第11話 心の拠り所は……
『ALIVE』での日々は、人間性を削ぎ落とすための拷問に近しいものだった。
「腰が入ってねえぞ、おら! 人を壊したいなら、まず自分の腕を折る気で打ち込めッ!」
ジムの会長である黒川の声が響く。俺は言われるまま、拳の皮が破れ、血がバンテージにじわりと染み出すのも構わず、肉厚なサンドバッグに右ストレートを叩き込み続けた。
ドスンッ! ドスンッ!
ひたすら暗闇の部屋で一人、自重トレーニングを重ねてつくりあげた筋肉は、確かに人並み外れた馬力を生み出していた。
とはいえ、打撃の軌道、体重の乗せ方、相手の顎を打ち抜いて脳を揺らす角度を知らない俺に——『ALIVE』の連中は、俺にそれを無慈悲な実践の中で叩き込んだ。
スパーリングでは、喧嘩自慢やプロくずれの男たちも、もちろんいる。
あいつらには何度も鼻骨を折られ、肋骨にヒビを入れられた。だが、俺は痛みに倒れ伏すたびに笑ってやった。
痛みが走るたび、胸の奥で翔太への殺意が鋭く研ぎ澄まされていくのが分かったからだ。
「おいおい、また顔面血だらけでニヤついてんのかよ。気味が悪いよ、陸兄」
背後から、はつらつとした少女の声が聞こえた。
バンテージを解きながら振り返ると、ジムのリングサイドに腰掛け、運動靴の先をぶらぶらと揺らしている小柄な影があった。
鹿島吏音。
俺より二つ年下——高校一年だという少女。
短く切り揃えられた金髪に、何箇所も開けられた耳のピアス。ダボついた黒のウインドブレーカーの裾からは、華奢だが引き締まった白い足が覗いている。
この界隈の暴走族や不良たちの間では「ALIVEの狂犬」なんて二つ名で恐れられている、筋金入りの不良少女らしいが。
「……吏音か」
「『吏音か』じゃねえよ。ほら、タオル。額の血が目に入ってんぞ」
吏音は投げるように古びたタオルを渡してきた。俺は黙ってそれを受け取り、顔の血を拭う。
吏音もまた、家庭環境の劣悪さからこのジムに拾われ、男顔負けの鋭いミドルキックで大人を沈めてきた異端児だった。
だが、ただ暴力を振るうだけの他の不良どもとは違い、彼女の瞳には冷徹なまでの客観性と、どこか冷めた知性が宿っていた。
「相変わらずいい打撃だけどさ。お前のパンチには『とてつもない殺意』が交ざってんだよな」
吏音はリングから飛び降りると、俺の前に歩み寄り、傷だらけの俺の右拳を無造作に掴み上げた。
「これさぁ、人を殴る拳じゃねえよ。自分ごと殺すための拳だ。なぁ陸、お前さ……誰を殺したくてそんな目してんの?」
「……お前には関係ない」
俺は素っ気なく手を振り払おうとしたが、吏音は驚くほど強い力で握り返してきた。
「関係なくないね。お前みたいなバカがジムで人を殺して警察に捕まったら、あたしたちの練習場所がなくなるだろ。……聞かせろよ。お前のその重く苦く腐った殺意の理由をさ」
「……」
吏音のまっすぐな瞳が、俺の眼光を射抜く。
俺はもう、誰とも話す気などなかった。父さんにも、母さんにも言えなかった地獄。だが、どこか自分と同じように「世界の底」を見てきたような吏音の佇まいに、俺はポツリ、ポツリと語り始めていた。
初恋相手の真央のこと。俺が殺してやりたいほど憎んでいる翔太のこと。
二人が俺の知らん場所で密会し、脅迫と絶望の果てに真央が性欲と快楽へと溺れていったこと。
送られてきた動画のこと。
そして、雨の日に面と向かって突きつけられた『満足できない』という残酷な拒絶も。
すべてを話し終えた時、ジムの中には夕暮れの薄暗い静寂だけが残っていた。
俺は自分の拳を見つめ、低い声で吐き捨てた。
「俺は、あいつを殺すためにここに来た。あいつの顔面を叩き潰して、俺を超える絶望の中で死なせてやる。そのためなら、俺の人生がどうなったって構わないんだよ」
それが今の俺の生きる理由だった。暗闇の部屋で腕立て伏せをしていた時から、俺の命は復讐のためだけに残されていたのだ。
だが——。
パシィンッ!
乾いた音が響いた。
吏音が、俺の頬を思い切り平手打ちしたのだ。
「……いてぇよ」
「バカじゃねえの」
吏音は頬を赤くした俺を、呆れたような、そしてどこか怒りを孕んだ目で見下ろしていた。
「そんな糞餓鬼と、頭が壊れた女のためだけに、お前の人生を差し出すわけ? 殺して刑務所入って、お前の人生は終わり? ハッ、相手は大喜び、思う壺じゃん。奪った女の股開かせた上に、お前の人生までブチ壊せたんだからさ」
「俺は……っ」
「静かにしろよ、なぁ」
吏音は俺の胸を、人差し指で強く突いた。
「そいつを殺すために殺意なんか込めてるから、動きが重くなるんだよ。そんな奴のために自分が落ちぶれてやる必要なんてどこにある? 本当に復讐したいなら——同じリングに立たせろよ」
「……リング?」
「そうだよ。ストリートでも、試合でもなんでもいい。お前が圧倒的な『格闘家』になって、大勢のギャラリーの前で、ルールのある場所で、逃げ場のない状態で合法的にあいつの骨を全部折ってやればいいんだよ。見世物にして、プライドも、身体も、全部合法的に叩き潰せ。それが一番の地獄だろ?」
吏音の言葉が、俺の頭の中に雷鳴のように轟いた。
殺して、自分が捕まって終わり。それはただの「負け犬の心中」だ。
だが、吏音の言う通り、圧倒的な力を持って相手を同じ土俵に引きずり下ろし、合法的な暴力を以て見世物として破壊する——それこそが、翔太に対する最大の絶望だ。
「……お前、不良のくせに、変なところで冷静なんだよな」
俺の口から、久しぶりに小さな苦笑が漏れた。
自分でも驚くほど、心がふっと軽くなった気がした。殺意という泥に塗れていた脳に、冷たく澄んだ酸素が流れ込んでいくような感覚。
「はぁ?なによ。あたしは頭の悪い暴走族と一緒にされたくないだけ。……つーか、笑えるんじゃん。」
吏音はフンと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「とりあえず……、今のあなたには、圧倒的に理性が足りないの。殺意だけで動く獣は、すぐ殺される。社会的にもね。」
「……いや、お前はどうなんだよ」
俺が呆れたように言うと、吏音は「うるさいっ!」と俺の腹に軽い前蹴りを叩き込んできた。
それから、俺と吏音の関係は少しずつ変わっていった。
ジムでの激しい練習が終わると、俺たちは雑居ビルの屋上で風に当たりながら、缶コーヒーを飲むようになった。
俺は、高校を不登校になってから独学で叩き込んだ受験勉強の知識を使って、勉強が苦手な吏音に高校の勉強を教えるようになった。
「いいか吏音、この英文法は過去完了形だから、過去のある時点までの状態を表してて……」
「うわ……頭痛くなってきた。陸、教えるの上手いけど、真面目すぎてツマンナイヨ」
「文句言うな。ここ解けないと、次のテスト赤点だぞ」
参考書を広げる俺の横顔を、吏音はジュースを飲みながらじっと見つめていた。
「なぁ、陸」
「なんだ?」
「お前さ、本当はすごく優しい奴なんだな」
吏音の言葉に、俺はペンを止めた。
「優しい? 俺が……? 冗談だろ。俺は自分の初恋も守れなかった、ただの弱虫だ」
「違うよ」
吏音は屋上のフェンスに背中を預け、夕焼け空を見上げた。
「本当に心が腐ってる奴は、自分の大切なものを奪われたからって、そんなに深く絶望しない。お前がそれだけ苦しんだのは、それだけ相手を真っ直ぐ愛してたからだろ。……あたしには分かるよ。お前の根っこにあるのは、殺意じゃなくて、壊されちゃった『優しさ』なんだよね」
胸の奥が、熱く絞めつけられるようだった。
真央にも、両親にすら「恐ろしい」「親不孝」として見放された俺の根底を、吏音だけが、まっすぐに見つめてくれていた。
吏音と過ごす時間が、俺の心にかかった靄を振り払っていく。
吏音に勉強を教え、吏音から人間としての理性と呼吸を取り戻させてもらう日々。
(……ありがとう、吏音)
引きこもりから脱し、俺の肉体と精神は、かつてないほど高く、鋭く、研ぎ澄まされていっていた。




