霧雨の過ち
家に辿り着く前に、霧のような雨が降りはじめる。
雨にけぶる森を、アンネリーゼの案内でカヌレは進んでいく。
森は深い霧に覆われて、住み慣れているアンネリーゼでなければ迷い込んでしまうだろう。
雨は森を潤してくれる。葉は生き生きと雨を受け、小さなカエルやヤモリたちが顔を出す。生命の香りは、雨の日にはよりいっそう濃くなる。
葉を濡らす水滴が、体に触れて水が跳ねる。黒いドレスはしっとりと湿り気を帯びて体に纏わりついた。
雨のせいで肌寒さが強い。パーシヴァルの体温の熱さがより強く感じられる。
他者の体とはこれほど熱いものだったのかと、アンネリーゼは内心戸惑う。
心臓の音がずっと、うるさい。
それは彼に、アンネリーゼの気持ちを伝えてしまっているかのようだ。どうか気づかれないようにと、祈った。
アンネリーゼの家にも、今はもう使われていない馬用の小屋がある。
カヌレをそこに入れて、藁を敷き詰める。カヌレは嬉しそうに耳をぴくぴくさせて、小屋で休んでくれた。
帰路と小屋での作業の最中に、髪も服も雫が滴るほどに濡れてしまった。
アンネリーゼは清潔な布を持ってくると、パーシヴァルに渡した。
顔を拭いて、一息つく。濡れたドレスを早く脱いでしまいたいが、パーシヴァルが冷えないようにと、手早く暖炉に火を入れた。
暖炉の前の絨毯の上に、パーシヴァルは座って髪を拭きながらシャツを脱いでいる。
「お前はよく働くが、それは着替えてからでいい。お前も濡れている」
「いつもの癖なのです。一人になってからは、私のほかに誰も暖炉に火を入れられる人はいませんし。でも、いつもはもっと、ずぼらなんですよ。ドレスも脱いで、ソファに放り投げるぐらいですから」
「あぁ、だから……俺を助けた日、お前のドレスはソファに落ちていたのか」
「ええ」
窓の外では霧雨が降り続けている。空は晴れているので、天気雨だ。しばらくしたら止むだろう。
明日は、きっと、晴れている。
「カヌレも引き取ってくることができましたし、今日の給金をお渡ししますね。明日の朝には帰りますか? 今日中にカヌレを焼いてしまわないと。これは、お菓子のほうです」
暖炉に薪を入れて火を安定させながら、アンネリーゼは自分を励ますように言う。
好きだという気持ちになど、気づかなければよかった。
そうすればアンネリーゼはいつもの日常に戻ることができる。
パーシヴァルとの出会いを、長い人生の間の短い彩りとして、思い出に変えてしまうことは、簡単だったはずだ。
でも──そうでは、なかったかもしれない。
(私は……パーシヴァルさんに、惹かれていた。彼と一緒にいるようになってから、すぐ)
警戒心をあらわにしていた彼が、アンネリーゼに信頼を向けてくれるのを感じたときには、手負いの獣を懐かせるような甘美さがあった。
そして、彼の存在はアンネリーゼの長い孤独を埋めてくれた。
彼が助けてくれて、妻だと言ってくれて、アンネリーゼの感情ははっきりとした形になってしまった。
「俺はお前を、妻だと言った。嫌ではなかったか」
「え?」
アンネリーゼは驚いて、暖炉の前から離れてパーシヴァルの隣に座った。
「それは、私を守るためだったのですよね」
「お前は独り身だ。アレックスとの婚姻は、願ってもないことだったのでは?」
「いいえ。私は彼のことを知りません。手を握られて、困っていたのです。私一人では断ることは難しかったです。相手は伯爵家の男性ですから」
「権力者と結婚するのは、喜びではないのか?」
まさか、と、アンネリーゼは笑う。
彼は、アンネリーゼの結婚を邪魔してしまったと考えている。
アンネリーゼが既婚者だという嘘は、今日の様子では多くの人々に伝わるだろう。
もう、言い寄ってくる男はいなくなるはずだ。
「私は……男性は、苦手です。こうして森で暮らす若い女の異端者は、身持ちが軽いと思われがちで。何度か、一夜の相手に誘われました。私にとってそれは、嫌なことでしたので……アレックス様も同じ。よく知らない私を娶ろうとしました。薬師としての知識が欲しかったのと、私の見た目が、そう悪くなかったからでしょう」
今まであった嫌なことの話をすると、パーシヴァルは不愉快そうに眉を寄せる。
アンネリーゼは、感謝の気持ちを込めて彼の手に遠慮がちにそっと触れた。
「あなたがここからいなくなっても、私はあなたのおかげで……安心して、暮らすことができます。だから、感謝しています」
「明日は雨だ」
「きっと晴れますよ」
「……お前に花を買う約束をした。まだ買っていない」
「気持ちだけで十分です」
「ではなぜ、泣きそうな顔を?」
返事を待たず腕を掴まれ、引き寄せられる。気づいたときには絨毯の上に倒れ込んでいた。
覆いかぶさる彼の顔が、吐息が触れ合うほどに近くにある。パチパチと、暖炉の炎がはぜる音が聞こえる。
「嫌なら、拒絶を。俺も男だ、アレックスと同じ」
短い言葉だが、彼の優しさがそこにはある。
拒絶をすればきっと、彼はこれ以上なにもせず、明日には──王都に発つだろう。
それが正しい。そうするべきだと、頭ではわかっている。
でも、心はアンネリーゼの思い通りにならない。
一夜の情けでもいい。彼のぬくもりが欲しい。
はじめて、好きになった人だ。こんな出会いはきっと、もうない。




