第8話 穿てその意思で
床に滴り落ちた汗が、部屋の隅に溜まった埃と混ざり合って黒い汚れを作っていた。
「はぁ………はぁッ……!!」
極限まで追い込んだ大胸筋と三頭筋が悲鳴を上げ、限界を迎えた両腕が激しくガタガタと震える。
最後の一回を押し切ると同時に、俺は床に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ!」
荒い息が吐き出され、口の中には血が滲み、鉄の味が広がっていた。
砕けた右拳の皮膚から滲み出た血が、腕を伝って畳へと伝っていく。
腕の筋肉が焼けるように熱く、脈打つたびに鋭い痛みが奔走した。
だが、脳髄を焼き尽くすようなこの肉体的な苦痛だけが、頭の中に蠢くあいつらの嘲りを一時的に麻痺させてくれた。
痛みが必要だった。
自分を痛めつけ、筋肉を痛めつけ、骨を痛めつけることでしか、俺は正気を保つことができなかった。
(足りない……まだまだ足りない……!)
俺は床に顔を埋めたまま、荒い息を整える間もなく、這い上がるようにして上半身を起こした。
次は腹筋だ。
床に背中を打ち付け、両膝を折り曲げる。後頭部に両手を添え、腹直筋を意識しながら上体を折り曲げる。
「一……二……三……!」
意識を集中させろ。余計なことを考えるな。思い出せ。
目を閉じれば、暗闇の中に鮮明に浮かび上がる。夕暮れの街路灯の下、翔太の車へと吸い込まれるように乗っていった真央のあの横顔。
制服の袖口から覗いていた、痛々しい青あざと首筋の鮮烈な噛み痕。そして、あのハメ撮り動画。カメラのレンズを見つめながら、清楚な服を着たまま翔太の手の中で淫らに腰を振っていた真央の破滅した姿。
「……二十……二十一!」
腹筋に強烈な痛みが走る。呼吸が詰まり、腹の底から沸々と憎悪が煮え滾り、熱い吐き気が込み上げてくる。
そうだ、その痛みだ。
あの時、俺が指一歩動かせず、足元で踏みつけられて泣くだけだったのは、俺の肉体が弱かったからだ。
俺がひょろひょろの、害にも毒にもならない「雑魚」だったから、翔太は俺から真央を奪うことを最高の余興として楽しんだのだ。
真央だってそうだ。弱くて、頼りなくて、いつまでも「両思い」だなんてぬくぬくして、一歩も踏み出せなかった俺に見切りをつけ、自分を恐怖とその快楽で強引に破壊してくれる翔太の肉体に溺れていったのだ。
『陸じゃ、もう満足できないの』
「くそッ!!」
頭の中で真央の声が響くたび、腹筋を押し上げるスピードを早めた。
自分の体が千切れても構わない。骨が折れても構わない。
そう思うほど俺は自分の中にある「蓮見陸」という弱小な存在を、自分で完全に砕き潰したかった。
「……っ、はぁ……!」
体が限界を告げ、背中から床へ倒れ込む。天井の照明が、汗で濡れた視界の中で歪んで見えた。
全身から汗が噴き出し、着ているTシャツは水滴を絞れるほどに重く湿っている。
引きこもり始めてから、俺はまともな食事をとっていなかった。
母さんがドアの前に置いていく食事は、あまり手を付けられず、腐る前に廊下へ押し戻すか、一口二口だけを無理やり喉の奥へ流し込む程度。
栄養など完全に偏り、脂肪は落ち、あばら骨が浮き出るほどに痩せこけていた。
だが、この日を境に、俺の引きこもり生活を改め直した。自室の姿見を割ったあの日から、俺は部屋から一歩も出ないまま、トレーニングに溺れた。
朝起きて、腕立て伏せ。腹筋。背筋。スクワット。部屋の狭いスペースを利用して、思いつく限りの自重トレーニングを自分に課した。
「おい、陸……入るぞ」
数日前、父親が強引に鍵を開けて部屋に入ってきたことがあった。
長男が部屋で暴れ、学校にも行かず、家庭内暴力の兆候を見せたことで、ついに父親が強硬手段に出たのだ。
父親は腕捲りをし、威圧的な態度でドアを開けた。
「いつまでそんな無様な真似をしてるんだ! 学校に行かないなら叩き出して——」
父親の言葉は、途中でピタリと止まった。
薄暗いゴミと汗の臭いが充満する部屋の中で、俺は上半身裸で、黙々と腕立て伏せを続けていた。
以前のような、おどおどとして親の顔色を伺う息子の姿はそこにはなかったから。
汗で光る背中には、無理なトレーニングで鍛えられた薄い筋肉が浮かび上がり、床に滴る汗を無視して、機械のように一定の周期で上体を上下させている。
ゆっくりと顔を上げた俺の目を見た瞬間、父親は息を飲んだ。
俺の目には、生気がなかった。
ただ、狂気と殺意と、底知れない暗闇だけが濁って渦巻いていた。
「……何か用か?」
掠れた、低い声。
かつての息子の面影すらないその声と、射殺すような冷酷な視線に気圧され、厳格だったはずの父親が一歩後ろへ退がった。
「な……なんだ、その目は……」
「用がないなら、出ていけよ。邪魔だ」
俺は父親にそれ以上視線もくれず、再び床に手を突いて腕立て伏せを再開した。
父親はしばらく言葉を失って立ち尽くしていたが、やがてその場から立ち去った。
それ以来、両親が俺の部屋に土足で踏み込んでくることはなくなった。
ドアの前に置かれる食事の量が変わり、高タンパクな肉やゆで卵、プロテインの缶が置かれるようになった。
両親は俺を「まともな状態に戻す」ことを諦め、「鍛えさせる」ことを選んだのだ。
都合がよかった。
俺は出された食事を、無我夢中に食らいつき、胃袋に流し込んだ。タンパク質と炭水化物、筋肉に必要な栄養素さえ摂れればそれでよかった。
食っては、鍛える。
倒れるまで筋肉を追い込み、限界を迎えたら眠る。目が覚めれば、再び絶望と憎悪が脳を支配し、それを消すためにまた身体を動かす。
腕立て伏せは、一日数十回からさらに増やし続けた。
自重だけでは負荷が足りなくなると、部屋にある重い辞書や教科書をカバンに詰め込み、それを背中に背負って腕立て伏せをした。本棚を背中に背負い、スクワットを繰り返した。
一ヶ月が過ぎる頃には、ひょろひょろだった俺の腕は一回り太くなり、胸板には硬い筋肉の鎧がつき始めていた。
だが、どれだけ腕を太くしても、どれだけ胸板を厚くしても、胸の奥に開いた巨大な風穴は埋まらなかった。
鏡を見る。
割れた鏡の破片に映る自分の顔。
頬の肉が削ぎ落とされ、目つきは獣のように険しくなった。
(まだ足りない……こんなものじゃ、あいつを倒せない……)
拳を強く握り締める。
固く握り締めた拳は、何度も何度も床や壁に叩きつけられたことで角質が格闘家のように分厚く変質し、感覚を失いつつあった。
俺の手は、もう誰かと温かい手を繋ぐためのものではなくなっていたのだ。
この手は、いつかのあいつ殴るためのものだ。この肉体は、いつか全てを破壊するための「武器」なのだ。
暗闇の中で汗を流しながら、俺はただじっと、その牙を研ぎ続けていた。
それが、いつかあいつの首元を切り裂くためのものになると、自分は信じていたから。




