第7話 憎悪が生み出すもの
雨の音だけが、絶え間なく部屋の窓ガラスを叩いていた。
薄暗い六畳間の天井を見つめたまま、俺——蓮見陸は、何時間もピクリとも動かずに横たわっていた。
カーテンは閉め切られ、隙間から漏れ出る昼の光すら今の俺には酷く眩しく、不快だった。
部屋の中に満ちているのは、カビと汗の匂い、そして足の踏み場もないほどに散らかったゴミの異臭。
だが、そんな不衛生さすらどうでもよくなるほど、俺の心は完全に死に絶えていた。
あの雨の日。
ボロボロの顔で真央の家の勝手口にすがりつき、泣きながら「助ける」と訴えたあの日の光景が、頭の中で何度も、何度も凶器となって再生される。
『私、もう陸じゃ満足できないの』
第一ボタンまでしっかりと留められた、あの白く綺麗な制服。
黒髪を揺らし、儚げで清楚な佇まいのまま、真央の薄い唇から零れ落ちた冷酷な拒絶。
そして、その奥に確かに見えた、翔太という毒虫に身体を壊され、性衝動の沼へと自ら沈んでいく狂気的な歓喜の瞳。
「う……ぁ……っ」
喉の奥から、惨めな掠れ声が漏れ出た。
腕を伸ばし、自分の顔を覆い隠す。
指先が微かに震えていた。情けない。あまりにも惨めだった。
学校には、もう一ヶ月以上行っていない。
当然だ。あんな動画を見せられ、真央本人から面と向かって拒絶された俺が、どの面下げて学校に行けるというのだ。
クラスメイトたちの「あいつら付き合ってるんだろ」という呑気な冷やかしが、今では俺の脳みそを抉る。
俺たちが育んできた「両思い」という甘い関係。放課後に分け合った、甘い青春の味。
あの甘く透明だったはずの初恋は、指一歩動かせなかった俺の身勝手な臆病さのせいで、泥と屈辱の交じり合った悪臭を放つゴミクズへと変り果てていた。
「俺は……なんで……。」
暗闇に向かって呟く言葉は、虚しく壁に跳ね返ってくるだけだ。
先に好きだったから何だというのだ。先に好きだったからといって、権利が発生するわけではない。
相手の手を握り締め、自分のものだと世界に宣言する勇気すらないヘタレに、最初から恋を語る資格などなかったのだ。
翔太の奴は、俺のその弱さを見抜いていた。だからこそ、真央を奪った。
真央の肉体と精神を完膚なまでに弄び、俺に見せつけることで、俺という存在そのものを根本から踏み潰したのだ。
トントン、と部屋のドアが控えめに叩かれた。
「……陸? 入るわよ……」
母さんの疲れ切った声だった。
ギィ、とドアが少しだけ開き、廊下の眩しい光が暗闇の部屋に一本の筋を作った。
母さんは手にお盆を持ち、そこにはラップのかけられた冷めきった夕食が乗っていた。
「陸、お願いだから何か食べて……もう何日もまともにご飯食べてないじゃない。学校の先生からも、何度も電話が……」
母さんの声には、隠しきれない困惑と恐怖が混ざっていた。
部屋のゴミの山、異臭、そしてベッドの上で廃人のようにうずくまっている息子の姿。
かつて大人しく、真面目だけが取り柄だった息子が、突然こうして壊れてしまった理由を、母さんは何も知らない。
真央の家と何があったのか、なぜ突然口をきかなくなったのか、母さんは察しようとしてはいたが、本当のことなど口が裂けても言えるはずがなかった。
「……出ていけよ」
俺は低く、かすれた声で呟いた。
「陸、そんなこと言わないで……お父さんも心配してるのよ? 一度ちゃんと話し合って——」
「出ていけって言っただろ!!!」
俺は勢いよくベッドから跳ね起き、足元にあった空のペットボトルをドアに向かって全力で投げつけた。
ドカッ!
激しい音が部屋に響き渡り、母さんは「キャッ」と短い悲鳴を上げて引き下がった。
お盆の上のお椀がガシャンと音を立てる。
「来ないでくれ!! 俺に関わるな!! 失せろ!!」
俺は狂ったように叫び、近くにあった漫画やティッシュ箱を次々とドアの隙間へ向かって投げつけた。
母さんは怯えた顔で「ごめんなさい、ごめんなさい……」と繰り返し、慌ててドアを閉めた。
カチャリ、と外から鍵がかけられる音がした。
引きこもり始めてから、あまりの荒れように恐怖した両親が、俺が外に飛び出して暴れないよう取り付けた簡易的な鍵だ。
静寂が、再び部屋を支配する。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
肩を激しく上下させながら、俺は自分の吐息の荒さに耳を澄ませていた。
拳を強く握りしめる。爪が手のひらに食い込み、じわりと血が滲むのを感じた。
母さんに当たり散らして、何になるんだ?
心配してくれる親を脅かして、惨めな自分のプライドを守って、何になるというのだ?
俺の怒りは、本当は親に向けられたものじゃない。
翔太への殺意。真央への絶望。
そして何より——そんな二人に対して何一つ手出しできず、部屋で震えているだけの『自分自身の弱さ』に対する激しい反吐が出そうなほどの嫌悪感だ。
暗闇の中、俺はゆっくりとベッドから床へ下りた。足元に転がるゴミを踏みつけながら、壁の前に立つ。
姿見が、今の俺を表している。
そこに映っていたのは、目元に酷いクマを作り、頬はこけ、ボサボサの髪を生やした、見るも無惨な俺自身の姿だった。
「……これが、俺なのか?」
弱そうだ。あまりにも弱そうだった。
ひょろりと細い腕、薄い胸板。こんな身体で、あの粗暴で暴力に慣れ切った翔太に勝てるはずがなかったのだ。
包丁を持ち出したところで、簡単に手首を蹴り上げられ、顔面を踏み潰されるのは当然だったのだ。
俺は弱かった。
心も、体も、意志も、何もかも。すべてが弱かったから、初恋を奪われた。俺が弱かったから、真央は壊された。
俺が弱かったから、あいつらに嘲笑われ、踏みにじられたのだ。
「あああ……あああああッ!!!」
俺は抑えきれない衝動のまま、鏡の中の自分の顔面に向かって右拳を叩きつけた。
ガシャアンッ!!!
鋭い音が部屋に響き渡り、鏡が蜘蛛の巣状に亀裂を深め、破片が床に飛び散った。
右手の拳から赤黒い血が滴り落ち、床を赤く染めていく。痛みが頭を突き刺したが、胸の奥で渦巻く屈辱の痛みに比べれば、そんなもの、痛くなどないはずだ。
血の滴る拳を見つめながら、俺の頭の中で何かが吹っ切れた音がした。
悲しむのは、もうやめだ。
泣くのも、後悔するのも、自分を哀れむのも、今日で全部終わりだ。
俺の初恋は死んだ。
あの清楚で優しかった真央も、もうどこにもいない。
なら、俺も死ぬべきだ。
そうさ、かつての無力で臆病だった「蓮見陸」は、今日ここで死ぬのだ。
俺は床に散らばった鏡の破片を踏みつけ、暗闇の中でただひたすらに……。
「一……二……三……」
床に手を突き、胸が床につきそうになるまで身体を沈め、一気に押し上げる。
俺に足りないのは力だ。手のひらの傷から血が溢れ、床に赤黒いシミを作っていく。
激痛が走る。腕の筋肉が叫びを上げる。だが、俺は止まらなかった。
「四……五……六……」
床を押し上げるごとに、翔太の嘲笑う顔を思い浮かべる。
床を押し上げるごとに、真央がハメ撮り動画で見せた淫らな表情を思い浮かべる。
何度も何度も、自分の胸に突き刺さった屈辱の言葉を思い浮かべる。
絶望を、殺意に変えろ。悲しみを、肉体を壊すための燃料に変えろ。
「十……十一……十二……!」
息が荒くなり、汗が血と混じって床に滴り落ちる。ひょろひょろだった腕が悲鳴を上げ、激しく震え始める。
だが、俺は身体を止めることを自分に許さなかった。
痛いか? 苦しいか?
だったら思い出せ。目の前で初恋の相手を奪われ、足元で踏みつけられたあの屈辱を。
あの時の屈辱に比べれば、筋肉が千切れる痛みなど、我慢できるだろう。
「三十……三十一……!」
俺は歯を食いしばり、血と汗の混ざった泥のような床の上で、ただひたすら身体を追い込み続けた。
外では、雨が依然として強く降り続いていた。
だが、その暗い部屋の底で、俺を縛りつけていた過去のすべてが崩れ去り、憎悪だけを燃料にして動く新たな怪物が、静かに産声を上げようとしていた。
この肉体疲労の果てに何があるのか、俺はまだ知らないが、ただ、自分の中の「弱さ」を殺すためだけに、俺は暗闇の中で拳を突き出し続ける。




