第12話 あいつはなぜ
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陸が学校から姿を消して、二週間が過ぎようとしていた。
この教室は、何事もなかったかのように賑やかだった。放課後のチャイムが鳴り響き、夕暮れ色の光が窓から差し込み、生徒たちが笑い合いながら鞄に教科書を詰め込んでいる。
その平和で呑気な光景の中で、一つだけ異質な静寂を纏っている席があった。
一番窓際の、一番後ろの席。
そこには、白石真央が一人でポツンと座っていた。
黒髪のボブカット、第一ボタンまで隙間なく留められた真っ白な制服のブラウス、折り目の正しい紺色のスカート。
誰が見ても「清楚で可憐な優等生」そのものの佇まい。だが、今の彼女からは、周囲を寄せ付けない冷ややかな冷気が漂っていた。
そんな真央の姿を、教室の出入り口の影からじっと見つめている男がいた。
別クラスの生徒、鎌田琉生だ。
(……蓮見の奴、今日も来なかったな)
鎌田は握りしめた鞄の持ち手に力を込めた。
鎌田はずっと、蓮見陸という男が嫌いだった。
特別に背が高いわけでもなく、喧嘩が強いわけでもない、地味で冴えない男。それなのに、なぜかこの学年一番の美少女である白石真央と、いつも楽しそうに笑い合っていた。
放課後に二人で駄菓子を分け合い、図書室で並んで勉強をする。純粋で、清潔で、どこまでも甘い二人の世界。
鎌田は、その光景をいつも激しい嫉妬と羨望の眼差しで遠くから眺めていたのだ。
(あんな冴えない奴のどこがいいんだ。俺なら……俺なら、真央ちゃんをもっと大切にできるのに)
真央は、鎌田にとって「理想の女」だった。
泥臭い男子高校生の妄想や欲情を一切受け付けないような、どこまでも白く、気高く、美しい高嶺の花のような存在。
そんな彼女の隣に立つのにふさわしいのは、陸のようなヘタレではなく、自分のように彼女を神聖視できる人間だと、鎌田は本気で信じ込んでいた。
だからこそ、陸が突然不登校になったと知った時、鎌田の胸の奥で浅ましく歓喜に跳ね上がった。
(蓮見が消えた……! ついに、あの邪魔者がいなくなったんだ!)
理由はともかく、陸がいなくなれば、傷ついた真央の心を救うのは自分の役目だ。落ち込んでいる彼女に優しく声をかけ、寄り添い、少しずつ自分を特別な存在として意識させていく。
そんな甘いシナリオが、鎌田の頭の中で何度も描かれていた。
「……よし」
鎌田は意を決して教室へと足を踏み入れ、真央のデスクの前へと歩み寄った。
「あの……白石さん」
真央の肩が、ピクッと小さく跳ね上がった。
彼女はゆっくりと顔を上げた。夕暮れの赤い光が彼女の透明感のある肌を照らし出している。
その顔立ちは相変わらず息をのむほど美しかったが、その瞳を見た瞬間、鎌田の背筋にひやりとしたものが走った。
光が、瞳にハイライトがなかった。
かつて陸と話していた時に見せていた、あの柔らかで愛くるしい瞳の輝きが、完全に消え失せていた。
まるでそれは日本人形のように不気味でそれでいて、美しい瞳。底知れない空虚と、どこか深い泥の底に沈んでいるような濁りが、その瞳の奥に不気味に揺らめいていた。
「……なに?」
真央の声は、鈴の音のように美しかったが、そこには一切の感情が乗っていなかった。
鎌田はゴクリと唾を飲み込み、精一杯の優しい笑顔を張り付けた。
「あ、急に話しかけてごめんね。隣のクラスの鎌田って言うんだけど……その、蓮見のことなんだけどさ。もう二週間も休んでるでしょ? 白石さん、蓮見と仲良かったから、何か聞いてるのかなって思って……」
鎌田としては、陸の話題を出すことで「一緒に陸の心配をする」という共通の立場を作り、距離を縮めるつもりだった。
だが、「蓮見」という名前を口にした瞬間、真央の表情が微かに歪んだ。
「……」
「……別に。何も聞いてないし、どうでもいいよ」
真央は冷たく言い放つと、視線を手元の教科書へ戻した。
「え……どうでもいいって……あいつ、白石さんの大切な幼馴染じゃないの? クラスでもみんな心配しててさ——」
「しつこいよ、君」
真央の低い一言が、鎌田の言葉を遮った。
真央は顔を上げないまま、機械的な動作で鞄のジッパーを閉めた。
「蓮見陸がどうなろうと、私には関係ないの。あんな弱くて惨めな奴のこと、もう二度と私の前で口にしないで」
毒を含んだ声だった。
かつての真央なら、絶対に口にしないような侮蔑と冷酷さに満ちた言葉。鎌田は一瞬、耳を疑った。
自分の憧れていた「心優しい理想の女」が、かつての愛しい人に対してこれほどまでに酷い言葉を吐くなど、想像すらしていなかった。
(な……なんだ? 何があったんだ……?)
動揺する鎌田の目の前で、真央はゆっくりと立ち上がった。
その時だった。
真央が鞄を肩にかけようと腕を上げた瞬間、制服のブラウスの襟元がわずかに引っ張られ、彼女の白い首筋が露出した。
「あ……」
鎌田の息が止まった。
夕暮れの光が照らし出した真央の白い首筋。
そこには、明らかに人間の歯で噛まれた紫色の痛々しい痕——そして、幾重にも重ねられた濃いキスマークが、毒々しく残されていた。
さらに、ブラウスの袖口から覗く華奢な手首には、何かで強く縛られたかのような、薄っすらとした赤い腫れの痕すら見えた。
(な……んだ……あれ……?)
鎌田の頭の中が、真っ白になった。
キスマーク。噛み痕。拘束の痕。
どれも、高校生同士の初心な行為でつくようなものではない。それは、明らかな暴力と、強烈な性的な支配によって刻まれた「所有印」そのものだった。
陸と真央の関係は、そんな淫らでドロドロしたものじゃなかったはずだ。手すら滅多に握らない、純粋そのものの関係だったはずだ。それなのに、なぜ——。
「……白石さん、その首の……それ、どうしたの……?」
意を決して問いかけた鎌田の声が激しく震えた。指をさそうとした手が、恐怖とショックでガタガタと揺れる。
真央は鎌田の視線に気づくと、ハッとしたように手元で素早くブラウスの衿元を整えた。第一ボタンをさらに強く締め直す。
だが、彼女の顔に「見られた」ことに対する羞恥や動揺の色はなかった。
ただ、どこか自虐的で、絶望に破滅したような、冷ややかな嘲笑がその薄い唇に浮かんでいた。
「……見ないで」
「誰に……誰にそんなことされたの!? 蓮見か!? あいつが無理やりそんなことを——」
「違う!!!」
真央が突然、教室に響き渡るような金切り声を上げた。
鎌田はビクッと体を硬直させた。
真央は呼吸を乱しながら、血の引いた顔で鎌田を激しく睨みつけた。その目には、陸への強烈な拒絶と、そして——恐ろしいほどの依存の色が混ざり合っていた。
「陸なんかに……あんな童貞に、そんなことできるわけないでしょ……!」
「じゃあ……じゃあ誰なんだよ……! 白石さん、君はそんな……そんな汚い真似をするような人じゃ——」
「うるさい!!!」
真央は鞄を強く抱きしめると、鎌田を押ししのけるようにして、逃げるように教室を飛び出していった。
パタパタと廊下を遠ざかっていく真央の足音。
誰もいなくなった放課後の教室で、鎌田は一人、夕暮れの光の中に立ち尽くしていた。
(汚い……のか?)
鎌田の脳裏に、先ほど見た真央の首筋の生々しい噛み痕が、焼き付いて離れなかった。
真央は、陸を捨てたのだろう。
そして、別の「誰か」に、あの清楚で完璧だった身体を差し出し、淫らに汚されている。
陸との清らかな関係を羨んでいた自分の純情は、一体何だったのか。自分が神聖視し、遠くから崇めていた「理想の女」は、裏で男に惨めに買い叩かれ、壊されていくただの「汚い女」だったのか。
胸の奥で、カチリと何かが音を立てて外れた。
羨望が、激しい不信感へと変わり始める。
純愛が、濁ったドロドロとした憎悪へと姿を変えていく。
「白石真央……」
鎌田は拳を強く握りしめ、血が滲むほど爪を手のひらに食い込ませた。
「お前……許さないぞ……」
この憎悪は、あろうことか、理想の女であった真央に向いた。
夕暮れの静寂の中、鎌田の呟きは、誰にも聞こえない殺意の予兆となって、教室の暗闇へと溶けていった。




