第9話 さよなら、あの頃の俺
肉体を極限まで鍛え上げることと平行して、俺はもう一つの狂気に取り憑かれていた。
それは、勉強だ。
部屋の隅に追いやられていた小さな学習机。埃をかぶっていたそこに、俺は母さんに買いに行かせた難関大学受験用の参考書や問題集を積み上げた。
筋トレで肉体が限界を迎え、腕が千切れるような激痛で動かなくなると、俺は机に向かった。汗と血が混ざり合った泥のような体で椅子に腰掛け、分厚い参考書を開く。
英語、数学、国語、物理、化学、世界史——。
高校の授業など一ヶ月以上受けていないため、不登校の俺には、学校のペースなど知ったことではなかった。ただ、目の前にある高難易度の参考書を、頭から丸暗記するように貪り読んだ。
「……っ、ぐ……」
ペンを握る右手の拳は、筋トレと壁を殴ったせいで皮膚が裂け、痛々しく腫れ上がっていた。
まともにペンを握ることすら激痛が走る。だが、その痛みがまた良かった。痛む拳で必死に文字を書きなぐり、知識を脳に叩き込み、英単語をひたすら暗記していく。
なぜ勉強なのか?
それは自分でも分からなかった。大学に行きたいから? 将来のため? そんな真っ当な希望など、今の俺には一微塵も存在しなかった。
ただ、「あいつらのことを考える時間」をゼロにしたかったのだ。
一瞬でも脳みそに隙間ができると、あいつらが侵入してくる。
雨の日の真央のあの冷たい瞳。
翔太の下品な嘲笑と、清楚な真央がカメラの前で崩れ落ちていくあの悪夢のような動画。
思考がそっちへ傾きかけると、俺は頭を狂ったように机に叩きつけた。
ゴツン! ゴツン! と額を血が滲むまで叩きつけ、無理やり意識を目の前の数式や英単語へと引き戻す。
(覚えろ……解けよ……頭を埋め尽くせよ……!)
理解できない問題があれば、解法を丸ごと暗記した。英文法が分からなければ、例文を数百個丸暗記した。
肉体をトレーニングで破壊するように、俺は己の脳を過剰な知識で埋め立てることで、今までの「感情」を殺そうとしていたのだ。
夜が明け、外が明るくなっても、カーテンを閉め切った暗闇の部屋の中で電球の明かりだけが机を照らしていた。
母さんが置いていく食事を、俺は勉強しながらも口へ運んだ。ゆで卵を口に放り込み、プロテインで流し込む。
「陸……勉強してるの……?」
ある日、ドアの隙間から覗いた母さんが、信じられないものを見るような声で呟いた。
ゴミ溜めのような部屋の中で、上半身裸のまま血の滲む手で猛然と参考書をめくる息子の姿。
そこには「哀れな息子」などではなく、勉強という手段で生まれ変わる息子がいる。
俺は母さんの方を振り返りもしなかった。
「……あいつらなんかに、負けるか……」
俺は小さく呟いた。
桐島翔太は、勉強などハナからバカにしてやってこなかった奴だ。暴力と悪知恵、そして他人の弱みを握ることだけで生きている男だ。
あいつは世の中のルールすら笑い飛ばし、力だけですべてを奪っていく。
対して、俺は力もなければ、突出した頭脳も、持ち得なかった。だから奪われたんだ。
(俺は、すべてを手に入れる……)
圧倒的な肉体と、誰も文句を言えない頭脳。その両方を極限まで鍛え上げた時、俺ははじめてあいつらと同じ地平に立てるような気がした。
いいや、違う。あいつらを見下ろし、踏み潰すための高みに登れるのだと、暗闇の中で信じたかった。
「……ふぅ……」
深夜三時。
数学の難問集を一冊解き終えた俺は、深く息を吐きながらペンを置いた。腫れ上がった手の甲からは、また新しい血が滲んでいた。
「……」
ふと、勉強机の引き出しの奥に目が行く。
そこには、かつて真央と交換日記をしていたノートや、放課後に一緒に買ったお揃いのシャープペンシルが眠っていた。
俺はゆっくりと引き出しを開け、それらを取り出した。
白石真央。
清楚で、おしとやかで、俺の初恋のすべてだったはずの幼馴染。俺たち二人を優しく包み込んだ、あの陽の光の下の記憶。
「……いらない」
俺は躊躇なく、交換日記をビリビリと素手で引き裂いた。
ノートが、細かく破り捨てられていく。お揃いのシャープペンシルも、俺が「バキッ」と真っ二つに折ってやった。
思い出に浸る余地など、今の俺には一ミリもいらない。かつての優しさも、愛おしさも、すべては俺を弱くするための毒でしかなかった。
破り捨てた紙くずをゴミ箱に投げ捨て、俺は再び新しい参考書を開いた。
筋肉が悲鳴を上げたら、勉強をする。
脳が疲弊して痛むようになったら、腕立て伏せをする。
絶望を燃料にした地獄のようなループの中で、俺の心は急速に冷え固まり、結晶化していった。
俺はあいつらなんかと違う。今はただ、過去の弱さを克服するために動き続けるんだ。




