第6話 噂のあの子を染める快楽
教室を飛び去った真央の後ろ姿を見送ったあの日から、俺の時間は止まっていた。
学校へ行っても授業の言葉は頭を素通りし、隣の席でノートを取る真央の横顔を見るたび、胸を鋭利な刃物で削り取られるような痛みに苛まれる。
真央は相変わらず黒髪を整え、隙のない制服姿で「清楚な優等生」を演じ続けていた。だが、その背後に漂う影の濃さに、俺だけが気づいていた。
「気持ち悪いの」
真央に突きつけられた冷酷な一言が、耳奥で無限に繰り返される。
俺が臆病だったから。俺が手すら握らなかったから。
俺が「両思い」という甘い幻想に溺れていたから、真央をあんな場所に追いやってしまったのか。
自分を責める暗い感情が、俺の精神を内側から泥のように蝕んでいった。
その夜、事件は起きた。
日付が変わる直前、自分の部屋のベッドで天井を仰いでいた俺のスマートフォンが、ブッと重く震えた。
画面を開くと、見覚えのない捨てアカウントからのダイレクトメッセージが届いていた。
テキストはないが、ただ一通の、数分間の動画ファイルが添付されているだけだった。
嫌な予感がして、心臓が早鐘を打ち始める。指先がガタガタと震え、画面をタップするのを拒んでいた。
だが、抑えきれない嫌悪と執着に突き動かされ、俺は動画の再生ボタンを押してしまった。
画面が暗転し、粗い画質の映像が動き出す。映し出されたのは、あまりにも見覚えのある光景だった。
真央の部屋。幼い頃、二人で何度も宿題をし、将来の夢を語り合ったあの部屋のベッドの上だった。
「あっ……あ……っ、翔太くん……っ!」
スピーカーから漏れ出たのは、耳を疑うような淫らな喘ぎ声だった。
画面の中には、学校と変わらない制服を着たままの真央が映っていた。しかし、その表情は俺の知らないものだった。
頬を真っ赤に染め、瞳は熱っぽくトロりと潤み、汗で黒髪を額に張り付けながら、自ら翔太にしがみついている。
画面の端には、三脚に固定されたスマホに向かって不敵な笑みを浮かべる翔太の顔があった。翔太は真央の黒髪を強引に引っ張り、カメラのレンズに直視させながら嘲笑う。
「ほら見ろよ真央姉ちゃん、カメラの向こうで陸兄ちゃんが見てるぞ。清楚な優等生様が、中学生の俺の体がないと生きていけなくなりましたって言ってみろよ」
「ん……ッ! 陸……見ないで……。翔太くんのが……すごく……いいの……っ♡」
真央の口から零れ落ちたのは、絶望と狂気に満ちた肯定の言葉だった。
恐怖に怯えていたはずの真央が、カメラの前で、自ら翔太の体にしがみつき、与えられる激しい刺激に歓喜の悲鳴を上げている。
逃れられない恐怖と脅迫の末に、肉体が完全に快楽へと従属させられ、自暴自棄の性衝動に溺れ狂っている姿が、そこにははっきりと記録されていた。
動画は、真央が淫らな叫び声を上げて翔太の腕の中で崩れ落ちるところで途切れた。
「う、あ……ぁ……」
俺の口から、情けない声が漏れた。
スマホが手から滑り落ち、床に乾いた音を立てる。視界が激しく揺れ、胃袋の中身が喉元まで逆流してきた。
俺は床に膝をつき、激しい吐き気に襲われながら胃液を吐き散らした。
初恋の思い出。二人で分け合ったイチゴキャンディの味。清楚で儚げだった彼女の笑顔。
そのすべてが、たった一本のハメ撮り動画によって、悪臭を放つ汚泥の中に叩き落とされた。
画面の中で快楽に狂っていたのは、間違いなく俺の好きだった白石真央だった。
俺の愛した彼女は、枯れたのではなく、泥の中で淫らに咲き誇る、毒花へと変果てていたのだ。
◇◆◇
喉を焼く胃液の味と、頭を直接殴られたような激痛の中で、俺の意識は狂気へと塗り替えられていった。
絶望は、やがて煮えたぎるような殺意へと変わった。
許さない。翔太の奴を絶対に許さない。真央を壊し、俺の人生を泥で塗り潰したあいつを、この手で殺してやる。
翌日の放課後、俺は正気を失った目で校舎を出た。カバンの中には、自宅のキッチンから持ち出した刃渡り十五センチの包丁が忍ばせてあった。
手汗で固くなったカバンの持ち手を強く握りしめ、俺は翔太が溜まり場にしている裏通りの空き地へと足早に向かった。
夕闇が街を黒く染め始めていた。
空き地のタバコの煙と吸い殻が散乱するベンチで、翔太は仲間の中学生数人とスマホを眺めて笑っていた。
「翔太!!」
俺は咆哮し、カバンから包丁を引き抜いて翔太へ一直線に飛びかかった。
なりふり構わない死に物狂いの突進。だが、日常的に暴力を振りかざしている翔太にとって、動揺に震える高校生の突撃など、あまりにも稚拙なものだった。
「っと、危ねえな」
翔太は身を軽く交わすと、俺の包丁を持つ手首を正確に蹴り上げた。
カツンと乾いた音がして、包丁が空を舞い、草むらへと落ちる。体制を崩した俺の腹部に、翔太の重い前蹴りが突き刺さった。
「ぐはっ……!?」
呼吸が止まり、俺は泥水の上に激しく倒れ込んだ。
視界が明滅する中、髪を掴まれて無理やり顔を上げさせられる。目の前には、勝ち誇った小悪魔のような翔太の嘲笑があった。
「なんだよ陸兄ちゃん。刃物なんて持ち出しちゃってさ〜、物騒だなあ。動画、見てくれたんだろ?」
「あいつを……真央を……返せ……ッ!」
俺は吐血混じりの唾を吐きかけようとしたが、翔太の容赦ない拳が顔面に叩きつけられた。鼻骨が折れる鈍い音が響き、視界が赤く染まる。
「返せ? ハッ、何言っちゃってんの? 俺が奪ったんじゃないぜ。真央姉ちゃんが自ら俺のところに走ってきたんだよ」
翔太は俺の頭を踏みつけ、地面に擦り付けながら耳元で酷薄に囁いた。
「最初はさ、脅されて泣いてたよ? でもさ、一度俺の味を覚えさせたら終わりだ。あいつ、お前みたいなヘタレじゃもう絶対満足できない体に仕上がってんだよ。学校じゃ清楚な顔して、裏じゃ俺の身体にしがみついて『もっと激しくして♡』って喘ぎ叫んでるぜ?」
「嘘だ……嘘だッ!!」
「嘘だと思うなら、また動画送ってやろうか? 最高の顔してイッてるやつ、まだ山ほどあるんだわ」
翔太は俺の腹をもう一度強く踏みつけると、嘲笑いながら仲間たちと去っていった。
雨が降り始め、泥水が俺の傷口を濡らす。
執拗な暴力の前に、俺は刃物すら振るえずに敗北した。
身体の痛みなどどうでもよかった。胸を押し潰すのは、翔太の言葉が「真実」であると、あの動画が証明してしまっているという絶望だった。
俺は泥の中に顔を埋めたまま、声を上げて泣いた。暴力でも、言葉でも、そして男としても。
俺は翔太に何一つ敵わなかった。初恋を奪われた男の惨めな咆哮だけが、誰もいない空き地に虚しく響いていた。
◇◆◇
顔中に痛々しい痛々しい傷と青あざを作ったまま、俺は雨の中を這うようにして真央の家へと向かった。
警察に行く気力すら残っていなかった。ただ、真央の口から「全部嘘だ」と言ってほしかった。
翔太の言葉を否定してほしかった。それが最後の救いになると信じたかったのだ。
真央の家の勝手口を叩く。何度も、何度も。やがて、ドアが静かに開き、真央が姿を現した。
真央は家にいる時ですら、整えられた黒髪に、シワ一つない清楚なワンピースを着ていた。その佇まいは相変わらず儚げで美しい「白石真央」そのものだった。
「陸……? その顔、どうしたの……」
真央の瞳が一瞬だけ揺れた。だが、俺が泥塗れの服で彼女の腕にすがりついた瞬間、真央の顔が冷めきった。
「真央……助けるから……俺が警察に言おう。あの動画も、翔太のことも、全部俺がなんとかするから……! だから、昔みたいに戻ろう……っ!」
俺はボロボロの顔で泣き叫び、真央の手を強く握りしめた。だが、真央はその手を、冷ややかに、しかし力強く振り払った。
「警察……? まだ言ってるの、陸」
「え……」
「動画のこと、見たんでしょ? なら、わかるでしょ」
真央は乱れた自分の黒髪を耳にかけながら、どこか遠くを見るような瞳で俺を見下ろした。その唇が、美しく、そして残酷に歪む。
「私、もう陸じゃ満足できないの」
「な……なに、言って……」
「翔太くんに抱かれて、知っちゃったんだよ。自分がどれだけ浅ましい女か。恐怖とかそういうのじゃなくて……私、翔太くんに壊されるのが、嬉しくてたまらないの」
真央は胸元に手を当て、どこか陶酔したような溜息をついた。
「陸は優しかったよ。でも、優しさじゃ私は満たされなかった。陸がもたもたしてる間に、翔太くんが私を犯してくれた。だからもう、救おうなんてしないで。惨めだよ、陸」
「嘘だ……! 嘘だろ真央!? お前、脅されて……!」
「脅されてないよ。今は、私から翔太くんを呼んでるんだから」
真央の瞳の奥にあったのは、狂気的な快楽への依存だった。
清楚な外見という皮を一枚隔てた内側で、真央の心身は翔太の与える暴力的な性衝動に完全に支配され、自らそれを求める怪物へと変貌していたのだ。
「もう二度と、私の家に来ないで」
バタン、と静かな音を立ててドアが閉められた。鍵がカチリと回る音が、二人の関係の完全な終焉を告げていた。
雨が俺の体温を奪っていく。
救いなど、どこにもなかった。彼女は被害者ではなく、自ら泥沼へと突き進む当事者となっていた。
俺が温め続けていた初恋の記憶は、完全に狂った性欲の前に破砕された。




