たとえ憎しみであっても
「──部屋は、気に入ったか?」
不意に声がして、アンネリーゼは振り向く。
部屋の扉がいつの間にか開いていた。
アンネリーゼの元にやってくるパーシヴァルは簡素な服から、本来の立場の姿に着替えている。首回りに毛皮のある重厚感のあるマントに、金の飾りに縁どられた軍服。ところどころあしらわれた派手過ぎない小さな宝石。
気品と威厳のある服装に引けをとらない体躯と、精悍であり怜悧で威風堂々とした美貌。
血の皇帝という名にふさわしい姿の彼に、アンネリーゼは一瞬見惚れた。
吟遊詩人の詩の中に出てくる、姫君を救う王子様のようだ。だが、それよりもずっと彼は──その前に立つと足が竦んでしまうほどの威圧感があり、恐れているわけではないのに単純で原始的な畏怖を感じる。
胸が疼くのは、恋をしているからだ。暴虐に攫われても、ひたすらに甘い責め苦を与えられても、胸に巣食う気持ちはどうしても消えていかない。
アンネリーゼは唇を引き結び、恋心を追い出そうと努力した。
「アン、足りないものはないか? 不自由をしているのならすぐに言え。侍女たちの態度は問題なかったか? お前を……俺以外の者が傷つけるのは、許せない」
「……私を閉じ込めて自由を奪っても、あなたにはなにひとつ利点がありません」
「つれないことをいう」
彼は背後からアンネリーゼを腕の中に閉じ込めるように抱きしめる。
窓に二人の姿が映る。アンネリーゼは視線を逸らした。
「そのドレスも似合っている。お前のために、似合いそうなものを作らせている。宝石も靴も、なにもかも。お前が望むものを与えよう」
「そんなものはいりません」
「薬草畑が恋しいか? あれは運ばせよう。お前の大事なものだろう」
アンネリーゼは首を振る。彼は背に流れる髪を避けて、細く白い首筋を露わにさせると唇を落とした。
ドレスの大きく開いた背中には、肩甲骨が剥き出しになっている。その骨の上の皮膚に軽く歯をたてられて、アンネリーゼはふるりと震える。
「ほかになにか、運ばせたいものはあるか? どの道、お前は俺の元から逃げることなどできない。諦めて、素直に口にしたほうがいい」
逃げられないという事実が、アンネリーゼの心にすとんと落ちてくる。
きっと、そうなのだろう。
パーシヴァルがアンネリーゼを捨てようと思わない限りは、ここに居続けることになる。
きっと、そのうち飽きる。
彼には本当に愛している人がいるのだから。
命を助けたアンネリーゼに情があるのかもしれない。森で暮らす女が珍しいだけ。だから──と、心の中で繰り返す度に、虚しさがせりあがってくる。
逃げられないのならばせめて──セゾンリーブスに置き去りにしてしまった大切なものは、傍に置いておきたい。
「父と母の、形見を」
「あぁ。他にはないか?」
「……でしたら、私の部屋にある、ぬいぐるみを。羊の形をしています。私が幼い頃に、母が作ってくれたものです」
アンネリーゼのなにもない部屋の机の上に、それは唯一置かれている子供用の玩具だ。
悪夢を見て怯えるアンネリーゼに、アンネマリーが作って渡してくれたもの。
幼い頃は肌身離さず持っていた。ある程度の年齢までは、一緒に寝ていた。
今はさすがにそんなことはしない。あの羊はきっと、置き去りにされて寂しがっているだろう。
『どうか、私だと思って大切にして』
アンネマリーも亡くなる間際、ひとり残してしまうアンネリーゼが心配だったのだろう。そんなことを口にしていた。
アンネリーゼの大切なものは、それぐらいしかない。
あの羊の中には、アンネリーゼの宝物が入っている。高価なものだから、あの中に隠してある。
失いたくない、両親の形見と同じぐらいに大切なものだ。
「わかった。それも、運ばせよう。……魔女のドレスは必要か?」
「……顔を、隠す必要がありますか?」
「隠すことはない。お前は美しい。そしてもう一人ではない。たった一人で、森の中で息をひそめて生きるような生活は、もう終わりだ」
顔を隠していたのは、身を守るためだった。
そう両親に言われたからだ。けれど、アンネリーゼはもう森の魔女ではない。
その事実を眼前に突き付けられたようで、ひどく息苦しい。
「……戻りたいです、陛下。お願いです、帰らせてください」
「アン、俺を憎み、嫌うがいい。お前から与えられる感情ならば、それが憎しみであっても心地いい」
抑えきれない苛立ちを滲ませた声が、耳朶を舐める。
パーシヴァルはアンネリーゼを抱きあげると、ベッドに横たえる。
ベッドの上で身を捩り逃げようとするアンネリーゼの腕を一つにまとめると、首のタイをするりとほどいて縛りつけた。
「なにをなさるのですか……っ」
「子を作る。お前の役目はそれだけだ。誰にも文句は言わせない。小うるさい貴族どもにも、そしてお前自身にもな」
冷酷な事実が、心を雁字搦めに縛りつける。
パーシヴァルは薬師としてのアンネリーゼさえ求めていない。
彼は──まるで物のように、アンネリーゼを扱おうとしている。
森の中での皇帝という立場を隠していた彼は、こんなことを言う人ではなかった。頑なな拒絶が、彼の怒りを煽ってしまったのだろうか。
好きだと伝えて甘えることができたら、どんなに楽だろう。アンネリーゼがラングフォードの貴族の出身だったらそれも容易かったはずだ。
けれどそうではない。なにも持たないトルクメニアの女が、彼の傍にいるわけにはいかない。
このままここで、彼の──慰み者として、生きていくことはできない。
「お願いです……離してください」
アンネリーゼの何度目かの拒絶の言葉を聞いて、パーシヴァルは酷薄な笑みを浮かべた。
心に獣のような怒りを飼っている。そしてそれは、アンネリーゼに向けられている。
ごめんなさいと謝りたいのに、喉の奥に言葉がひっかかって、なにひとつ出てこない。
「いつまでそうして拒絶できるか、見ものだな。婚礼をあげるころには、お前の腹には命が宿っている。そうすれば、逃げようとさえ思わなくなる」
「どうして、そんなことを……」
「わからないのか?」
嘲るように彼は口にする。
これが、愛情だとでもいうのだろうか。
その心には別の女性が住んでいるのに。
リゼットは誰かと、アンネリーゼは尋ねようとした。心を奮い立たせて。己が傷つく結果になったとしても。
知りたい。それに、知るべきだ。そうしないと前に進めない。
けれどアンネリーゼが口を開く前に──彼は、腰にさしている短剣を抜いた。
アンネリーゼの胸に、短剣の切っ先があたる。短剣はバターを切るように簡単にドレスを引き裂いた。
「……っ」
白刃が向けられる恐怖に身が竦む。皮膚が傷つけられることはなかったが、それでも肌の上を切っ先が滑るようでおそろしい。
蛹から蝶が孵化するように白い肌や豊かな胸が露わになる。
パーシヴァルはナイフを鞘に戻した。自分は一切脱ぐことなく、アンネリーゼの柔肌に手を這わせる。
両手は拘束されている。それ以外も、見えない鎖で縛られているようだ。
──こんなことをされているのに、彼が嫌いになれない。
ひた隠しにしようとしている思慕が剥き出しにされてしまう。彼のぬくもりに反応すればするほど、心も熱に浮かされるように彼を求めてしまう。
愛して欲しい、なんて。思ってしまいそうになる。
どんないいわけをしても、離れなくてはいけないと考えていても、彼を前にしては覚悟も決意も消えてしまう。そんな自分が、情けない。
どうして感情は自分の思い通りにならないのだろう。
いっそ彼が言うように、彼を嫌い憎むことができたら、どれほど楽なのだろうか。
夜が白むまで、彼はアンネリーゼをその腕に抱いていた。
彼の子ができたら、ひとりで育てようと──彼との決別を決意したときのアンネリーゼは考えていた。
今は、その決意さえへし折られたかのように、なにも考えられない。
アンネリーゼは彼のために生きる、子を産むためだけの道具だ。
夜明けの白い世界で、パーシヴァルの腕の中でまどろみながらぼんやりと考える。
けれど、そう断じてしまうには、彼の手は優しすぎる。
絶望と諦観に浸れないほどに──求められると、喜びさえ感じてしまう。
(私は……あなたが、好き。だから、こんなことはいけないのに)
一夜の夢だけでもいいと思った。その甘えが、そもそもの間違いだったのだろう。
「アン、俺が戻るまでいい子にしていろ」
日がすっかり昇るまで眠り、アンネリーゼの唇に触れるだけの口づけをして、彼は起きあがる。
身支度を整えて出ていく後ろ姿を見送り、アンネリーゼは縛られていた手首をさする。
手首に残る赤い跡は、鉄の鎖のようにアンネリーゼを拘束し続けていた。
不必要なことはなにも口にしない侍女たちと、夜には動けないほど激しくアンネリーゼを支配するパーシヴァル。
それだけが、アンネリーゼの世界の全てになった。
自由はない。だが、不自由もしていない。
ここに連れてこられてから数日。
鳥籠の中で快楽だけを与えられる毎日に、なにかを考えることさえ難しくなってしまいそうになる。
「アンネリーゼ様、何か欲しいものはないですか?」
「いいえ、なにも」
「ラングフォードの菓子などはいかがでしょうか。この季節は桃のタルトがとても美味しいのですよ」
「ごめんなさい、今は……食欲がないのです」
フュリアと共にアンネリーゼの世話をしてくれている若い侍女のマリーシャが、窓辺に座って外を眺めているアンネリーゼににこやかに話しかけてくる。
食欲はなく、心も沈んでいくばかりのアンネリーゼがそう答えると、彼女は曖昧な笑みを浮かべてさがっていった。
「皇帝陛下の寵愛を受けているのはわかるけれど、あの調子で大丈夫なのかしら」
「余計なことを言うものではないわ、マリーシャ。皇帝陛下のお怒りを受けるわよ」
「血の粛清の二の舞はごめんよ。でも、アンネリーゼ様のあの態度。……心配だわ」
アンネリーゼの部屋を退室したマリーシャと、年配の侍女エマの話し声が聞こえる。
マリーシャの危惧はもっともだ。このままではいけないことも、アンネリーゼにはよくわかっている。
「アンネリーゼ様、カモミールティーをご用意しましたよ」
塞ぎこんでいるアンネリーゼを心配してか、午後になりフュリアがやってきた。
昼食もほとんど残してしまった。
セゾンリーブスが恋しい。
そして、変わっていく自分に戸惑っている。
心は痛んでいるのに、パーシヴァルの姿を見ると支配への期待に体が疼くようになっている。淫らなだけの女になっていくことが、怖い。
「ありがとうございます、フュリアさん」
「いえ、お気になさらず」
「あの……」
いつものようにすぐ退室しようとするフュリアを、アンネリーゼは呼び止めた。
ここは外界から遮断された場所だ。外のことはなにもわからず、情報さえ入ってこない。
ごく稀に、若いマリーシャがアンネリーゼに対する愚痴をこぼすことがあったが、それ以外の者はパーシヴァルの命に従う人形のように。余計なことを口にしない。
ならば、自分から尋ねなくては。帰ることができないとしても、自分で考えて自分で選択したい。これから、どうすればいいのかを。
「フュリアさん、お尋ねしたいことがあるのです」
「……はい、なんでしょうか」
フュリアの表情に、一瞬戸惑いが走った。
パーシヴァルから個人的に話すことを禁じられているのだ。けれど彼女ははじめから、アンネリーゼに同情的だった。
アンネリーゼから話しかけるのははじめてのことだ。彼女は退室しようとしていた足をとめ、アンネリーゼの元に戻ってきてくれる。
「皇妃様は、私のことを憎んでおいでですか?」
リゼットという名は出さずに、アンネリーゼは尋ねる。
さぞ、嫌われ憎まれているだろう。リゼットの心痛は考えるに余りあるものだ。
長らく不在にしていた夫が、得体のしれない若い女を連れ帰って、幽閉し寵愛している。
そんなことをされたら、リゼットが皇妃であれ彼の婚約者であれ、胸がつぶれるような思いを味わっているだろう。
一瞬の沈黙が、部屋を支配する。
フュリアはアンネリーゼを見つめながら、訝しげに首を傾げる。
「アンネリーゼ様、その話は誰から? まさか侍女の誰かが、あなたになにか吹き込んだのでは」
いつも丁寧で物静かなフュリアが一瞬殺気立った。
アンネリーゼは驚き、慌てて首を振る。誰も、そんなことはアンネリーゼに言っていない。
噂でも、聞いたことはない。アンネリーゼはただ知っているだけだ。パーシヴァルが『リゼット』と、愛しげに呟いていたことを。
「アンネリーゼ様は、陛下のことをあまりご存じではないのでしょうか」
「……はい。陛下は、私が助けたときは、ラングフォードからトルクメニアに派遣されたただの兵士だとおっしゃっていました」
「なぜ、そんなことを」
「知られたくなかったそうです。血の皇帝と、呼ばれているから……私が怯えることを心配したのだと思います。それに、身分を知られるのは危険なことでしょうから」
それはアンネリーゼも同じだ。人前では顔を隠していた。パーシヴァルが身分を隠していた理由はわかる。責めることもできない。
フュリアはどこまで話すべきかと思い悩むように、しばらく目を伏せていた。
それから、覚悟を決めたように口を開く。
「陛下は十五歳で即位して、それから長らく戦場に身をおいていました。たった五年で、ルドベキア三国連合と呼ばれる三国と、旧トルクメニア。合わせて四つの国を平定されたのです」
アンネリーゼは頷いた。あらためて聞くと、彼の若さと、才能と力に驚くばかりだ。
十五歳のアンネリーゼはなにをしていただろうか。
両親の庇護下で、彼らに大切にされながら暮らしていた。その間パーシヴァルは皇帝になり、戦場に立っていた。あまりにも、歩んできた道が違う。
「そのころから今まで、陛下に女性の影はありません。人を寄せつけないところがあります。婚約者候補は何人もいましたが、陛下はそれらすべてを拒否なさっていました」
「では……リゼット様とは、妹君でしょうか」
リゼットとは──彼の妻や恋人ではないのか。
アンネリーゼは内心の動揺を隠して、上擦った声を誤魔化すように一度沈黙すると、慎重に尋ねる。
「その名は、どなたでしょう? 陛下には何人かの腹違いの妹君がいますが、そのような名の姫君は存じあげません」
「……なんでもないのです。忘れてください、フュリアさん」
彼女は嘘をついているわけではなさそうだった。
アンネリーゼはどこか安堵したように息をついて退室する彼女を見送ると、カモミールティーに口をつける。
「リゼット様は……どこにも、いない……?」
では彼女はいったい誰なのだろう。
アンネリーゼは立ちあがり、扉から外に出る。ここにきて数日、ずっと部屋にこもっていた。
城の中では自由にしていていいと言われたのに、それさえしなかった。
自分の首を自分で締め続けていたことを、ようやく思い知った。




