支配
彼はアンネリーゼの首筋に顔を埋める。鎖骨を甘く噛まれ、細い首を舌が辿る。
腹を撫でていた手は、スカートを捲り内腿に触れる。
感じてはいけない、流されてはいけないと思っているのに、体はどうしても反応してしまう。
「だめ、ここでは……」
「護衛の兵士たちに聞かれぬように、声をおさえていろ」
馬車の周囲には、並走している騎馬が多くいる。
窓は小さく、カーテンで隠されている。だが、車輪が回る音と共に蹄鉄が大地を蹴る音が響いている。
人の気配が多くする。セゾンリーブスの自宅とはまるで違う。
「どうして、こんな……」
「触れたい。それ以外に理由が必要か?」
「陛下……」
「どうして欲しい?」
「家に、帰して」
涙ながらに訴える唇が、深く塞がれる。
もしかしたら夢をみているのだろうか。昨日の夢の続きを。
けれど、粘膜が触れ合う生々しい感覚がこれは夢ではないのだと、アンネリーゼに訴えかけてくる。
彼には大切な人がいるのに。
だから拒絶した。別れを選んだ。それに彼の立場を知ってしまった以上、彼と共にはいられない。
身分も立場も、違いすぎる。
そう思うのに、息が苦しいぐらい深く口づけられていると、なにも考えられなくなってしまう。
唇が離れると、銀糸が繋がる。パーシヴァルはアンネリーゼの濡れた唇を優しく撫でた。
「帰る家など、もうお前にはない」
震えるアンネリーゼを、強く抱きしめる。
その言葉の持つ冷酷さに、指先が冷える。アンネリーゼにとってあの家は、両親の思い出が残る大切な場所だ。セゾンリーブスから出ることなど、考えたこともなかった。
それなのに、こうも簡単にアンネリーゼの自由は失われてしまった。
はじめて恋をした相手は、いとも容易く全てを奪っていく。
「どうして……」
「その理由を、お前が聞くのか?」
明らかな怒りをたたえた瞳が、冷酷にアンネリーゼを見据える。
酷薄な笑みを浮かべて、彼は耳元に唇を寄せた。
「俺から離れられなくなるように、してやろう」
それは長い責め苦のはじまりであると、彼は残酷に告げた。
──徐々に、馬車の揺れが静かになり、やがてぴたりと止まった。
夕方になり、宿に辿り着くころにはアンネリーゼは、なにも考えることができず、ぼんやりと呼吸を繰り返していた。
長い時間かけて愛された体は熟した果実のように蕩けて桃色に染まり、強烈な色香を放っている。
パーシヴァルは己のマントでアンネリーゼを包んだ。
従者に彼が何かを指示している間、アンネリーゼはくたりと馬車の椅子に横たわっていた。
護衛や従者たちが離れていき、パーシヴァルは抱きあげたアンネリーゼを豪華な邸宅のような宿の二階に運んでいく。
アンネリーゼの暮らしていた家とは違う、貴族の寝室のような部屋だ。
質のいい家具や、シャンデリア。葡萄酒の瓶や果物がテーブルに並んでいる。
そんな光景を、アンネリーゼは眺める。ずっと、夢を見続けているようだ。
パーシヴァルは動けないアンネリーゼをベッドに横たえて、彼は隣に座り銀の髪を撫でる。
「国境は越えた。ここはすでにラングフォード皇国だ。お前にとっては、セゾンリーブス以外は全て見知らぬ国のように思えるかもしれないが」
「陛下、私……帰りたい」
幼子のように、拙い声で訴える。心許なさに涙があふれた。
そんなアンネリーゼの頬に、愛おしそうに触れて、パーシヴァルは甘ったるい口づけを落とす。
「お前が頼れる者は、俺しかいない」
「陛下、だけ」
「逃げようと思うな。見知らぬ土地で、なにも持たない女が生きていけるほどに、この世界は甘くない。だから、俺の傍にいろ」
「……っ、陛下」
「名を呼べ」
アンネリーゼは首を振る。それは僅かに残った意地であり、些細な抵抗だ。
彼が好きだという気持ちに変わりはない。けれど、それだけでは、どうにもならないことがある。
「抵抗を続けても無駄だ。お前は俺のもの。……心が得られぬのなら、支配するだけだ。二度と──失わないように」
パーシヴァルは、低く響く声で小さく呟いた。
二度と失わないように。
その声が、アンネリーゼの心に波紋を広げる。
誰を失ったのか、どういう意味なのかと尋ねる前に深く唇が重なった。
──何層かの外壁に囲まれた巨大な都市を、馬車はゆっくりと進む。
小さな窓からは、皇家の紋章のある馬車と多くの護衛兵たちの姿を見て、恭しく頭をさげる民の姿がある。
色彩が多く、華やかな衣服の者が多い。大きな花の絵柄や、模様の入った上着などは、セゾンリーブスでは見なかったものだ。
女神が瓶を抱えている彫刻から水が流れる噴水。カフェや賑やかな露店。人々の表情は明るく、豊かな街ということが一目でわかる。
夢と現実の曖昧な狭間をまどろみながら、アンネリーゼは変わっていく風景を見ていた。
アンネリーゼはドレスで飾り付けられている。
全て、パーシヴァルが用意したものだ。彼は従者に命じて、アンネリーゼの着替えなどを購入していた。
布地の少ないレースの下着や、胸を強調する真紅のドレス。首には繊細なガーネットの首飾りが光っている。
彼の瞳の色で飾られたアンネリーゼは、どこかの姫のようにさえ見える。
衣服を変えただけなのに、立場さえ変わってしまったように感じる。
パーシヴァルは美しいと褒めたが、アンネリーゼはそうは思えなかった。
高価なドレスも装飾品を与えられても、心が晴れることはない。
自分はいったいどうなってしまうのだろうという不安と、消えていかない彼への愛しさ、そして朝も夜も関係なく容赦なく与えられる深い愛執のせいで、ここしばらくはなにかを考えようとしても、うまく思考がまとまらない。
巨大な城門には、何人もの衛兵が待機している。馬車は堀の上の跳ね橋を進み、城の中に辿り着いた。
アンネリーゼにとって広大なものは、セゾンリーブス大森林の他にはなかった。
だが皇城は森のように大きい。実際には森のほうが大きいのだろうが、アンネリーゼにとって城はそれぐらい巨大でおそろしいもののように思えた。
「怖いか」
「私には相応しい場所ではありません。陛下、お願いです。私を元の場所に……」
「アン、早く俺の子を産め。そんなことは、二度と言えなくなる」
アンネリーゼが帰りたいと口にするたび、彼は苛立つ。
その瞳は獰猛な光を帯びる。血の皇帝の名の通り、冷酷で暴虐で──けれど、乱暴なことも痛いこともしない。真綿に包むように優しい。
砂糖菓子でできた檻の中に閉じ込められているようだ。
明け方まで激しく抱かれて動けないアンネリーゼを彼は甲斐甲斐しく風呂に入れ、身なりを整えて食事をとらせる。
はじめての日の朝と同じ。親鳥に世話をされる雛のように、アンネリーゼはずっと鳥籠の中で飼われている。
アンネリーゼの腹を、彼の指先が羽が触れるように撫でる。
びくりと体が震えた。心とは裏腹に、体は彼に従順に従ってしまう。
いや、それは嘘だ。アンネリーゼは彼を拒めない。愛情は、消えていかない。消えていってくれない。
アンネリーゼを乗せた馬車は皇城の敷地を進み、中央の尖塔と複雑な彫刻がいくつも壁面に刻まれた、皇城から離れた場所にある、皇城よりは小さな美しい宮城に辿り着いた。
よく手入れのされた薔薇の庭園や、透明な水を噴きあげる噴水。白いガゼボやベンチ。中央にある城よりも、繊細な印象を受ける白亜の城の前で馬車は停まる。
パーシヴァルはアンネリーゼを抱きあげて、馬車から降りる。
するとすぐに、アンネリーゼよりも年下に見える金の髪に青い瞳の可憐な少女が、何人もの侍女を引き連れて近づいてくる。
「お帰りなさい、お兄様! ずっとご不在にしていらっしゃって、城は混乱していたのですよ。誰にもなにも告げずに、どこに行っていたというのです」
豪奢なドレスに、大きな宝石の首飾り。侍女たちも皆、美しいドレスを着ている。
ここは場違いだと、アンネリーゼが強く感じる。パーシヴァルの腕の中で萎縮するアンネリーゼを、彼女は奇妙な生き物でも見るようにしげしげと眺めまわした。
「こちらのかたは、どなたですか? 道端に落ちていた人を、拾ってきましたの? まるで捨て猫のように震えていますわね」
「……レイチェル、さがれ。今はお前と話している暇はない」
「まぁ、ひどいわ。可愛い妹が、お帰りを待っていたというのに! その女性は誰ですの?」
「アンネリーゼ、俺の妻だ。お前は彼女に関わるな。なにかすれば、今までの恩情はすべて水泡に帰すことになる。その悪辣な口を閉じろ」
「私、なにもしていないわ!」
愛らしく頬を膨らませる彼女から視線を逸らし、パーシヴァルは城に入る。
アンネリーゼに彼は「あれはレイチェル。腹違いの妹だ。昔からあれは、毒のような女だ。すまなかったな」と、小さな声で囁いた。
一瞬彼女がリゼットかと思ったが、そうではないらしい。
リゼットは、どこにいるのだろう。
それだけでアンネリーゼの頭はいっぱいで、レイチェルの侮辱はあまり気にならなかった。
セゾンリーブスでも、アンネリーゼは異端者として陰口を言われたことは何度もある。だから慣れている──というのも、おかしな話だが。
捨て猫というのも、言い得て妙だ。森で拾った捨て猫というのは、案外正しい評価かもしれない。
城の中は、純白と金に統一された空間になっている。
大理石はアンネリーゼの姿が映るほどに磨かれており、壁にかけられた果物や風景の絵画が色彩を放っている。
彼は幅広の階段をあがり、三階にある部屋を開く。
そこもまた、白い部屋だ。中央には一人で眠るには広すぎるベッドが置かれている。光沢のある白いシーツに、天蓋も白い。カーテンを引き結ぶ紐は金で、一見しただけで高級なものだとわかる。
「ここは今日からお前の場所だ。ここは、白金の離宮と呼ばれている」
「離宮……」
目の前の光景に圧倒されながら、アンネリーゼは小さな声で呟く。
パーシヴァルはアンネリーゼをベッドに降ろすと、目の前に膝をついて恭しく手を取る。
「お前が不自由しないように侍女を何人かつけるが、なにかあればすぐに俺に言え。レイチェルのような者がいれば、追い出そう」
「何度もお伝えしています。私は陛下に相応しい立場ではありません。ですからどうか、セゾンリーブスに帰らせてください」
「──愛を与えて、すぐにそれを奪うとは。残酷なことをする」
彼はアンネリーゼの手の甲に口づけて、それから歯を立てる。
痛みに眉を寄せるアンネリーゼを慰めるように、優しく舌が噛み跡を辿った。
「立場など、どうでもいい。俺がお前を欲している。それ以外に必要なことなどなにもない」
彼はアンネリーゼに覆いかぶさり、その体を艶やかなシーツの上に倒した。
また、抱かれる。なにもわからなくなって、彼に縋りながら泣きじゃくることしかできなくなる。
それを想像するだけで、体の芯が熱を帯びる。
だが予想に反して彼は触れるだけの口づけを残して「また来る」と言って、部屋を出て行った。




