第10話 新天地
暗闇の中で刻み続けた時間が、どれほど経ったのかはもう分からなかった。
閉ざされた六畳間。カーテンの隙間から差し込む光の角度が変わるだけで、俺にとっては朝も昼も夜も関係がなかった。
ただ、肉体を破砕するように追い込む自重トレーニングと、脳を麻痺させるための苛烈な勉強。その二つだけが、俺の死んだ息を繋いでいた。
だが、自重トレーニングの負荷には限界があった。
部屋にある重い辞書や本棚を背負ってスクワットをしようが、腕立て伏せの回数を数百回、数千回に増やそうが、肉体は徐々にその刺激に慣れてしまう。
自分の体重だけでは、俺の胸の奥で煮えたぎる殺意と屈辱を燃やし尽くすには、あまりにも軽すぎたのだ。
筋肉は太くなった。胸板も分厚くなり、鏡の中にはかつてのひょろひょろとした俺の面影などどこにもない。
だが、この肉体はまだ「ただの塊」に過ぎない。
あの雨の日、翔太に刃物を蹴り上げられた時の、あの圧倒的な「暴力の落差」。
どれだけ一人でトレーニングをしたところで、人を破壊するための術や、人の骨を挫き、肉を砕き、命乞いをさせるための「実戦の術」を知らなければ、あいつを完膚なまでに叩き潰すことはできない。
ただ筋肉がそこにあるだけでは的になるだけだ。俺に必要なのは、人を屠るための術だ。
「……そろそろか」
俺は呟き、ゆっくりと立ち上がった。
床に散らばったゴミを踏みつけ、鏡の前に立つ。
割れた鏡の破片に映る自分の顔。
首筋は太く角張り、頬の肉は削ぎ落とされ、その鋭い眼光には生気のかけらもなかった。
だが、そこには確実に、人を喰らい尽くす準備の整った獣の顔があった。
俺はクローゼットの奥から、数ヶ月間一度も袖を通していなかった黒の長袖パーカーとスウェットパンツを取り出し、身体に巻き付けた。
サイズが明らかに小さくなっていた。鍛え上げた背筋と胸筋が生地を内側から強く圧迫し、悲鳴を上げる。
カチャリ、とドアの鍵を内側から外した。
重い木製のドアが、キィと悲鳴を上げて開く。
──ああ、何ヶ月ぶりかに浴びる廊下の蛍光灯の光が、網膜を刺すように眩しかった。
足音を殺して階段を下りる。
リビングからは、テレビの音と、母さんが包丁でトントンと野菜を刻む音が聞こえていた。
俺がリビングの引き戸を開けると、その音が一瞬でピタリと止まった。
「……え」
キッチンに立っていた母さんが、小さく短い悲鳴を上げて後ずさった。包丁を握った手がガタガタと震えている。
ソファで新聞を開いていた父さんも、固まったまま新聞紙を破らんばかりの力で握りしめていた。
両親の目に映っていたのは、長期間部屋に閉じこもり、暴れて家を破壊していた狂暴な息子だった。
だが、今の俺から漂う空気は、以前のような感情的な荒れ方とは決定的に異なっていたはずだ。静かで、冷たく、触れれば指が凍りつくような、圧倒的な不気味さ。
「え……陸……? あなた、部屋から……」
母さんの声が震えている。俺は母さんにも父さんにも視線を合わせず、玄関へ向かって淡々と歩みを進めた。
「おい……どこへ行く気だ、陸!」
父さんが意を決したように立ち上がり、重い声を張り上げた。
「お前、学校はどうするんだ! もう何ヶ月休んでいると思っている! このまま引きこもって、親の前で暴力を振るい続けて、我が家を壊す気か!?」
父親としての威厳を保とうとする絞り出した声。だが、その足元が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。
俺は靴箱から、すっかり小さくなったスニーカーに足を突っ込み、ゆっくりと振り返った。
父さんと母さんの身体が、ピクッと跳ね上がる。俺は二人の顔を冷ややかに見下ろし、掠れた、低い声でひと言だけ告げた。
「格闘技を習う」
「は……? 格闘技……!?」
父さんが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「何をバカなことを言っているんだ! 勉強もせず、学校にも行かず、そんな野蛮なものに逃げてどうする! お前が今やるべきなのは——」
「うるさい」
俺の短く低い一言が、父さんの言葉を強引に遮えぎった。
「金なら、俺の口座に貯めてあったバイト代と小遣いを使う。あんたらには一切迷惑はかけないから。文句があるなら、俺を力ずくで部屋に押し込めてみろよ」
俺はそう言うと、右手の拳を硬く握りしめた。
パキ、と指の関節が異常な音を立てる。何度も壁を殴り、床に叩きつけて角質が化け物のように変質した、傷だらけの無骨な拳。
その拳を見つめた父さんは、ゴクリと唾を飲み込み、それ以上言葉を発することができなくなった。恐怖が、父親の威厳を完全に打ち砕いていた。
決して、親を脅すために鍛えたわけではない。内心、申し訳なくも思っている。だからこそ、あいつをぶっ飛ばす必要があった。
「行ってくる」
俺はかつて恐れていた外への扉を開け、外の世界へと足を踏み出した。
外の空気は、冷たく澄んでいた。
太陽の光が目に沁み、思わず目を細める。
数ヶ月ぶりに歩く住宅街の景色。隣の真央の家が目に入ったが、俺の心は動かなかった。
あの家の記憶は今の俺にとってはすべて「翔太を叩き潰すための燃料」でしかなかった。
俺の足は、迷うことなく特定の場所へと向かっていた。引きこもっている間、深夜のスマホで調べ上げていた場所だ。
この街の裏手、歓楽街の端に位置する、知る人ぞ知る地下格闘技ジム。
──『キックボクシングジム ALIVE』。
華やかな大手フィットネスクラブのようなものではなく、プロ志向の選手や、街の粗暴な喧嘩自慢が集まり、毎夜血と汗を流していると噂される地獄のような場所だった。
俺はルールに守られたスポーツを習いたいわけではない。そのため普通のアマチュアジムではダメだった。
俺が知りたいのは、人を最も効率よく破壊する技術だ。
二十分ほど歩き、歓楽街の薄暗い路地裏へと入っていく。
雑居ビルの地下へと続く古い階段。壁には落書きが殴り書きされ、下からはドスドスという重い打撃音と、男たちの荒い掛け声が響いてきていた。
階段を下りきると、錆びついた鉄扉が半開きになっていた。
扉を押して、俺は『ALIVE』の中へと足を踏み入れた。
室内は、熱気と殺気で蒸せ返っていた。
蛍光灯がむき出しになった低い天井。床には使い古された赤いマットが敷き詰められ、部屋の中央にはロープがたるんだ無骨なリングが設置されている。
吊り下げられた巨大なサンドバッグを、刺青の入った男たちが獰猛な掛け声とともに叩き込んでいた。バシィン! バシィン! と、骨が砕けるような重い音が部屋中に響き渡っている。
「……あぁ? なんだお前」
奥の事務スペースから、丸坊主で首の太い、ベテランのトレーナーらしき男が歩み出てきた。鋭い眼光で俺の全身を舐めるように見回す。
「見学か? うちのジムは冷やかしお断りだぞ。ボクササイズ目当てなら、駅前の綺麗なジムへ行きな」
男は吐き捨てるように言った。
俺はパーカーのフードを外し、まっすぐに男の目を見つめた。
「入会したい」
「はあ?」
男は俺の顔、そして服の上からでも分かる分厚い胸板と太い首筋に目をとめた。だが、それ以上に男の足を止めさせたのは、俺の「瞳」だった。
「……何が目的だ。強くなってモテたいとか、ダイエットしたいとか、そういう甘いツラじゃねえんだな」
男の声から、冷やかしをあしらうような軽さが消えた。格闘技の世界で生きてきたからこそ、本能的な危機察知能力が働いているようだった。
俺はポケットから、あらかじめ引き出してきた金を掴み、無造作に受付のカウンターへ叩きつけた。
「強くなりたいわけじゃないが……」
俺は低く、平坦な声で答えた。
「人を、壊す方法を教えてほしい」
ジム内の打撃音が止まり、しんと静まり返る。
サンドバッグを叩いていた数人の男たちが手を止め、怪訝そうに、血生臭い笑みを浮かべながらこちらを振り返る。
トレーナーの男は、カウンターの上の札束と、俺の傷だらけの拳を交互に見つめた。
そしてすぐに、ニヤリと口元を歪めた。その笑顔には、情赦も手加減もなかった。
「いい目だな、ガキ。復讐か、それともただ狂っているだけか」
男は札束をサッと手元に引き寄せると、奥の棚から古びたバンテージを取り出し、俺の胸元へ投げつけてきた。
「ALIVEへようこそ。ここでは誰も手加減してくれねえぞ。死にたくなきゃ、死ぬ気で殴れよ」
俺は受け取ったバンテージを手に握り締め、マットの中央へと歩み出た。
鼻をつく汗と血の匂い。
これが、俺の新しい居場所だった。
初恋を奪われ、言葉を奪われ、すべてを踏みにじられたあの雨の日から。
指一歩動かせなかった弱小な俺は、絶え間ない努力を重ね続け、過去の因縁を完璧な暴力で塗り潰すためだけの、無慈悲な鍛錬の日々を始めた。




