もういない人
「アンネリーゼ様、どうなさいました?」
「どちらにいかれるのですか」
マリーシャとエマがすぐにやってきて、アンネリーゼの後を追う。
アンネリーゼは足を止めると、彼女たちに微笑んだ。それはここにきてからはじめて見せる表情だ。アンネリーゼはずっと、悲しみに瞳を曇らせて俯いてばかりいた。
そんな態度では、彼女たちも不安になるはずだ。
アンネリーゼは、森の魔女と呼ばれていたのだ。
なにも持たない女だが、ひとりで生きてきたという自信さえ失うべきではない。
「庭園を散策したいのです。遠くにはいきません。生まれてからずっと、森で暮らしていました。だから、植物が恋しくて」
「それは、いけません。外には出さないようにと、皇帝陛下に命じられています」
「アンネリーゼ様、どうか困らせないでください」
「逃げたりはしません。それができないことは、よくわかっています。庭園の薔薇を見るだけです。あなたたちは、私の我儘をきいただけ。責任は私がとります」
「ですが……」
困り顔のエマに、マリーシャが明るい声で言う。
「それなら、いいんじゃないですか、エマさん。アンネリーゼ様がそうしたいと言ったのです。私たちはなにも見なかったということにしましょう」
「でも、マリーシャ」
「フィリアさんにも内緒に。このままでは、アンネリーゼ様は息苦しさにご病気になってしまいますよ」
マリーシャに説得されて、エマはしぶしぶ頷いた。
彼女たちがそれとなく見張りをする中、アンネリーゼは「ありがとう」と礼を言い、扉を開き外に出る。
久々の──外の光だ。夕方の優しい日差しと、冬の気配がする冷たい空気がアンネリーゼを包み込む。
大きく息を吸い込むと、体に纏わりついていた閉塞感が消えていく。
どんな場所であっても、空は同じ色をしている。
優しい日暮れの庭園では、薔薇の花々が橙色の光を受けている。
濃い花の匂いがする。小鳥たちがどこからか舞い降りてきて、アンネリーゼの傍を跳ねた。
「あなたたち……」
セゾンリーブスにいた、小さな鳥たちだ。アンネリーゼは驚きながら、小鳥たちに手を伸ばす。小さな命がアンネリーゼの腕や肩に乗ってきてくれる。
「ここまで、飛んできたの?」
そうだと言わんばかりに、小鳥たちは翼を広げて囀った。
アンネリーゼはひとりではなかった。森には様々な生命があふれている。いつも共に暮らしていたのだ。
小鳥たちは庭園が気に入ったのか、薔薇の生垣の周りをぴょこぴょこと小さな足で跳ねている。
アンネリーゼはその光景をしばらく見つめていた。
日が落ち始めたころ、背後から足音が聞こえる。振り向くと、そこには感情を失くしたように表情のないパーシヴァルがいた。
アンネリーゼは息を呑んだ。それから、胸に軽く手をあてて礼をする。声をかけようと口を開く前に、パーシヴァルに腕をきつく掴まれる。
彼はアンネリーゼを、城の中に引きずり戻そうとする。
「戻るぞ、アン。外出は許可していない」
「逃げたりしません。外の空気を吸いたかったのです」
「侍女たちはどうした」
怒気を孕んだ冷たい声音だ。いつものアンネリーゼなら怯えて、声を出すことができなかっただろう。
けれど、それではいけない。自分の道は自分で切り開いて、歩いて行かなくては。
誰かに支配され流され続けていると、己の不幸さえ誰かのせいにしてしまう。
「一人にしてくれと、私が頼みました。我儘を言いました。私に責任があります。でも……あなたにも、咎がある」
アンネリーゼはパーシヴァルの手に、自分の手を重ねる。
いつから彼と、まともに会話ができなくなってしまったのだろう。
二人で暮らしていたときは、ごく自然に、優しい時間を過ごしていた。それを歪めてしまったのはアンネリーゼであり、そして──パーシヴァルの嘘だ。
「──お前をここに連れてきて、犯した。己の罪ぐらいは自覚している」
そうではないのだ。アンネリーゼは優しく触れていた彼の手を、ぎゅっと握り締める。
自嘲気味に笑う彼を、強い光を宿した瞳で見据える。
はじめから──怖がらずに、口にしていればよかった。
今日の天気を語り合うのは簡単なのに、大切なことを口にするのはとても難しい。
それが誰かの内面に深く入り込むような質問なら余計に。こんなことを口にしていいのか、傷つけてしまうのではないか、嫌われてしまうのではないか。
そんな疑問や不安が、唇を硬く閉ざしてしまう。
でも、それではなにも変わらない。この爛れた毎日を繰り返していれば、アンネリーゼは狭い箱に閉じ込められた鳥のように衰弱して、死んでしまう。
「あなたには、大切な人がいるのでしょう」
両手で彼の手を握り、正面から向き合う。
陰りのある緋色が、アンネリーゼの真意を探るように、目をそらさずにアンネリーゼを見つめ返した。
「リゼットと、あなたは呼んでいました。あなたの、忘れられない人ですか?」
声が震えないように気をつけて、アンネリーゼは口にする。
パーシヴァルは息を飲んだ。横面を唐突に叩かれたように、目を見開く。それからアンネリーゼの手を引き寄せる。救いを求めるように、彼はアンネリーゼを抱きしめた。
それはアンネリーゼの官能を高めるような触れかたではない。
純粋な、親愛の情を感じる。
「──いつ、それを俺は口にした?」
「はじめて、あなたが私を愛してくれた夜に」
「……あぁ、そうか」
彼は静かな口調で言う。そして、心に溜まっていた澱を吐き出すように、続けた。
「彼女はもう、いない。幼いころに、死んでしまった。大切だった人だが、俺は彼女を守ることができなかった」
「……なにがあったのですか?」
「命を奪われたのだ。戦争でな」
パーシヴァルはアンネリーゼから体を離した。
アンネリーゼの顔を、包み込むようにして両手で撫でる。
「お前は、彼女に似ている。だから……森でお前に救われたとき、驚いた。アンネリーゼという名は嘘で、リゼットなのではないかと疑うほどに」
「いいえ、私は……」
「あぁ。お前はアンネリーゼだ。似ているが、違う」
もしかしたら彼の執着は、アンネリーゼではなくアンネリーゼの体を通してリゼットに向けられているのではないか。
彼はずっと、リゼットを求めている。もう、この世にいない人を。
「パーシヴァル様。……話してくださって、ありがとうございます」
リゼットの名を呼ぶとき、彼の表情には痛みが走る。
それほど深く、彼女を失った記憶は、彼の傷になっている。その魂さえ、傷つけるほどの愛を、彼はリゼットに向けていたのだ。
話したくはなかっただろう。語ることで、傷が広がる。それが傷だったと思い知ることになる。
「名を呼んでくれるのか」
「はい。……私は自分が、あなたに相応しいとは思っていません。けれど、あなたが望むのならば、傍にいます」
アンネリーゼと同じように、彼もまた孤独だったのだろう。
なによりも大切なものを失い、面影をアンネリーゼに求めてしまうぐらいに──長く深い苦しみの中にいた。
パーシヴァルはアンネリーゼを優しく引き寄せる。
銀の髪に顔を埋めて「傍にいてくれ」と、懇願するように囁いた。




