力強く優しい庇護
守らなくては。
この命を、守らなくては。
それだけで、頭がいっぱいになる。
自分の命など、頭の中から抜け落ちている。ただ、少女が目の前で死ぬことは──アンネリーゼにはどうしても受け入れられない。想像するだけで喉がからからに乾き、頭の中がひりひりと痛む。
興奮して口から泡を吐いている馬が──アンネリーゼを押しつぶし蹴り飛ばすように駆けてくる。
けれど、予想していた衝撃はアンネリーゼにもたらされることはなかった。
「──止まれ」
静かだが威圧と迫力のある声が聞こえて、馬の激しいいななきが、悲鳴と怒鳴り声の飽和する市場に満ちる。
アンネリーゼが顔をあげると、パーシヴァルが馬の綱を掴み、強靭な力で馬を動かないように押しどめていた。
それでも馬首を激しく振り、けたたましく蹄鉄で石畳を蹴る。
パーシヴァルは暴れる馬の上に軽々と飛び乗ると、両手で綱を強く引く。
馬の両足が持ちあがり、二本足で巨体が立った。
だが彼は落ち着いた様子で、馬首を軽く叩き、「落ち着け」と言い続けている。
やがて興奮が収まったように、馬は二、三歩たたらを踏んで、動かなくなる。
興奮にぎらついていた黒い瞳は、落ち着きを取り戻しているように見えた。
アンネリーゼは、腰が抜けてしまいその場に座り込んだ。
走ったせいで、ヴェールがはずれて素顔が晒されてしまっている。それにも気づかないぐらいに、体が緊張して、そして疲れ果てていた。
アンネリーゼは、ぼんやりとパーシヴァルを見つめる。
馬に乗る彼は、秋の日差しの下で輝いている。あまりにも、勇敢で立派な姿だ。
彼に──救われた。
瞳に涙の膜がはる。呼吸の仕方を忘れてしまったかのような息苦しさに、喘ぐような息をついた。
自分でも気づかないうちに、息をとめていたようだ。今更、体が小刻みに震える。
アンネリーゼの腕の中で少女が、「おねえちゃん、だいじょうぶ?」と、拙い口調で尋ねてくる。
きつく抱きしめていた彼女を、アンネリーゼは腕の中から解放した。
すぐに彼女の兄と思しきアンネリーゼと同年代程度の青年が駆け寄ってきて、少女をその腕に抱いた。
「あ、ああ、あ、ありがとうございます……っ」
壮年の男が、這いずるようにパーシヴァルの元に駆けてくる。
腰を抜かしていた御者だ。彼は真っ青になりながら、パーシヴァルの前に膝をついて石畳に頭を擦りつけるように礼をした。
「礼はいい。なにか、馬が驚くようなことがあったのか?」
パーシヴァルは馬から降りると、馬の綱を持つように彼に促す。
御者が馬の綱を持っても、馬は落ち着いたままだった。彼は馬の額を撫でる。
「いえ、突然……なにがなんだか」
パーシヴァルはアンネリーゼの元にやってきて、手を引いて立ちあがらせてくれる。
彼の腕に体を預けながら、アンネリーゼは周囲を見渡した。
アンネリーゼたちを多くの人々が取り囲んでいる。
人々の怒りは、馬や御者に向いている。少女を片腕に抱えた青年も、明らかに怒りの形相で御者を睨んでいた。
「なにがなんだか、ではすまない。レヴィは死ぬところだったんだぞ!」
「こ、これは、アレックス様……っ、もうしわけありません……っ」
人々から「領主様のご子息だわ」という声が聞こえる。
アレックス・ルーゼデニアは、セゾンリーブス一帯を治めている伯爵家の息子である。
その名だけは、アンネリーゼは知っていた。両親が世間についてはある程度教えてくれていたからだ。
レヴィとは、レヴィーナという名の彼の年の離れた妹である。
彼女が生まれた時にはセゾンリーブスはお祭り騒ぎだったというが、アンネリーゼは覚えていない。そのころはきっと、森の中から出ることはなかったのだろう。
「あ、あの……怪我をした方は、いらっしゃいませんか? もしいるのなら、手当を……」
御者を糾弾する前に、やることがある。
アンネリーゼは薬師だ。人を助けるのが務めだと、震える体を叱咤してパーシヴァルの腕の中から抜け出した。
「ありがとう、魔女さん、皆無事だ!」
「そこのえらく美形な兄さんがすぐに馬をとめてくれたから、被害が少なくてすんだ。壊れた机やら店やらはあるが、大丈夫だよ」
人々の中から、市場の商売人たちが答えてくれる。アンネリーゼはほっと胸をなでおろした。
それから、アレックスの前にすすみでる。
緊張で息が詰まるが──伝えなくてはいけない。
このままでは、馬は処分され御者は罪に問われるだろう。
アンネリーゼの予想が正しければ、彼らには罪はない。彼らは、被害者だ。
「ルーゼデニア様、怪我人はだれもいなかったようです。確かに馬を暴走させた彼に責任はありますが、一概に、彼の責任だけともいいきれません。セルニアの花を、街の花壇に植えていますよね」
できるだけ冷静な口調を心掛けて、アンネリーゼはアレックスに伝える。
話しながら、花壇を指さした。馬車道の横に並んでいる花壇に、青い花が揺れている。
「あ、あぁ。レヴィの好きな花だ。だから、植えさせた。これだけ植えるのに、三日かかった」
「うん。あのお花、青くて可愛い! 私のくまちゃんも、ニアって言うのよ」
レヴィーナは両手に抱えたくまのぬいぐるみを、アンネリーゼに見せながら言う。
アンネリーゼは彼女に向かい微笑んだ。彼女にも罪はない。
知らなかっただけだ。アンネリーゼも、ここまでの効果があるとはわからなかった。
「セルニアの花には、興奮作用があります。ただ生えているだけでは人に害はありませんが、煮出して薬にすると、小瓶ひとつで一晩は眠れないほどの強い効果です。動物は香りに敏感です。ここまで多くの花が植えられていると、香りだけでも興奮する可能性があります。馬が暴れたのはそのせいかもしれません」
一週間前にはなかった花と馬の暴走は無関係ではないだろう。
馬は賢い動物だ。理由がなければ暴れたりはしない。アンネリーゼも、風に乗って届いてくるセルニアの甘ったるい香りを感じるほどだ。
人間よりも嗅覚の鋭い動物であれば、なんらかの影響が出てもおかしくはない。
「では、君は伯爵家に責任があるというのか?」
睨みつけられて、怖気づきそうになる心を叱咤する。
ワーグナーの薬師として、できることをしなくてはと、自分に言い聞かせた。
「そうではありません。私も今日までここまでの影響があることを知りませんでした。動物によって個体差もありますから、全ての馬が興奮しているわけではありませんので、この子はきっと敏感なのでしょう」
アレックスは難しい表情で腕を組む。
それから、深く息を吐き出した。人々が固唾をのんで見守る中、今にも御者を罰しそうなほどの怒りを鎮めて、アンネリーゼの前で胸に手を当てて礼をした。
「そうか、ありがとう。セルニアの花は全て抜くように指示する。それに……人命救助が先だった。皆の無事を確認してくれて、そして……レヴィや人々を救ってくれて、感謝する」
レヴィーナも、「おねえさん、ありがとう!」と、大きなくまのぬいぐるみの陰に隠れるようにしながら、恥ずかしそうに微笑んだ。
「御者の罪は不問に。壊れたものの修理は、我がルーゼデニア家が保証しよう。皆を危険な目に合わせた罪は、僕にある。本当に、すまなかった」
アレックスは人々に頭をさげた。
人々は、「そんな、アレックス様に謝ってもらうことでは」と恐縮する。
アンネリーゼは安堵の息を吐いた。アレックスがものわかりのいい男でよかった。




