るような女性ですから、なにか光るものをお持ちだろうとは考えていましたけれど」
午後になり、図書室に移動した。フュリアが紅茶を淹れてくれて、それをゆったり飲みながら、ミドラー夫人は貴族名鑑を広げる。
「まずは皇家についてからお話しましょう。ある程度は陛下からお聞きになりましたか?」
「はい。パーシヴァル様の御父上には、正妃様以外にも五人の奥様がいた、と」
「ええ。正妃ルーテは、ルーベンス公爵家出身で、とても心優しく繊細な方でした。わたくしの憧れでしたのよ。友人でもありました」
ミドラー夫人は懐かしそうに言う。そして、王家の家系図の頁を開き、ルーテの名を指で辿った。
「アンネリーゼ様は、失礼ですが、文字はお読みになれますか?」
「はい」
「まぁ、それは素晴らしいですわ。ラングフォード皇国でも識字率はまだ低いのです。民は、貴族のような教育を受けられない場合がほとんどですから」
「両親が、教えてくれました。なにが起こっても困らないように、と」
「素晴らしいご両親でしたのね」
アンネリーゼは微笑んで、頷いた。
「ルーテ様は、今はどちらに……」
「身罷られてしまいました。六年前です、陛下の即位を待たずにご病気になって。前皇帝がご病気で亡くなって、後を追うように。ルーテは……陛下を愛していたのでしょうね」
側妃を五人も作るような夫でも愛していたのだろうかと、アンネリーゼは疑問に思う。それが顔に出てしまったのだろう、ミドラー夫人はころころと笑った。
「皇帝の仕事は、子を多く残すことでもありますのよ。ですから皇帝は側妃を置きます。アンネリーゼ様がどう思われたかはわかりませんが、側妃を置くことは皇帝としての責務でもありますわね」
「そうなのですね……」
「ええ。女とは、とても生き辛いものですわ。けれど、陛下の寵愛を疑う必要はありませんのよ」
「ミドラー夫人」
フュリアが咎めるような口調で、夫人を呼ぶ。彼女は困ったように眉を寄せて、扇で口を隠すと笑った。
「フュリア、余計なことを、というのはわかります。ですが、アンネリーゼ様は私たち貴族と違い、そういった知識がないのですから、伝えておいたほうがいいのですわ。もし、陛下のお心が離れてしまったとき、傷つかずにいられるでしょう」
「陛下がお怒りになります」
「ルーテも、陛下を信じておりましたわ。でも、結局は……より優秀な男児をと、パーシヴァル様と比べるために、陛下は違う女と多くの子を作ったのです」
「……それは、残酷な話ですね」
アンネリーゼは思わず呟いていた。
そこにあるのは愛ではなく、優秀な子孫を残すという皇帝の責務だけだったのだろう。
フュリアは悲しげに目を伏せ、ミドラー夫人は何度かルーテの名を指で辿る。
「わたくしは、ルーテの助けにはなれませんでしたわ。一度輿入れした以上、離縁などできるはずもありません。ましてや、ルーテはパーシヴァル様を産んでおりますから。ですが、側妃たちの中には野心を抱く者がありましたの」
「野心を……?」
「ミドラー夫人。アンネリーゼ様を怖がらせるような話はするなと、陛下がおっしゃっていたと記憶しています」
「フュリア、いつかは耳に入ることですわ」
ミドラー夫人は、それぞれの側妃の名を指し示した。
パーシヴァルから、五人の異母弟妹の名をアンネリーゼは聞いている。そこには、その名とそれぞれの母の名が書いてある。
「誰がそれをしたのかはわかりませんが、ルーテとパーシヴァル様の住まわれていた蒼月宮の毒見が死にましたの。食事に毒が混じっていたのですわ。ルーテとパーシヴァル様は、ですから一時期、トルクメニアに避難しておりましたのよ」
「トルクメニアに?」
アンネリーゼは驚いた。彼はトルクメニアに住んでいたことがあった。
けれどアンネリーゼはそれを聞いていない。毒と聞いて、アンネリーゼが怯えるのを避けるためだったのかもしれない。
「ええ。幼いころの話です。まだ九歳か、十歳だったかしら。今から十年以上も前のことです。ルーテたちが一年ほど避難している間に、レイチェル様の母君がそれをしたことが判明して、彼女は処断をされましたわ。レイチェル様は、城に戻ってきたルーテが引き取りましたのよ。一人になったレイチェル様を、放っておけなかったのですわね」
ルーテとはとても優しい人だったのだろう。
確かにレイチェルは、パーシヴァルによく懐いているようだった。本当の兄のように彼を慕っているが、パーシヴァルは彼女に冷たかったように思う。
「レイチェル様はまだ十六歳。子供ですわ。我儘で、苛烈なところがあって、わたくしも手に負えないときがありますの。誰かに甘えたいのでしょうけれど」
つまりレイチェルは、十歳にも満たない年齢で母を亡くしたのだ。
甘えたい時期には、傍に誰もいなかったのだろう。ルーテはいたのだろうが──己を殺そうとした女性の娘を、心から愛せるわけではないだろう。どんなに、彼女が優しい人であっても。
「ニコル様の話は……」
「パーシヴァル様から、聞いております」
「それは、驚きましたわ。パーシヴァル様はあの話を、語りませんのよ、誰にも」
ミドラー夫人は、貴族名鑑を閉じる。アンネリーゼはそれを借りることにした。
自分でも読んで、少しでも覚えたい。
「全て覚える必要はないのですよ。なにも知らないよりは、多少知っていたほうがいいという程度ですから」
「はい。薬草を覚えるのは得意です。きっと、人の名も同じように覚えることができます」
「まぁ、ふふ」
ミドラー夫人はにこやかに笑い、それから「また明日」と言って立ちあがろうとした。
だが、額に手をあてると再び座り込んでしまう。
「大丈夫ですか、マダム……!?」
「ミドラー夫人……!」
アンネリーゼは慌てて彼女を支える。反対側からフュリアも夫人の細い体を支えて、椅子から崩れ落ちないようにする。
彼女は冷や汗をかいている。体温も冷たく、その体に触れるとアンネリーゼが考えている以上にやせ細っている。
「ごめんなさいね、大丈夫よ。最近、よく眩暈がするの」
「夫人、もしかしてあまり食べることができていないのではないですか? 夜はよく眠れていますか?」
「今年の夏は、暑かったでしょう。だから食が細くなってしまって。それにルーテを失ってから、あまりよく眠れないの」
アンネリーゼの質問に、夫人は弱弱しい声で答えた。
セゾンリーブスでも同じような症状を訴える人が、夏から秋にかけては増えた。暑さにやられて食が細り、夏の間か秋の始まりに衰弱してしまうのだ。
それに加えて、夫人は不眠も訴えている。それほど、夫人にとってルーテとは大切な友人だったのだろう。
「私は森の魔女と呼ばれていました。それは、森の草木で薬を作り売っていたからです。もしよろしければ、私の作った薬を飲んでみてはくださいませんか? 人は食べないと、どんどん衰弱して死に至ることもあります。それはとても、怖いものです」
「ありがとうございます、アンネリーゼ様。ラングフォードの医師はどこも悪くないといいますのよ」
「眠れないのは心の病、食事がとれないのも、そちらからきているかもしれません。心を穏やかにしてよく眠ることができる香木があります。胃腸を元気にさせる薬と、それから、食事の代わりになる栄養価の高い薬もおつくりします」
得体のしれない女の作った薬など、夫人は飲まないと言うかもしれない。
それはわかっていたが、ほうっておけなかった。
長く、薬師をしていたのだ。目の前に倒れそうな人がいるのに、なにもしないなんて、とてもできない。
「わかりました。ありがたくいただきますわ。でしたら、フュリアに届けさせてください。彼女は私の姪なのですよ」
「そうなのですか?」
「はい。私の母が、ミドラー夫人の……ミドラーおばさまの妹なのです」
「おばさまだなんて、嫌だわ」
冗談めかしてミドラー夫人は言って、フュリアに支えられながら立ちあがる。
アンネリーゼも彼女を支えて歩いた。玄関で見送るころには、夫人の眩暈はおさまり、もとの姿勢のいい上品な姿に戻っていた。




