喪失への恐怖
◇
アンネリーゼの柔らかな膝から顔をあげると、パーシヴァルはその華奢でありながら肉感のある女性らしい体を抱きしめた。
いつも、壊してしまいそうだと感じる。同時に、壊してしまいたいとも思う。
蜜のように甘くパーシヴァルを誘う、きめ細やかな透き通るような白い肌も、涼しげでありながら甘く響く声も、新雪のような銀の髪も──全て。
彼女の神秘的な湖のような蒼い瞳が、自分以外の誰も映さなくなるように。
『パーシヴァル様、セゾンリーブスという場所が辺境にはあるのです。そこは深い森で、森の奥に入りこんだら二度と戻ってこれなくなるそうなのですよ』
そう、どこか得意げに教えてくれたリゼットの、拙い声を今でも鮮明に思い出すことができる。
もう二度と言葉を交わすことも、触れることもできない。
彼女はパーシヴァルにとって、何にも代えがたい大切な人だった。
リゼットがいたから、パーシヴァルは生きていられる。
けれど──失ってしまった。守ることもできず、なにもできずに。彼女の命は暴虐に奪われてしまった。
その最後さえ、パーシヴァルはよく知らない。
そんなリゼットが口にしていたセゾンリーブスの大森林で、パーシヴァルはアンネリーゼに救われた。
髪の色も瞳の色も同じ。記憶の中のリゼットは幼い姿だが、成長したらきっとアンネリーゼのようになっていたのだろうと思ってしまうぐらいに、アンネリーゼはリゼットに似ていた。
年齢も同程度で、セゾンリーブスについて説明する口調も幼い頃のリゼットを彷彿とさせる。
──リゼットではないかと、本当に疑っていたのだ。
その死は何かの間違いで、名を変えて身分を隠して暮らしていたのではないか、と。
だから傍にいた。リゼットかどうか、確かめるために。
足の怪我は確かに痛んだが、あの程ならばすぐにセゾンリーブスを発つことができただろう。
それをしなかったのは、アンネリーゼの傍にいるためだった。
彼女はリゼットではないと、落胆ともに認めてからも──傍にいた。
ただの兵士と偽り彼女の傍にいるのは心地よかった。よく動く彼女を見ているのも、気兼ねなく微笑みかけてくるリゼットに似たその顔も、甘い声も、時折触れる柔らかい体も、パーシヴァルの心の中に軽々と入りこみ、いとも簡単に棲みついた。
下着さえ身につけずに薄布一枚を纏って寝起きの無防備な姿を晒すアンネリーゼの危機感のなさに多少の憤りを感じるぐらいには、彼女に惹かれていた。
なにかを美味しいと感じたのは、リゼットを失ってからはじめてだったのだ。
あたたかい食事は、手をつけなかった。そこにはおぞましい記憶がある。
だがアンネリーゼの手料理はすんなりと口にすることができた。
命の恩人だというのに責めるように乱暴な言葉を投げかけてしまった、反省もあったかもしれない。
死んでもよかった──と口にしたときに、素直に怒りをぶつけてくれる彼女の清らかさが、眩しかったからかもしれない。
彼女の作るスープは空腹を満たし、長い間忘れていたなにかを取り戻してくれるようだった。
だから、怪我が痛むふりをして、傍を離れなかった。立場を隠し、嘘をつき続けて。
このまま──名もなき兵士として生きたいと、思ってしまうほどに。
セゾンリーブスの街でアレックスがアンネリーゼに求婚したとき、激しい嫉妬を感じた。
幾度か、彼女を抱きたいと考えたことはあった。そんな欲望が自分の中に残っていたことに驚いたぐらいだ。そんなものは、リゼットの死と共に失せてしまったのだと思い込んでいたのに。
だから──手を伸ばした。
伸ばした手を拒絶されていたら、あの場から去ろうと考えていた。
アンネリーゼは、伸ばした手を受け入れてくれた。
はじめて知った女性のぬくもりに、アンネリーゼの与えてくれる心が蕩けていくような幸福に、心の奥に抱えていた怒りと憎しみと絶望が、ひとときの間消えていった。
彼女がいてくれるのならば、生きていけるかもしれないと、思えたのだ。
その翌日に、冷たい拒絶が待っているとも知らずに。
『リゼット……』
そう呟いてしまったのを、聞かれていたとは思わなかった。
アンネリーゼの拒絶のはじまりは、己のせいだ。それに気づかずに、その心を蹂躙するために欲望を全てぶつけた。
アンネリーゼはパーシヴァルの嘘に気づいた。血の皇帝パーシヴァル・ラングフォードを、彼女は受け入れたくなかったのだろうと思い込んだが、どうやらそれは違うらしい。
ならば、アンネリーゼはたった一度きりの情を与えて、パーシヴァルを手放そうと考えていたのだ。
そんなことは、させてやらない。
罪を自覚しながらも、彼女の身も心も支配するのは心地よく、彼女は逃げることができないのだと、失わなくていいのだと感じることができて、ひどく満たされた。
あんなことをしたのに──アンネリーゼはパーシヴァルを許し、優しくその腕に抱いて髪を撫でてくれる。
その体を抱きしめると、罪悪感がせりあがってくる。
残酷なことをした。それでも、そこにあるのは後悔ばかりではない。
首を擡げてくる欲望から目をそらしながら、パーシヴァルはアンネリーゼの白い首に唇を落とした。
甘えるように体を擦りつけてくれるアンネリーゼが、壊してしまいたくなるほどに、愛しい。
『兄様、ごめんなさい……っ、たすけて、母様を殺さないで……っ、許して……っ』
血の粛清の話を誰かにしたのは、はじめてだった。
末の弟は、年齢よりも心が幼かったように思う。末弟の母は、男児を生んだことから野心を抱いた。
パーシヴァルよりも自分の息子を皇帝に──と、父に囁いていたようだが、父は頷かなかった。あれには能力がないと、はっきり口にしていた。名を呼ぶこともしないほどに、興味がないようだった。
パーシヴァルは、そんな弟を哀れに思っていた。
父は優秀な血を残すために、それぞれ違う女に子を産ませた。
そこに愛などはない。子を、チェスの駒のように考えていた。優秀さを示さなければ、名さえ呼んでもらえない。
パーシヴァルは、あんなことになる前に弟の相手を時々してやっていた。
可愛らしい子どもだった。『にいさま』と、懐いてくれる、素直な──。
その素直で幼い弟は、彼の母と権力を手にしたい貴族たちの傀儡となってしまったのだ。
『──兄様、許して』
最後までそう口にしていた弟に、かけてやる言葉はみつからなかった。
ただ、リゼットと、生きたかった。
それだけだったのに──なにもかもを、誰かがパーシヴァルの手から奪っていく。
だから、アンネリーゼだけは。
誰にも、奪わせない。
たとえ彼女がパーシヴァルを拒絶しても、その手に手枷をつけてでも、足枷で自由を奪ってでも──失いたくない。
パーシヴァルの腕の中で穏やかな寝息をたてはじめるアンネリーゼの髪に、唇を落とす。
リゼットを忘れることなどできない。
約束をなにひとつ果たせず、彼女はパーシヴァルの手の届かないところにいってしまった。
「アン、お前は……俺の傍に、いてくれ」
だが、今は──アンネリーゼのぬくもりが、愛しい。
容姿が似ているだけの違う人間だとわかっている。
彼女の立場では、パーシヴァルの立場は負担にしかならないと、理解している。
それでも、手放したくない。




