燃える森
彼のいなくなった部屋で、アンネリーゼはぼんやりと天井を見あげていた。
このままでいいわけがない。ここから逃げなくてはと、疼く体に気づかないふりをしながら立ちあがる。
『なにも持たない女がひとりで生きてけるほどに、甘くない』
『頼れるものは、俺だけ』
パーシヴァルの声が脳裏に響く。彼はここにいないはずなのに、背後から強く抱きしめられているような錯覚がある。
息が苦しく、足が竦む。こんなに弱い人間ではなかったはずだ。
森の魔女として、ひとりで生きてきた。自分ひとりでなんでもできると思っていた。
それなのに見知らぬ場所で怯えて、動けなくなっている。
「……しっかりしなさい」
自分を叱咤する。アンネリーゼにできるのは、パーシヴァルから離れることだけだ。
ラングフォード皇国のためにもリゼットのためにも、ここにいるべきではない。
部屋から出ようとして、扉に手をかける。
けれど、扉は押しても引いてもびくともしない。外側から鍵をかけられたのだ。
窓は開くことができる。バルコニーの前でアンネリーゼは立ち竦んだ。
三階の窓辺からは、庭園が見渡せる。庭園の先には高い壁がある。皇城の敷地はとても乗り越えることができない壁で全体が覆われている。
ここから出たところで、逃げることができない。
それを悟ると共に、恐怖がせりあがってきて、ふらふらと室内に戻り床にぺたんと座り込んだ。
ここは、アンネリーゼが暮らしていた家よりも天井が高い。
三階ともなると、塔に登ったように高く感じられる。
アンネリーゼは、高所が苦手だ。自分でも薄々気づいていたが、がくがくと足が震えるぐらいに──窓辺が怖い。
今までこれほど、怖いと思ったことはない。幼い頃に森が燃える夢を見た。それと同じぐらいか、それ以上に今はおそろしい。
底冷えするような恐怖に、体が震える。混乱しながらベッドになんとか戻ると、扉が叩かれる音がした。
閉じていた扉が開かれる。そこにはパーシヴァルが言っていたとおり、何人かの侍女が立っていた。
「今日からアンネリーゼ様のお世話を、皇帝陛下よりもうしつかっております。私は傍づきになります、フュリアともうします。エバンス伯爵家の三女で、長らく皇城で働かせていただいております。以後、お見知りおきを」
きびきびしとした物言いの、背の高い細身の女性だ。
パーシヴァルと同年代か、少し年上だろうか。栗色の髪はアンネリーゼの母を思い出させるものだ。落ち着きのあるしっかりした女性という印象を受ける。
桃色の瞳には、どことなく物憂げな光を宿している。
素性の知れないアンネリーゼの世話について、心配に思っているのかもしれない。
彼女の後ろに控えているフュリアと同じ年頃やそれ以上に年配の侍女たちも、どこか浮かない表情をしている。
アンネリーゼは震える体を隠すように腕をきつく掴んで、彼女たちの前に行くと礼をした。
「はじめまして。アンネリーゼともうします。私のようなものの世話など、もうしわけありません」
「お気になさらず。皇帝陛下の命令ですから。長旅でお疲れでしょう、まずは入浴をしてお体を清めましょう。皇帝陛下がいついらしてもいいようにしておかなくてはなりません」
フュリアに促されて、アンネリーゼは部屋から続いている浴室へと連れていかれる。
大理石の浴槽は信じられないぐらいに広く、女性の彫刻の持つ水瓶から湯が滝のように流れ落ちている。
ドレスを脱がされたアンネリーゼは、洗い場にある石の寝台に寝かされて、隅々まで侍女たちによって洗われた。
恥ずかしさに体を隠そうとしたが「慣れていただかなくては」と、咎められる。
アンネリーゼの体には、衣服で隠れる場所に所有の証がいくつも散っている。
白い肌に赤い跡は、哀れさと淫靡さを併せ持つ。フュリアたちはそれを見てもなにも言わなかった。
淡々とアンネリーゼを磨き、湯あみをさせる。
風呂から出ると、丁寧に体を香油などで磨かれて、真新しいドレスに着替えさせられた。
「あぁ……なんて美しいのでしょう」
アンネリーゼの銀の髪をとかしながら、フュリアは感嘆の溜息をつく。
侍女たちも「本当に」「お美しい」と、口にした。
「皇帝陛下の命を救った、有能な薬師だと聞き及んでおります。それにこれほどの美しさでは、陛下の閉ざされたお心も揺れ動くというものです。アンネリーゼ様、お食事を用意いたします。なにかご入用のときは、なんなりとおもうしつけください」
パーシヴァルからなにか言われているのか、フュリアたちはレイチェルのような敵意をアンネリーゼに向けない。
仕事として傍にいるような壁を感じるし、彼女たちの瞳に憂いはあるものの、丁重に扱ってくれた。
しばらくすると、食事に呼ばれる。侍女たちという監視の目がついたからか、部屋に鍵はかけられていない。
逃げることも考えたが、もしアンネリーゼが逃げたらフュリアたちが罰せられるかもしれないと思うと、その決意も鈍っていく。
ひとりきりで豪華な昼食をとったが、なにを口にしても砂を噛んているように味がしなかった。
日が暮れると暗闇に沈んでしまうセゾンリーブスとはちがう景色が、窓の外に広がった。
庭園には星を落としたような光がぽつぽつと灯り、室内も明るい。
侍女たちがランプやシャンデリアに火を入れてまわるからだ。夜の明るさは、皇国の権力の象徴のようでもある。
遠く、城を覆う壁の向こうに街の灯りも見える。星よりも街のほうが明るいのではないかというぐらいに、はっきりと輝いている。
アンネリーゼは窓に手をついてそれを眺めていた。
その景色に、燃える森が重なって見える。どうしてか、この城に来てからというものその情景を思い出してしまう。
ただの悪夢なのに、目覚めていてもその炎はアンネリーゼに襲い掛かってくるように感じられた。




