血の皇帝
カヌレは街道を軽快に駆けていく。セゾンリーブスの森がどんどん小さくなる。
慣れ親しんだ場所が遠のいていく。
得も言われぬ畏れがそこにはある。アンネリーゼは拒絶したはずの男の体にぎゅっとしがみついた。
なにが起こっているのか、わからない。
パーシヴァルは愛しげに、アンネリーゼの髪にときおり口づける。
どこに向かっているのだろう。王都に行くのだろうか。なにも持っていないのに。
金も荷物も思い出も、なにも。
街道をひたすら進むと、アンネリーゼの知らない風景があらわれる。
セゾンリーブスの街よりもずっと大きい、高い壁に囲まれた街だ。
大きな門から中に入ると、多くの人たちが行きかっている。立派な鎧を着た兵士たち、忙しなく働く街の人間たち。
そんな人々に目もくれずに、パーシヴァルは馬車道を街の奥まで進んでいく。
石造りの砦に辿り着き、アンネリーゼは言葉を失った。
見張りの兵士たちに守られている、大きな砦だ。これほど大きな建物は、セゾンリーブスの街では見たことがない。
明らかに場違いだ。おそらく高貴な身分の者が住んでいる城なのだろう。
見張り塔がいくつもある。見あげると目がくらみ、僅かな眩暈さえ感じる。「リヒトール辺境伯の城だ」と、パーシヴァルが教えてくれる。
パーシヴァルは堂々と、門にカヌレを進ませる。
「どうして、こんなところに……パーシヴァルさん、帰りましょう。お願いです」
アンネリーゼの懇願は、彼の耳には届いていないようだった。軽く一瞥しただけで、返事はない。
パーシヴァルの姿を見て、慌てたように兵士がやってくる。
捕縛されてしまう──と、アンネリーゼは恐怖に身を竦ませた。
だが、兵士たちは怯えたような表情で、パーシヴァルの前で深々と頭をさげる。
「馬を頼む」
パーシヴァルはカヌレから降りると、兵士に預けた。兵士たちは「承知いたしました!」と、背筋をまっすぐに伸ばして大きな声で答える。その声音には明らかに緊張と畏れがある。
彼は兵士たちに傅かれることに慣れているように、表情を変えずにアンネリーゼを抱きあげて、城の中に淀みない足取りで入って行く。
ただの兵士だと、彼は言っていた。
けれど、パーシヴァルの姿を見た者たちは、皆一様に怯え萎縮したように礼をする。
砦の中は無骨な外観と違い、石造りの床には絨毯が敷かれ、柱には繊細な彫刻が施された優美な作りになっている。
おとぎ話の中にでてくる神殿のようだと、アンネリーゼは思う。
柱もランプも天井も、全てに装飾が施されている。セゾンリーブスの森と木の家とは何もかもが違う景色だ。
「突然の訪問、驚きました……!」
身なりのよい壮年の男性が、部下たちを連れて急ぎ足でやってくる。
彼らはパーシヴァルの前に膝をつき、臣下の礼をする。
アンネリーゼはどうしていいのかわからず、パーシヴァルに甘えるように顔を隠していた。
簡素な綿の服はどう考えてもこの場に相応しくない。それに、ヴェールも置いてきてしまった。こんなに多くの人に見られている。
視線が体に突き刺さるようで、怖い。この場で頼れる者は、パーシヴァルしかいなかった。
「陛下、お出迎えが遅くなりもうしわけありません」
「いや、先ぶれも出さずに訪れたこちらに非がある。気に病む必要はない」
パーシヴァルよりもずっと年上に見える男が、パーシヴァルに対して慇懃な態度で言葉を話している。
そして彼は、それを当然のように受け入れた。
(陛下、と……。まさか、そんな……)
あり得ない事実に気づいてしまい、アンネリーゼは息を詰める。
心臓が一瞬止まってしまったかのように、視界が真っ白に染まった。
ラングフォード皇帝の名は、パーシヴァル・ラングフォード。
彼は、名が同じなだけで、王都に派兵されたただのラングフォード兵だと言っていたはずだ。
それなのに、彼は本当に──。
「久しいな、リヒトール」
「はい。その節は、共に戦ってくださったことを感謝しております。陛下のおかげで、リヒトール辺境伯領からルドベキア三国連合の者たちを追い出すことができました」
「礼はいい。ラングフォードの支配下に置いただけだ」
「ラングフォード皇国の一部になることができて、安堵しています。トルクメニアの王族はもう残っていません。属国にならなければ、貴族間で再び誰が国を手に入れるかの戦争が起こっていたでしょうから」
リヒトール辺境伯が深く礼をすると、皆もそれに習う。
頭をあげて立ちあがった彼の隣にいる若い青年が、パーシヴァルの前に進み出る。
彼ひとりだけ、着ているものが違う。黒と赤を基調にした軍服に、胸にはラングフォードの象徴である鷹の紋章がある。
ラングフォードから派遣された者なのだろう。セゾンリーブスの街でも、ごく稀にその衣服を着ている者の姿を見ることがあった。
「陛下、此度は視察でしょうか」
「個人的な用事だ。セリオン、馬車を用意しろ。ラングフォードに戻る。こちらに馬を預けてある。セゾンリーブスに運ぶものをいくつか置いてある。あとでラングフォード兵たちに回収に来させる」
「御意に」
セリオンは礼をして、深く理由は聞かずに命令の通り準備をはじめる。
リヒトールの視線がアンネリーゼで止まった。彼はなにか言いたげに、じっとアンネリーゼの顔を見つめる。
「そちらの女性は……」
「セゾンリーブスの魔女だ。お前も知っているだろう」
「はい。噂は、かねがね。ワーグナーの薬師は、よい薬を作る森に住む者たちと聞いています。魔女は黒いドレスで顔を常に隠していると……しかし、このような可憐な若い女性とは思いませんでした」
「見られるのは苦手らしい。彼女は俺を森で救った。妻として、皇国に連れて帰る」
「そ、それは……彼女はただの庶民なのでしょう?」
「問題があるか?」
パーシヴァルは冷ややかに笑った。
リヒトールは恐縮しながら「いえ、差し出がましいことを言いました」と、謝罪する。
パーシヴァルはアンネリーゼの姿を隠すように、抱きあげる腕を寄せた。
彼の腕の中で、アンネリーゼは縮こまっている。
パーシヴァルは、パーシヴァル・ラングフォード。ラングフォードの皇帝。
その事実だけが、上手くかみ砕けないままぐるぐると頭の中を回り続けている。
「しかし……いや、まさか、そんなことがあるはずがない」
リヒトールが、小さな声で呟いた。
「リヒトール、余計な詮索は無用だ」
「もうしわけありません、陛下。ですが……森で救ったとはいったい? 陛下はセゾンリーブスの大森林に、お一人で?」
「個人的な用だと言っただろう。なぜ話す必要がある?」
「失礼いたしました」
リヒトールは、臆したように一歩下がった。年若いパーシヴァルだが、そこにある威圧感は明らかに彼が本当に──ただの兵士ではないと教えてくれている。
馬車の準備が整いましたと、セリオンが知らせに来る。
少し休んでいくようにリヒトールは提案したが、パーシヴァルは「すぐに発つ」と、アンネリーゼと共に馬車に乗り込んだ。
重厚感のある、窓の小さな黒い鉄製の馬車が、ゆっくり進み始める。
赤いベルベット生地の室内で、アンネリーゼは体を小さくしていた。
馬車の周囲には多くの護衛兵たちがいる。それが、彼が皇帝であるという事実を、色濃くしていた。
「俺が、怖いか」
血の皇帝が、尋ねる。
アンネリーゼは首を振った。怯えているのは、彼にではない。
「青ざめ、涙をためて怯えている」
アンネリーゼの正面に座るパーシヴァルは、腕を組んでアンネリーゼを見据えている。
広い馬車にゆったりと座っている彼は、アンネリーゼの知る『パーシヴァルさん』とは、別人のように見える。
以前からアンネリーゼは彼をただの兵士とは思えなかった。違和感の正体はこれだったのかと、心の中で呟いた。
けれど、怖くはないのだ。
彼と過ごした一週間は、夢でも幻でもない。
彼は素性を隠していたが、その言葉や振る舞いには嘘はなかった。とても、自然だった。
もしずっと嘘をつき続けて、アンネリーゼを騙す悪心があれば、アンネリーゼもきっとそれに気づいていたはずだ。
「私を……騙していたのですか。どうして、嘘を」
「血の皇帝と呼ばれているのを、知っているな。多くの者を殺した。お前には、そんな己を知られたくないと思ってしまった。だから偽りを。……だがそれももう終わりだ。俺は皇帝に戻る。お前と共に、な」
ラングフォードを憎まないのか──と、彼には尋ねられた。
身分が知られれば、アンネリーゼは怯えると思っていたのかもしれない。
確かにアンネリーゼは震えている。けれど、パーシヴァルが怖いからではない。
住み慣れた場所を離れて、多くの人に囲まれた。そしてまた、馬車に乗りどこかに連れて行かれようとしている。怯えるなというほうが、無理な話だ。
でも、こんな状況になってもパーシヴァルのことを怖いとは思っていない。
彼が皇帝だったとしても、共に暮らした日々が全て偽りだったというわけではないのだから。
「……あなたに怯えているわけでは、ありません。怖くなんて、ないです。あなたは……ずっと優しかった。パーシヴァルさん。いえ…皇帝陛下」
名を呼びなおすと、彼は俄かに目を見開いた。
立場故に開いてしまった距離を縮めるように、彼はアンネリーゼに手を伸ばす。
強引に手を引かれて、馬車の揺れと共に体勢を崩した。
転びそうになったアンネリーゼの腰を引き寄せ、自分の膝の上に座らせる。
そして、その体を強く引き寄せた。
アンネリーゼは彼の腕の中でびくりと震える。彼の唇が耳に掠めるように触れた。
「帰りたいのか、アン」
当然だと、アンネリーゼは頷く。そして、唇を噛んで彼を睨みつけた。
「嘘をついていたことは、許します。でも……っ」
「──ラングフォードまでは、数日かかる。その間に、お前に教え込む。お前が誰のものか。二度と俺を、拒絶できないように」
「皇帝陛下、どうか私を家に帰してください。私とあなたでは、立場も身分も違います。私はあなたの傍にいることはできません。だから、どうか……!」
リゼットとは、彼の正妃の名だろうかと、ふと思い当たる。
もしくは婚約者だろうか。
アンネリーゼの身分では、おそらく妾として傍におかれるのだろう。
彼のアンネリーゼに対する執着が本物だとしても、それでは誰も幸せにならない。
「お前は俺の妻だ。俺はそう告げ、お前は俺を受け入れた。昨日の夜が、ただの夢だったとは言わせない」
彼の舌が耳に触れる。軽く噛まれると、皮膚が甘くさざめいた。
「子ができたとしたら皇子か皇女になる。できていなかったとしても、これから何度も抱いて子を宿させる。俺のために産んでくれるのだろう?」
彼の手が、アンネリーゼの薄い腹を滑る。下腹部を撫でられて、アンネリーゼは眉を寄せた。




