決別の朝
朝日の中で目覚めると、一瞬ここがどこなのかわからなかった。
空は晴れて、窓辺には小鳥たちが止まり愛らしい声で鳴いている。
徐々に思考回路が焦点を結んでいき、昨日のことを思い出した。
体に熱がまだ残っている。パーシヴァルで満たされたアンネリーゼの体はしっとりと潤み、大人びた気怠さを纏っている。
「……リゼットさん」
噛みしめるように、呟いた。
彼には大切な女性がいる。だから──愛された喜びに浸っていてはいけない。
今までも、ひとりだった。またひとりに戻るだけだ。
パーシヴァルをこの場所に引き止めるわけにはいかない。別れを告げる覚悟はしていた。
その理由がより、明確になった。それだけのことだ。
そう自分に何度も言い聞かせる。
「アンネリーゼ、起きていたのか」
パーシヴァルが部屋に入ってくる。彼はゆったりしたガウンを羽織っている。
心なしかいつもよりも雰囲気が柔らかい。
体を起こそうとするアンネリーゼを、優しく支えた。
頬に手を添えて、こつんと額を合わせる。彼の緋色は愛しいものを見つめるような熱を帯びていて、アンネリーゼの心を疼かせる。
そうすることがごく自然であるかのように唇が重なる。重なりそっと離れて、もう一度重なる。
指先に熱が集まり、体の芯が蕩けそうになってしまうほどに優しい触れ合いに、喜びと悲しみが綯交ぜになって、心が押しつぶされそうになる。
「おはよう。……昨日はよく、頑張ってくれた。今日はあまり、無理をするな」
「……おはようございます」
アンネリーゼの陰る瞳と小さな声を、昨日の疲労が残るせいだと判断したらしく、彼は「全て俺に任せていろ」と言って、アンネリーゼを抱きあげた。
「パーシヴァルさん、私は、大丈夫……っ」
「俺がそうしたいと望んでいる。いい子にしていろ」
「私は子供では……」
「子供と思っていたら抱かない」
パーシヴァルはアンネリーゼを裏庭に連れて行く。霧がまだ少し残る、柔らかな晴れの日だ。祝福するように小鳥たちが、薬草畑の上を飛び回っている。
ガウンに包まれていたアンネリーゼを脱がせると、パーシヴァルは湯を張った浴槽の中にアンネリーゼを沈める。
いつもはなんとも思わないのに、光の中で裸体を晒しているのは恥ずかしい。
彼はアンネリーゼの髪を優しく洗った。
「美しい銀の髪だな。月の女神のようだ」
「ありがとうございます。……あの、私は自分で」
「お前は何もしなくてもいい。朝食も作った。不慣れだが……一応、形になったとは思う」
「あなたが……?」
「あぁ。だが……こうしてお前に触れていると、もう一度、抱きたくなってしまう。一度ではなく、何度でも」
「ん……」
耳朶に背後から唇が触れる。首筋を吸われて、アンネリーゼは伏せた睫を震わせる。
こんなに──情熱的な人だったのだろうか。
今日という日は、昨日という日常と地続きになっている。
けれど違う一日に迷い込んでしまったかのようだ。
アンネリーゼが彼の心の中にいる人を知ってしまったことを、彼は知らない。
彼には大切な人がいるはずなのに、アンネリーゼに向ける優しさも熱情も、すべて偽りではないように感じられてしまう。
それが──苦しい。
湯からあがり、清潔な服に着替えた。
昨日の残滓が体から消えた。パーシヴァルはアンネリーゼの髪を拭き、櫛でとかした。
彼を助けたとき、アンネリーゼは彼の世話をしたことを思い出す。
あのときの逆だ。そして今日──彼と別れる。
それを告げなくてはいけないのに、言葉が喉の奥から出てこない。
食卓にはパンとスープが並んでいる。ブルーベリーのジャムとリコッタチーズがのせられたパンは、アンネリーゼの好きなものだ。
スープには、不ぞろいに切られた野菜がごろごろ入っている。
「ありがとうございます。早起きを、してくれたのですね」
「あぁ。カヌレの世話もある。元々、あまり長く眠るほうではない。お前の寝顔をずっと見ていたかったが、お前は目覚めたら動こうとするだろうと思ってな」
「美味しいです。とても」
「よかった」
どうしてそんなに優しくするのだろう。
このまま、なにも知らないふりをしていたい。まるで夫婦か恋人のように、パーシヴァルが帰ると言うまで一緒に過ごして──。
なんて、よくないことを考えそうになる。
共にいる時間が長ければ長いほど、決意が鈍ってしまう。
食事が終わり、パーシヴァルが片づけをしてくれている間、アンネリーゼはソファに膝を抱えて座っていた。
片づけを終えてアンネリーゼの隣に座り、「もう少し寝ていたほうがいい」と言って手を取ろうとするパーシヴァルから、アンネリーゼは身を引いた。
「どうした?」
彼は不思議そうに尋ねる。その、僅かに傷ついたような表情に心が痛む。
それでも、言わなくてはいけない。このままずるずると、流されるわけにはいかないのだから。
「あなたの足は、治りました」
「あぁ、そうだな。お前のおかげだ」
「今日、昨日の手伝いをしていただいたぶんのお金をお渡しします」
「そういう話だったが、今は、そんな話をしなくていい」
アンネリーゼの硬い声と表情になにか気づいたのだろう。彼の眉間に皺が寄る。
部屋に満ちていた柔らかい雰囲気が、凍える冬のように変わっていく。
「足が治ったのですから、帰ってください。あなたとずっと一緒にいることはできません。あなたには、あなたの生活があります。私にも。私は、一人の生活に戻りたい」
「……何故?」
低い声で、パーシヴァルは尋ねる。
隠しきれない冷たい苛立ちが滲んでいる。彼を怒らせてしまうのも仕方ない。
アンネリーゼは彼を傷つけようとしている。
「この森であなたと出会ったのは、束の間の夢のようなできごとでした。夢はいつか、醒めます。私もあなたも、元の生活に──」
どうしても、声が震えてしまう。胸が締めつけられて息ができない。
体が熱を失い、冷えていく。愛情に満ちた朝が、冷ややかな拒絶に変わっていく。
それでも伝えなければと、膝の上に置いた手をきつく握りしめた。
リゼットさんの元に帰って、とは、言えなかった。
パーシヴァルが、女にだらしない男とは思わない。けれど彼は、アンネリーゼに救われて一緒に暮らすうちに、絆されてしまったのだろう。
セゾンリーブスを覆う深い霧のような、夢の中にいるような生活に、現実をほんの少しだけ忘れてしまったのかもしれない。
「俺は、お前に拒絶されて尻尾を巻いて逃げるような、殊勝な男ではない」
怒りに満ちた声が、冷酷に空気を震わせる。
「ですが、あなたは……」
「お前は俺のものだ、アン」
その言葉には激しい執着がある。パーシヴァルはアンネリーゼの頬を撫でた。酷薄な笑みで唇が歪み、獲物を前にした獣のように瞳孔が収縮している。
恐怖に、背筋が凍えた。
「どうして、その呼び名を……」
「お前の母が、書き残していた。薬草の知識をまとめた書物に、『大切な、アン』と」
アンネマリーの声が脳裏に響いた気がした。『アン、私の大切な可愛い子。どうか、強く生きて』病床で、彼女は何度もそう言った。
強く生きるとは、どういうことなのだろう。
パーシヴァルに身を任せた選択に後悔はない。そのはずなのに。それは、間違っていたのかもしれない。自分自身も彼も傷つける結果になってしまった。
過去は変えられない。昨日に戻って、パーシヴァルの触れる手を振り払いたい。
でも、そんなことはできないと、自分自身が一番よくわかっている。
情熱的な瞳で見つめられて、触れたいと乞われたら、アンネリーゼは何度繰り返しても彼を受け入れてしまうだろう。
「俺に抱かれたのは、同情からか? 一夜の慰めを与えるつもりだったのか。だが、お前の心がどうであれ、俺はお前を逃がさない」
そんなわけがない。あなたが好きだから、身を任せた。
あなたの心には別の女がいるのだろう──と、アンネリーゼは唇を噛む。
どうしても、言えない。怖いのだ。
真実を知ることは──怖い。
パーシヴァルはアンネリーゼを抱きあげる。なんの荷物も持たないままに、強引に家の前に繋がれていたカヌレの上に乗せられる。
「離して……っ、お願いです、離してください……っ」
「黙っていろ。お前に拒否権はない」
抵抗したが、パーシヴァルの腕は力強く、その体は硬く、びくともしなかった。
「どこに行くというのですか……っ」
「元の日常に帰れと、お前は言ったな。そのつもりだ。ただし、お前も連れて行く」
「そんな……困ります、私は……」
「ここにひとりでいる意味は? 守らなくてはいけない立場があるわけでもあるまい。薬師の仕事など、どこでもできる。薬草の類は運ばせる。本と弓、両親の遺品もな」
「運ばせる……誰に……?」
「なんだ。お前は、俺の立場に気づいたわけではないのか?」
どういうことだろうと疑問を口にする暇もないまま、パーシヴァルはカヌレに跨り、アンネリーゼを片手に抱いて走らせはじめる。
セゾンリーブスの森に、アンネリーゼの今までの生活を置き去りにして。




