一夜の過ち
アンネリーゼは体の力を抜いた。パーシヴァルの湿った髪から、水滴が頬に滴る。
霧雨はまだ、窓の外を濡らしている。静寂の中に衣擦れの音と、息遣いがやけに大きく響く。
掠めるように唇が触れる。気恥ずかしさから目を閉じると、何度か啄むように口づけられる。
唇はあたたかく、湿っている。その場所を触れ合わせるだけで、頭の奥が痺れるような感覚がある。指先に緊張で力が入る。絨毯の上を、指でひっかいた。
パーシヴァルは舌先でアンネリーゼの唇の狭間を撫でる。
乞われるままに唇を開くと、彼の大きな舌がアンネリーゼの口腔内にぬるりと侵入してくる。
震える手を逃がさないというように、上から押さえつけられ繋がれる。
指を絡めて、親指の腹で手のひらを撫でられる。
深く繋がった唇は、その先をもっと求めるようにアンネリーゼの呼吸さえ奪っていく。
ひっこめた舌を弄られ、分厚い舌に絡めとられた。
粘膜がこすれ合う感覚に、アンネリーゼは彼の体の下で体をもじもじと動かした。
パーシヴァルはアンネリーゼよりもずっと大きい。まるで檻のように閉じ込められて、動くことは難しい。
じっとしていられないぐらいに、舌を撫でられると体がそわそわする。
口づけの喜びと、見知らぬ感覚への戸惑いが綯交ぜになり、アンネリーゼを混乱させている。
「ん……っ」
角度を変えて深く口づけられ、腫れてしまうのではというほどに長く舌を舐られて、頭がぼんやりしてくる。
呼吸ができず苦しさを感じると、息継ぎを促すように彼は離れてくれる。
薄く開いた瞳は涙に濡れて焦点を結ばず、彼の緋色がアンネリーゼの姿を目に焼き付けるように見つめている視線だけを感じる。
体から力が抜けていく。パーシヴァルの指が、アンネリーゼの唾液に濡れた唇を撫でた。
「……っ」
羞恥に、瞼を伏せる。彼の指がアンネリーゼの濡れたドレスを脱がしていく。
日に焼けることを知らない白い肌が露わになる。白くけぶる窓の外は明るく、光の下で素肌を晒していることが落ち着かない。
もともと、肌を晒すことに抵抗はない。そのはずなのに、彼に見られているというだけで体温がどんどん上昇していく。
「その髪も、瞳も、肌も……綺麗だ、アンネリーゼ」
「そんなことは……」
「お前は美しい。お前があまりにも無防備だから、何度も……こうして俺のものにしてしまおうかと考えた。俺もお前を貶めた男たちと、同じだ」
その声は低く掠れていて、抑えきれない欲求が滲んでいる。
「違います、あなたは、違う……同じなら、私はあなたを受け入れませんでした」
これが一夜の過ちでもいいと、アンネリーゼは思っている。
明日には別れることになっても、思い出が欲しい。
それほど、彼に惹かれている。
アンネリーゼに好奇の視線を向け、体を品定めするように見てきた男たちと、彼が同じわけがない。
たった一週間。けれど、濃く長い時間だ。共に食事をして、家事を手伝ってもらい、言葉を交わした。そこには安らぎと、胸が弾むようなときめきがあった。
命を救われ、夫だと嘘をつき助けてもらった。それが本当ならどれほどいいかと思ってしまうぐらいに、彼が──好きだ。
パーシヴァルは、単純な欲望だけで動くような人だとは思えない。
だとしたらもっと早くに、アンネリーゼの寝室に忍び込んでいただろう。
女好きには見えないし、女に不自由しているようにも思えない。
だから、これは──。
きっと、彼も同じ。アンネリーゼとの別れを惜しみ、思い出を残そうとしてくれている。
そう、思いたい。
「お前は……俺に慈悲を与えてくれるのか」
あなたが好きだ、どうしようもなく惹かれていると──口に出す代わりに、アンネリーゼは彼の頬を撫でる。
彼が欲してくれている。アンネリーゼにとっては、それだけで十分だ。
パーシヴァルはその手を取り、手のひらに唇を寄せた。
「こういったことは不得手だ。だが……できるだけ優しくする。アンネリーゼ、怖いことはしない。力を抜いていろ」
アンネリーゼは、小さく頷く。
不得手だという言葉が嬉しかった。アンネリーゼは恋愛の経験がないが、彼も、もしかしたらその見た目に反して──女性と愛し合ったことがあまりないのかもしれない。
そうだったら嬉しいと思いながら、アンネリーゼは目を伏せた。
一階から、抱きあげられて二階のベッドにいつの間にか運ばれていた。
アンネリーゼはぼんやりしながら、パーシヴァルに髪を撫でられる心地よさを感じている。
薄く目を開くと、見慣れた自室が見える。
机には薬草について記録したノートが積みあげられている。その隣に、幼いころに母の作ってくれた羊のぬいぐるみが置かれている。そのほかにはなにもない。女らしさなど欠片もないような部屋を見られることが、少し恥ずかしかった。
「眠っていい。大丈夫だ、傍にいる」
優しい声が聞こえて、ふわりとした眠気がアンネリーゼを包み込む。
まどろみの中に落ちていく。
まだ眠りたくないという気持ちと、このまま眠ってしまったらどんなに心地よいだろうという気持ちがせめぎあい、アンネリーゼは現実とうつつの間を行ったり来たりしている。
「ん……」
「おやすみ、アンネリーゼ」
しばらくの柔らかい沈黙が、部屋に満ちた。
パーシヴァルはそっとアンネリーゼの下唇を軽く吸い、音をたてずに何度か唇を合わせた。
アンネリーゼは眠っていると、彼は思っている。
それなのにこうして愛してくれている。そこには本当に、愛情がある気がしてしまう。
彼はアンネリーゼの横に座り、乱れた髪を撫でてなおしてくれる。
その手が優しくて、深い眠りへのいざないに、もう抵抗できそうになかった。
眠りに落ちていく寸前、パーシヴァルは手をとめる。
アンネリーゼの頬を撫でると、小さな声で呟いた。
「──リゼット」
それは──誰だろう。
きっと女性の名だ。彼は今まで聞いたことがないぐらいに切なく、愛おしそうにその名を呼んだ。
胸に突き刺すような痛みが走る。
──旅人が、見知らぬ土地で故郷にいる恋人を隠して一夜の恋に落ちる。
そんな話はよくあるのだと、いつか吟遊詩人が詩っていた。
彼も、そうなのだろう。
わかってはいた。彼のような美しい男には恋人や妻がいるはずだ。
それでも──彼のぬくもりを欲してしまった。
罪はアンネリーゼにもある。リゼットという女性にもうしわけなく、眠りの奥底に沈みながら、一筋の涙をこぼした。
目覚めたら、別れを告げよう。
カヌレは渡すことができないし、花をもらうこともできない。
彼との罪深い思い出は、この一夜だけでいい。
霧雨が、雷雨に変わっていく。吹きすさぶ風が窓を揺らす。
パーシヴァルはぬくもりを求めるようにアンネリーゼを腕の中に引き寄せて、抱きしめた。




